2020年12月30日水曜日

伊勢参宮名所図会 巻の四 外宮宮中の図 豊川

 



豊川 宮の西北に巡りたる川なり
豊受の宮に属す 故に豊川という 今は幅二丈ばかりの水流にして宮地の北を巡れり 〇宮中へ入るに東北に二つの橋あり 北御門橋は西にあり 一の鳥居口は東にあり 北御門橋のほとりを広小路という この川のほとりに神領古法の制札あり 北御門の傍らの西なる石垣は長さ十余間 高さ八尺ばかり 幅六尺あり 慶長四年大阪営中朝日殿という女子の寄付ありしという この石垣の東の端に兜石といえる小さき石あり いにしへ出陣には神前を拝してこの石を撫づる例ありしが知る人稀なり 近年ある侯家より尋ねありしを松木知彦神主知りて教えられしとぞ いにしへの石垣に等しき土手は慶安の頃常晨長官築かれしという

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慶長4年は1599年  慶安年間は1648年から1652年
北御門(きたみかど)といっても門があるわけではなさそうです。現在も外宮の入り口には東西の橋があり、西は火除橋(ひよけばし)、東は表参道火除橋と呼ばれています。明治時代まで、この辺りまで民家が立ち並んでいたそうで、火災の際に延焼を食い止めるため、お堀の川と橋は重要でした。現在、両方の橋の手前も外宮の敷地で、砂利が敷かれた広場になっています。また、今のお堀はとても小さいのですが、本文によれば川幅はおよそ2丈あったと書いてあります。2丈といえば、6メートルもあったことになります。川が小さくなったのは、宮川の治水が進んだことと関係があるのでしょうか。

北御門の火除け橋の両側には古い石垣があり、特に西側では直角に交わる、ひときわ大きな石を積み上げた石垣があります。衛士見張所があって真ん中はとぎれており、高さは人の腰位、石垣の上は大きな木が植えられています。高さ八尺などはとうていありませんが、その古さと石の大きさには迫力を感じます。これが朝日殿が寄付したという石垣の一部ではないかと思いましたが、想像の域を出ません。他にも石垣はあり、参宮名所図会の絵と大体一致しています。

火除け橋の東側の石垣は短く、苔に覆われた土手に変わります。現在、北御門と表参道のあいだは駐車場になっていて、駐車場の境内側の通路を歩くと、この土手に沿って歩くことが出きます。この土手の終わりは平らな石に覆われて補強されていました。これを見て、宮川の突出し提にも同じような構造があったと思い出しました。宮川の突出し提は江戸時代に築かれたものですが、この土手も同じ頃のものではないかと思われます。

北御門付近 火除け橋と石垣


北御門、表参道間の土手


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宮川は昔、伊勢平野では幾筋もの支流となって流れていました。その中で伊勢平野を横切って勢田川に合流する川が清川と豊川でした。

清川は、山田衢衢之図でみると、小川町辺りから現れて、筋向橋、今の社、月夜見宮の北を流れていたと思われます。月夜見宮より上流はまだ未確認ですが、月夜見宮の北、県道37号線に平行している新道商店街の駐車場は、かつて川が流れていた所の上にあるそうです。この流れが清川と思われますが、現在は、コンクリートに蓋をされていて見えません。新道商店街の始まる踏み切り付近で川が現れ、線路の下をくぐって踏切の向こう側に出て、吹上方面に流れていきます。八軒通り手前で再び暗渠となりますが、50年前に近くに住んでいた夫の話では、この辺りの家々の玄関前には川があったそうです。今は道路が舗装され全くわかりません。吹上ポンプ場で勢田川に合流しているようです。

豊川は、外宮宮域を堀のように巡り、一度勾玉池と合流した後再び流れ出て、茜社参道入口付近に現れると思っていましたが、これは少々違っていました。濱口主一さんの「伊勢山田散策 ふるさと再発見」の本によると、豊川は、上社北側の堀が源流の名残で、そこから浦口、八日市場を経て外宮に達していましたが、生活排水によって汚染がすすんだため外宮に不浄水が流れるとして、明治35年に現在のNTTビルの南から流れを切り替え、茜社入口まで暗渠になっているということです。したがって、火除け橋の下を流れる川は、今は豊川とは直接につながってはおらず、勾玉池を出たところで豊川と合流しているということになります。川幅が小さくなった理由がよくわかりました。
さて茜社入口付近から流れ出た豊川は、御木本道路を渡って、ハローワーク、商工会議所、百五銀行付近を流れ、小田橋と簀子橋の間で勢田川と合流します。古市に向かう伊勢街道と並行するように、その北側を流れています。昔、伊勢街道を歩く人からも、その川面が見えたことでしょう。外宮境内のお堀の川は森に囲まれて少し暗いのですが、小さな美しい川です。市街に出たとたんに生活排水で汚れ、どぶ川のようになってしまうのは、とても残念です。この川が外宮から流れてきたという事さえ、知らない人が多いのではないでしょうか。勢田川を含めて、清流をよみがえらせたいものです。


清川 月夜見宮の北 新道駐車場
  

              清川 線路下をくぐる


清川 吹上ポンプ場手前 道路の下



 北御門付近 (旧豊川)


表参道付近(旧豊川)


豊川 百五銀行付近


 












2020年12月29日火曜日

伊勢参宮名所図会 巻の四 離宮院舊趾 月讀宮 高河原社 舘町

離宮院舊趾 宮後にあり 或いは大神宮宮司と号す 或いは大神宮の御厨と号す 神領の年貢調布をおさめ、官人是を検領して事事の料に充て量る所なり 故にいにしへは内中外院の殿舎門垣等その数甚だ多き所なり 小俣の離宮院は是を移したるなり

〇離宮院に坐す中臣氏社四座 鹿島武雷命 香取齋主命 平岡天児屋根命 拷幡千々姫。今称する所は春日明神なり


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離宮院跡とは、伊勢斎宮の離宮のあった場所です。斎宮は伊勢神宮から20キロ程も離れていたため、伊勢神宮に向かう斎王が途中で宿泊する場所が離宮院でした。構内には、大神宮司(今の神宮司庁)、御厨、諸司の官舎駅馬院など置かれており、大勢の人が働く一大官庁街だったそうです。

離宮院は元は山田原沼木郷高河原(現在の伊勢市宮後 月夜見宮のあたり)にありましたが、水害のため797年(延暦16年)湯田郷宇羽西村(宮川左岸、現在の伊勢市小俣)に移転したそうです。その後、鎌倉時代以降に斎宮の廃絶により離宮院も荒廃していったということです。現在月夜見宮のあたりには何も残っていませんが、小俣では離宮院公園が整備され、土塁の一部が残されています。

離宮院公園内の土塁跡

また、公園の西に官舎神社があります。官舎神社は、797年離宮院が創設された際、神宮祭主大中臣氏が、中臣氏祖神の春日明神を離宮院西方に遷座したのが始まりということです。祭神は春日神(春日大社の祭神)の四柱の神ですが、明治以降は小俣村の村社等が合祀され、小俣の産土神社として信仰されています。

官舎神社

公園内の官舎神社参道 


まったく関係のない事ですが、官舎神社の鳥居は真っ白に塗られています。周囲の市街地と隔絶された深い緑の森の中、清楚な色が目を引きます。春日大社の社殿や鳥居はあざやかな朱塗り。鳥居の色は、お祀りしている神様とは関係がないのですね。










月讀宮 宮後北の端の森にあり 所祭月夜見命荒魂命二座なり 外宮四所の別宮なり 仔細内宮月讀宮の条に弁ず

新古今 さやかなる鷲のたかねの雲井よりかげやわらぐる月讀の森 西園寺入道太政大臣

風雅 とこやみをてらす御かげのかわらぬは今もかしこき月よみの神 後宇多院

高河原社 一名河原野国生神 月讀宮地の内 東の方にあり 外宮摂社十六社の内なり 所祭月讀の御魂


月夜見宮


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西園寺入道太政大臣は誤りで西行の歌です。鷲のたかねとはインドの霊鷲山(釈迦が説法したという山)をさすそうです。かげ和らぐるとは、仏語の和光同塵より、仏が威光を和らげて神の姿になるという事でしょうか。鷲の高嶺の雲の間より届く仏の威光は和らいで(月讀の神となり)、清らかに月讀の森を照らしている という意味かなと思いました。 

余談ですが、「かげやわらぐる」という言葉が気になって検索してみると、偶然にも欣浄寺の御詠歌が出てきました。
 和らぐる神の光の影みちて秋に変わらぬ短か夜の月  伝法然
「仏の御慈悲は神の姿となって人々を守り導き、念仏をすすめています。今その神の御威光が満ち満ちています。月は秋のようにこうこうと輝き、その月の光の中で、神の御威光つまり阿弥陀様の御慈悲の光を身と心でいただいて夜の更けるのも忘れて念仏申し続けました」という意味だそうです。法然が伊勢に参籠した際に詠んだ歌といわれています。西行の歌と情景が似ています。
他にも
 和らぐる光にあまる影なれや五十鈴河原の秋の夜の月  前大僧正慈円
 和らぐる光を花にかざされて名をあらはせるさきたまの宮  西行 

「やわらぐる光」という言葉には特別な意味があるようです。


舘町 上中下あり 月よみの宮より外宮へ参ればこの舘町へもどるなり 一志 宮後 田中 前野 四町に属す この舘といえる事は 昔 正権禰宜・内人の斎館なりしかども 今は斎館なし 旧名を呼んで神事の時は神官此の所に齋宿するなり 右の横道を経て外宮の入口北御門に至る およそ参宮道は北御門と一の鳥居との二道なれども 一の鳥居より参詣するを本式とす 舘町の内に札の辻ありて、是山田の真ん中にて諸方への行程里数幾許ありという事ここを本とす 此の所に御公儀より法令御制札あり 札の辻という 昔この辺り並木にて人家稀なりし時 前野村 松原崎などと号せしとぞ その名は今にのこれり


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江戸時代末期の山田衢衢之図に札辻という辻が見えます。一の鳥居の正面で、現在の外宮参道最後の信号か前庭の辺りと思います。昔はここが山田の中心で、高札が掲げられ、人の往来も多くにぎやかな場所だったという事で、テレビの時代劇の一場面を連想してしまいます。

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これも余談ですが、月夜見宮から外宮を結ぶ道は神路通りと呼ばれています。月夜見の神様が外宮へ通われるとき、石垣の石を白馬に変えて白馬に乗って行かれるそうです。この道を通る人は神様に出会わないように、道の真ん中を避けて端を歩いたと伝えられています。今でも神路通りは月夜見宮からまっすぐ外宮の北御門に通じています。真ん中の舗装の色が違うので、真ん中を通るのは何か憚られるような気がします。さて、観光案内版には古くから言い伝えられていると書いてありますが、伊勢参宮名所図会では触れていません。山田衢衢之図や山田惣門図にも、外宮と月夜見宮を結ぶ真っすぐな道はありますが、神路通りの名はありません。神路通りについては、江戸時代初期の外宮祠官が書いた勢州古今名所集に記されているのが最も古いようです。当時はごく限られた範囲の地元の伝承だったのかもしれません。もちろん今でも伊勢の人しか知らない話なのですが。






















2020年12月18日金曜日

伊勢参宮名所図会 巻の四 山田 下馬橋 厭離山欣浄寺 正法寺 三宝寺

山田 外宮神前の町をいう 仔細画上にいえり
下馬橋 昔 公卿勅使をはじめ参向のとき外宮の御前なれば下馬する所なり そのころ民居少なくして 此の所より外宮一の鳥居の見えけるにや また 此の所の東岸北の側に柳の大樹一株ありて宗祇の発句に
 駒とめてしばし影ふむ柳かな
しかるに享保中 この樹に妖怪ありとて 伐り倒したりという

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外宮の宮域を有する豊川町の旧町名は下馬所前野町です。下馬所は参拝者が馬をおりた場所、前野は外宮前の原野を意味するということです。伊勢ぶらりという地図アプリにある江戸時代末期の山田衢衢之図をみると、伊勢街道の一の鳥居付近に前野、その北の辺りに下馬所という町名が記されています。また下馬所と岩淵との境界に橋があり、これが下馬橋と思われます。現在、川はなくなっているのですが、おそらく外宮前郵便局の辺りと推測しました。
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宗祇  室町時代の連歌師


厭離山欣浄寺 越坂寺町にあり 浄土宗圓光大師弘法の道場なり この寺に日輪の名号あり その他 霊宝数多あり 縁起ながければ是を略す

正法寺 二俣にあり 本尊観音 臨済家 鎮守田村丸の社 大同2年 田村丸の建立という

三宝寺 山田の中 世義寺より十五町西 本尊不動明王 真言宗にて寺号山号来由すべて世義寺と相同じ 塔頭六坊あり 士佛参詣記に山田三宝院に止宿すと記せし所なり

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現在の欣浄寺は一の木にあります。法然上人二十五霊蹟の第十二番だそうです。
圓光大師=法然上人 弘法とは仏語で、仏の教えを世間に広めること。
日輪とは太陽 名号とは仏や菩薩の名。浄土教ではとくに阿弥陀仏の称号をいい、六字名号南無阿弥陀仏がよく知られています。名号を唱えることが念仏で、浄土に往生できるとされているそうです。
日輪の名号とは
法然上人が浄土宗を開宗した年、念仏が広く伝わることを願って伊勢神宮に参篭した際、この地に籠って念仏を唱え続けた7日目の朝、法然上人の前に大きな日輪が現れて、その中央に六字の名号(南無阿弥陀仏)が金色に燦然と光っていたそうです。これを見て、念仏の教えは神の意にもかなっていると大変喜び、自らその様子を写して外宮に納めたそうです。これが日輪の名号と呼ばれるもので、今は欣浄寺に保管されているそうです。

もともと欣浄寺は一の木にありましたが、1671年の山田大火の後、越坂に移転させられました。これは山田奉行所が、多くの寺院が外宮宮域近くにあるのは好ましくないとして、焼失を機に廃寺または移転を命じたためで、越坂には欣浄寺の他にも複数の寺院が移転させられていました。欣浄寺は明治の廃仏毀釈の際には廃寺になりましたが、その後復興され、大正時代に現在の一ノ木に移転したということです。

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正法寺は明治の廃仏毀釈で廃寺になり、現存しません。今の中島小学校の辺りにあったと思われます。田村丸(坂上田村麻呂)は平安時代初期に実在した武人ですが、史実からかけ離れた物語や伝説の英雄として語られ、また寺院の縁起にも数多く登場し、その信憑性は低いそうです。

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三宝寺も明治の廃仏毀釈で廃寺になりました。八日市場の市立図書館の前に三宝院跡という石碑が立っています。石碑に伊勢大神宮参詣記で知られると書いてあります。ただし、伊勢大神宮参詣記(大神宮参詣記ともいう)は坂十仏の作品で、子の士仏の作とするのは誤りだそうです。
世義寺より15町西と書いてありますが、世義寺も大火のあとの1671年に別の地に移転しており、伊勢参宮名所図会が発行されたのは1797年ですから、100年以上も前になくなっているはずです。1772年の宇治山田之図を見ると、世義寺跡地というのは記されています。

2020年3月30日月曜日

伊勢参宮名所図会 巻の四 中島 久留山威勝寺

中島 
堤ぎわ 京町のさし入り 田丸口の渡しより入り左の横道中川原へ出る道なり 南の後ろに小太郎の池というあり  向川の橋ありて是より中野に至る 向川とは向河原にある橋といえる事なり。

久留山威勝寺
山田上之郷久留町にあり 真言宗にて本尊不動明王古仏なり 左の坂の上に薬師堂あり 俗に峰の薬師という 一説胸の薬師 塔頭祠あり 林泉の絶景
〇昔 久留嘉左衛門威勝(おしかつ)という人建立せし故に寺号とす その後再建より今のごとく広大になりて大覚寺の末寺僧正蹟とはなれり 客殿は長谷川等室画に本堂の天井には人の手足の形多く赤き色にて一面に見えたり 是を俗に三好討ち死にの時の血に染みたるを天井とせしという また洛の養源院にも桃山の血天井といへりものあり 又堺の寺にもこの類あり ここを以って思うに是 木理自然の斑文にして血に染みたるにはあらざるべし
〇二王門外の右に長峰山大日寺とて六十六部の経を納むる所あり 昔は間山常明寺鳥居の前にありしという
〇この寺の上に塚山という岩窟あり その上に別所寺山あり この山の白川を隔つ所を卒都婆廣といいて廟所あり 又和泉式部が古墳 又瓶五輪というもあり 又この上を二黒という この外 名だたる所多し 和泉式部の塚は今他所にうつす

〇下総守長秀同孫三郎頼澄墓
中島町裏通寺の内にあり 永正5年四月十一日当所において北畠中納言材親卿と合戦し討負け自害しける跡なり 俗にこれを三好塚という長秀頼澄は三好筑前守元長入道の子なり


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中島は 田丸口の渡し(上の渡し)から入ってすぐの町です。伊勢本街道の続きで、辻久留、二俣、浦口を通って筋向橋にでます。ここで中川原から堤世古を通ってくる伊勢街道と合流します。これとは別に、上の渡しを出てすぐ左にまがり、京町を通ってまっすぐ中川原とつながる道もありました。この二つの街道のおかげで中島はたいそう賑わったそうです。
また街道の南に小太郎池という池があったそうです。この池は山田奉行所が宮川本堤を築く際に土砂を採取した跡に水が溜まってできたそうです。昭和になって埋め立てられ、現在は住宅地になっています。池はなくなっていますが、池から流れ出ていた川は今も流れていて、暗渠になっているところもありますが、桧木尻川につながり、勢田川に合流していきます。
下は江戸時代末頃の山田衢衢之図です。小太郎池と流れ出る川、橋が見えます。橋の名は違いますが、橋を渡ると中野にはいることが示されているので、向川の橋ということでしょう。ここには現在は小川橋という名の橋が架かっています。コンクリートの橋ですが、小さな古い擬宝珠がつけられていて昔の街道であったことが偲ばれます。

➡ 上の渡しから街道にはいる
 中川原から京町を経てくる道
➡ 威勝寺

京町という地名はバス停留所名にみられます
京町の通りに残る街道の松並木

小川橋



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明治政府の神仏分離政策により、宇治、山田では寺院が厳しく排除され、多くの由緒ある寺院が廃寺に追い込まれています。威勝寺も明治3年に廃寺となりました。広大であった寺域は失われていますが、境内にあった池と再建された客殿の遺構が久留山荘と名付けられ残っています。私有地のため、以前は塀に閉ざされ立ち入ることができませんでしたが、最近は塀が取り払われ、庭園跡に入ることができます。うっそうとした大木に囲まれた庭は、昼でもうす暗く、池には倒木がそのまま横たわり、建物も傷んできているようで、荒れた感は否めないのですが、通路の草は刈られ、立ち入る事を容認していただいているようなので、ありがたいことと思います。池には弁財天の祠があり、小さな弁財天の木像が安置されています。かつてこの祠には八臂で眷属を従えた弁財天像が祀られていたそうで、祠の中にその写真が添えられていました。また祠の内壁や扉には、それぞれに色あざやかな龍の絵が描かれていて、写真を撮ろうと光をあてると思わず息をのむほどの美しさです。伊勢山田散策(濱口主一氏著)によると、祠は昭和10年代頃のものだそうです。

上図をみると 大日寺、ヤクシ、アキバという文字が見えます。現在でも 池の左に登っていく坂があり、荒れた草むらですが小さな平地に出ます。薬師堂があったところかもしれません。そこから透き通った水をたたえた池が見えます。かつての林泉の絶景とはこれかと想像しました。平地の背面は宅地化されていますが、もう少し坂が続きます。アキバとは秋葉大権現のことで、天明年間の頃からこの辺りに祀られていたそうです。今はありませんが、この山は秋葉山と呼ばれています。威勝寺はこの山の北に位置するわけで、昼も薄暗いのはそのためだったと気が付きました。




そのほかの塚山、別所寺山、卒都婆廣、廟所、和泉式部古墳 瓶五輪については詳細不明です。ただ、秋葉山の東に谷を隔てて天神丘と呼ばれるもう一つの小さな山があり、東側の斜面から山頂まで墓石で埋め尽くされた墓地となっています。ここは小町塚経塚があった所で、平安時代後期の瓦経が多数出土しています。(重要文化財として京都、東京国立博物館所蔵されています)
卒都婆廣、廟所とは天神丘辺りをさしているのかもしれないと思います。

江戸時代の天明年間から瓦経の出土については知られていたそうですが、伊勢参宮名所図会では触れていません。秋葉山と天神丘の下にかつて参宮鉄道が走っており、そのトンネルが残っています。小町塚経塚は天神丘トンネルの左手の墓地の中の階段を上がっていくと登り切ったところの開けた土地にあったようです。今は比較的新しい墓石が整然と並び、経塚の痕跡は全くありません。市の建てた石碑があるだけです。

吹上の善光寺の現本堂は、威勝寺本堂を移築したものだそうです。(伊勢山田散策)
また本尊の不動明王像は、明治29年 伊賀市の引谷山利生院 不動寺に奉迎されたとあります。(不動寺 由緒)

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下総守長秀は父の之長とともに、室町時代の後期、細川氏に仕えた武将です。(wikipediaによれば長秀の父は之長で、元長は弟または子)細川政元亡き後の後継争いで細川澄元を擁立して戦うも敗れ、弟の頼澄とともに伊勢山田に敗走、北畠材親の攻撃にあって自害に追い込まれたといいます。享年31歳。その墓所は不明です。中島町裏通寺というのも今のところわかりません。

2020年3月20日金曜日

伊勢参宮名所図会 巻之四 山田


山田(やまだ)
山田は十二郷の俗称なり
但し外宮儀式帳にいう山田が原なり
和名鈔にいう陽田は度会郡のうちの郷名にして山田とは別なり
山田は継橋 沼木 箕曲 この三にわたれり

威勝寺
大間広 一志
草名伎神社  国生社  大間社   清の井庭社

藤岡山
上ノ御井社
宮後
新月読宮 高川原社

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山田は ようだ やうだ などと発音されたそうです。
山田とは外宮鳥居前町として発展した地域をさします。また古くより、外宮の鎮座する地域一帯を山田が原といいました。ここでは同じということになっています。

💬左ページ 
威勝寺が奥に描かれています。その手前に家が立ち並び人々の往来する伊勢街道、さらに手前に大間広、草薙神社、大間国生神社、清野井庭神社が描かれています。一志は町名です。
💬右ページ
いよいよ外宮の境内にある上ノ御井社が奥に描かれています。その背後の山は藤岡山(この山の名は初めて知りました)。伊勢街道は曲がっていて手前に月読宮と高河原神社があります。宮後は町名です。清野井庭神社と月読宮、すぐ近くのようですが、実際は1キロくらい歩かねばなりません。

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山田という地名は現在は残っていませんが、昭和30年までは伊勢市は宇治山田市という名でした。また、近鉄山田線、宇治山田駅、宇治山田高校、史跡としての山田奉行所など、今でもなお、なじみ深い言葉であります。

💬継橋 沼木 箕曲 
継橋は、現在の藤里北部を南西端とする瀬田川右岸域と比定されるそうです。沼木は一之木あたりを北限とする宮川右岸および支流の横輪川流域の領域と比定され、外宮が鎮座する所でもあります。箕曲は、現在の河崎 宮後 船江 竹ヶ鼻 馬瀬 神社 大湊 新開の地に比定されるそうです。(継橋は千年村プロジェクト、沼木、箕曲は角川地名大辞典三重県「旧地名編」より)おおざっぱに色分けしてみました。いずれも平安時代から見られる地名で、江戸時代もその一帯をよびあらわすのに使われていたそうです。しかし沼木を除いて、これらの地名は、現在はほとんど忘れられてしまったようです。およそ千年も続いていた地名なのに、消えてしまうのは残念な気もします。

沼木のうち、神園・円座・上野・横輪・矢持の集落は、明治になってからも沼木村として残り、昭和30年に伊勢市に統合されるまで存続していました。現在も伊勢市役所の沼木支所があり、また沼木まちづくり協議会が設立され、地域住民のための活動や観光PRなどの活動をしています。
箕曲は、箕曲神社(小木 ララパーク裏)、箕曲中松原神社(宇治山田駅前)の神社名に残っているだけと思われます。箕曲中松原神社の由来によると箕曲は、美乃、美野、あるいは勢田川が曲がるところを意味する、水曲(みのわ)に由来するそうです。
継橋については、現在の伊勢において、全くその名を見出すことができませんでした。発見したら書き足していくつもりです。


かなり広い地域にわたります。沼木の南端は横輪、箕曲の北端は大湊です。古代の山田原を想像してみると、人家もまばらで、沼木は森林地帯、箕曲は宮川の支流が網目をなす低地、継橋は宮川の三角州の外側で瀬田川によって箕曲とは隔てられた土地という感じでしょうか。



2020年3月4日水曜日

伊勢参宮名所図会 巻之四 中川原 堤世古

中川原
宮川の東にあり人家列なれり この東北なる高向村の内なり。 和名抄には高田と書けり 書写の誤りなり。この町の西 宮川の上に田丸口の渡しあり 是を中島口ともいう 磯村 上条の渡しあり 磯村の渡しを越えて高向村に出づる 此の所 古えの往還にや。中川原 中島 昔は宮川の川中なり

堤世古
中河原の次の町なり 世古とは他所にて小路 裏町などというがごとし
付言 神都にて横道、小路を世古という事についての話「下馬の橋という西北に日本藤六屋の世古という古名あり いつのころにや此の所の者 難風に会うて朝鮮へ吹き流されけるが 彼の地より故郷の老母へ便宜ありて文通するその表名に 日本藤六屋の世古母へ参る と記せり 是を日本にて知るものなかりしに 世古ということ勢州山田の方言なることを聞きて ついに達す これ西川恕見翁が夜話草に見えしジャガタラ文または康頼が卒徒婆の類にして共に孝心の至りと云うべし。今は下馬所町という 夜話草


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中川原は、桜の渡しを渡ったところの町です。下流側にある高向村(たかぶくと読みます)の一部でした。現在、中川原は高向から別れ、宮川町といいます。
田丸口の渡しとは上の渡しのことと思われます。桜の渡しよりおよそ1キロほど上流にあります。上の渡しは伊勢本街道を通ってくる人々に利用され、田丸は伊勢本街道の一つ手前の大きな宿場町でした。田丸へ通じるという意味で田丸口と呼ばれたのでしょう。また上の渡しは中島にあったので、中島口とも呼ばれたと思われます。
磯村の渡し、上条の渡しというものもありました。磯村の渡し跡は、現在の宮川大橋付近にあり、対岸の磯村と高向を結んでいました。高向から伊勢街道を経て外宮に行くルートもかつてはあったそうです。上条の渡しはさらに下流にあり、主に地元の人々に利用されていました。


中河原は中島町と接していましたが、その境界に逆さ楠と呼ばれた楠がありました。大方は枯れて小さくなっていますが、かつては巨大な楠だったようで、その幹の太さには驚きます。今も楠大明神として宮川提にあり、地元の人に大切にされています。



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中川原を過ぎると、堤世古を通り、筋向橋に向かいます。
世古は山田の方言とあります。私は伊勢で育った人間ではないのですが、世古とはよく耳にする言葉で、小さな路地を指していると思います。当時の世古は、もう少し大きい道、○○通りくらいの意味かなと思います。
筋向橋は、上の渡しをとおる伊勢本街道と、下の渡し(桜の渡し)をとおる伊勢街道の合流地点です。ここからは一つの道を神宮に向かって進みます。
堤世古は現在その地名は残されていません。筋向橋につづく伊勢街道がそれに相当するはずですが、古い街道は途切れてしまってたどることができません。地図で見ると筋向橋の手前の細い道がその一部と思われます。




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下馬所町は現在の豊川町で、町のほとんどが外宮の境内となっています。藤六屋世古のあった場所は豊川町から分離して本町になっています。外宮の正面、参道の終わりにある信号の右手前に藤六屋世古を示す石碑が立っています。
石碑には、「昔、長崎の港に外国から「日本藤六屋世古母へ参る」という便りが届いたが 世古の名が伊勢山田の方言と知られていたため、無事その家に届けられた」と記されています。
ジャガタラ文とは、西川恕見の夜話草で紹介された、鎖国時にジャカルタに追放された混血児の娘が日本の故郷へ送った手紙のこと 
康頼が卒塔婆とは、平家転覆を企てた罪で鬼ヶ島へ流された平康頼が、故郷の老母を思い詠んだ歌を千本の卒塔婆に書いて海に流したところ、その1本が厳島神社に流れ着き、清盛に赦免されたという話のこと


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古代、宮川の河口は大きなデルタ地帯を形成していました。川は枝分かれして網の目のように流れていました。中川原や中島はもとより、伊勢の人々はほとんど中州の上に住んでいたようなものです。たびたびの洪水や、宮川は洪水のたびに流れが変わったというのも、うなずけるように思います。





2020年3月3日火曜日

伊勢参宮名所図会 巻之四 大間国生神社 大間広 草薙社 清野井庭神社

大間国生神社(おおまくなりのじんじゃ)(東は大間神社 西は国生神社)
大間は大若子命(おおわくごのみこと)国生は乙若子命(おとわくごのみこと)を祀る
大間広は左の森にあり  
大若子命は一名大幡主命(おおぼたぬしのみこと) 乙若子命は一名加夫良居命(かぶらいのみこと)という  度会氏の祖なり 大間広町の左の森にあり

大間広 上中郷の領下 堤世古の入り口にして左の方へ至る横道なり

草薙社
大間の社の西にあり 祭所 標剣仗(ひょうけんじょう)なり 越に凶賊ありし時 垂仁天皇の御代 大若子命に詔して討ちせしめ給いし剣なり されば日本武尊命の故事を擬して後世草薙と称するか 標剣杖は 標はしるしなり 剣杖は兵仗にして後には節刀という 叛く者ある時朝廷より将たる者をえらまれ これにしるしの剣を賜り 向かって征伐せしむ 此の事  禰宜補任に見ゆ 標剣仗の事は元々集に見えたり 節刀の事は禁秘抄にあり 
付言
内宮の神山より掘り出せる剣頭石といえる奇石あり 伝えて素戔嗚尊の剣の頭という 誠しからずといえど昔の頭槌の剣なるや知らず 谷川士清が勾玉考にも弁ありて三輪山にも堀得ることありとぞ 是を宇治山中氏の人の許に得て見しなり 頭槌剣のこと 日本記 古事記等に見えたり

清野井庭社 大間社の東 人家の裏にあり 祭所 草野姫の神にて草の霊なり 外宮摂社十六社の内 俗に小間の社という 大間に対しての俗称なるべし


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大間国成神社と草薙社は、大間広と呼ばれる台地の上の同じ社地にあります。鳥居をくぐると石垣が正面にあり、その向こうに、向かって右に大間国生神社、左に草薙社があります。また、大間国生神社は一つの玉垣の中に二つの社殿が建っていて、右(東)が大間社、左(西)が国生社です。大間社は大若子命、国生社は乙若子命を祀っています。大若子命は外宮の祭祀を司ってきた度会氏の遠祖とされています。

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大間広は現在の山田上口駅の南に広がる台地状の土地をいうそうですが、実際にどこからどこまでか、台地という地形も、まったくわかりません。堤世古の入り口で左にはいる横道と書かれていますが、このあたりは空襲で焼けたそうで、道は整備され、古い街道はなくなっています。ただ地図を眺めていると、左、左、左と、3回も繰り返されているように、伊勢街道を歩いて来て、この辺りで左の横道に入らないと大間広の神社を通り越してしまいそうです。


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草薙社は標剣仗を祀っています。大若子命が、越国の賊徒 安彦を平定する際に、垂仁天皇より賜った剣です。日本武尊命にちなんで草薙と命名されたという説があります。標はみしるしという意味。兵仗は戦うための武器。節刀は、天皇が出征する将軍や大使に持たせた任命の印としての刀のことだそうです。
「草薙」という表記は今日では「草奈伎」に統一されているそうです。祭神は御剣仗神(みしるしのつるぎのかみ)というそうです。

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大若子命についてまとめ
天日別命の子孫。天日別命は神武天皇の命を受けて伊勢国を平定、伊勢国造になったということです。
大若子命は、伊勢の国造として倭姫に同行して内宮鎮座をたすけ、神国造と神宮の初代大神主となりました。外宮の神主家の度会氏の祖先とされています。 朝廷より標剣仗を与えられ、越国の賊徒安彦を平定し、その功により大幡主の名を賜りました。
乙若子命について
大若子命の弟。倭姫に同行して内宮鎮座をたすけました。外宮の大神官をつとめました。

草奈伎神社は外宮摂社1位 大間国生神社は2位です。内宮鎮座に最も功労のあった倭姫は、大正時代まで祀る神社がなかったのに、大若子命 乙若子命は古くから祀られていました。度会氏の力ということでしょうか。

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頭槌(かぶつち くぶつち)の剣とは、古代の剣で、柄頭が槌状にふくらんでいる太刀をいうそうです。伊勢の国学者 谷川士清は、剣頭石という奇石が内宮の神山から掘り出され、この頭槌剣の頭であろうと考えました。また、三輪山でも剣頭石が掘り出されると述べています。しかし、この考えは現在では誤認とされ、剣頭石は、実は勾玉の一種で、子持ち勾玉と呼ばれ、おそらく祭祀に使用されたものと考えられています。古墳時代の集落跡から出土することが多いそうです。

頭槌剣
子持ち勾玉


内宮の神山 内宮の周囲に神山なる地名は見あたりません。内宮裏の神路山のことでしょうか。今のところ詳細不明です。

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清野井庭神社 大間社の西にあります。草野姫の神(かやのひめのみこと)を祀っています。草の霊ですが、ここでは清野は周辺の原野をさし、井庭は井堰をさしているそうです。近隣の灌漑用水を守る神として祀られていたようです。

2020年2月27日木曜日

伊勢参宮名所図会 巻之四 中川原




中川原
諸国の参詣人を御師より人を出し、ここに迎う。その御師の名 溝の名 組頭の姓名を書して この所の家ごとに抬牌(しるし)を出せしこと竹葦のごとし。 


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桜の渡し場から伊勢街道に出ると、そこは中川原と呼ばれる所です。参詣に訪れた人々はここで御師に迎えられ、いよいよ御師の案内による伊勢参りが始まるのです。ついに伊勢にやってきた喜び、期待、緊張、安心感、さまざまな思いがあったでしょう。ここもたくさんの人で賑わっていたようです。 

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中川原とは現在の宮川町です。また、宮川橋は桜の渡しと同じ場所に架橋されていますので、橋を渡ると、そのまま昔の伊勢街道につながっています。往来の中心は、新しくできた大きな橋と道路に移り変わっていきましたが、今でも地元の車はよく通ります。ゆったりとしたカーブは昔の街道の名残なのでしょう。



宮川橋橋詰から伊勢街道をみる





2020年2月26日水曜日

伊勢参宮名所図会 巻之四 土貢島

土貢島(とくしま)
俗にとうくという 〇慥柄南島のつづきなり 〇昔この島より柏をささげ 柏流しの神事という事 風宮にて行わる 七月四日なり 風日祈りの神事ともいう 〇柏の浮いて流るるは豊年とし 沈みかえるなどは凶年という伝う 〇長柏の事 説々多し
 
おもうこと とくのみしまの長柏 ながくぞ頼む ひろきめぐみを   寂阿

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土貢島についての記述は、まったく知らないことばかりです。まず、土貢島の地名が見当たりません。ただ慥柄のとなりに東宮という町があります。音が似ているので、調べると南島町史に、東宮はふるくは土貢と呼ばれていたという記述がありました。また、ここは川村瑞賢の生まれた土地ですが、川村瑞賢の資料に、土貢島に引っ越したという文章がああり、土貢島は今の東宮でいいようです。さらに 南島町史によると、東宮は昔神宮の御厨であったそうです。御厨というのは、神饌の料を献納した神宮の領地だそうです。ならば柏を捧げたという記録もあるかと思えば、この地は特に「秘密のもの」を神宮に奉献する役目を負うていた、と書いてありました。しかも「秘密のもの」は 柏の葉に包まれ葛で結んであり、何であるのかは、著者も知らず、おそらく土の団子のようなものだろうと推測されています。?
 
柏流しの神事について、神宮要綱(神宮司廳 昭和3年)には、「・・・中世以降この日の神事を柏流しと称することあり・・・その縁由詳かにならざるのみならず又その行事一も史跡に徴すべきものなし」とあります。これは 柏流しの神事そのものの存在を否定しているのか、記録に値しないとしているのかわかりませんが、今は全く行われていないという事は間違いなさそうです。

短歌にある長柏について調べてみると、昭和4年の植物研究雑誌7号6巻(ツムラが発行している雑誌大正5年創刊、現在も発行)に投稿がありました。それによると、昔神事に使われたとする葉で、御綱柏、三角柏、とも呼ばれ、また食物や酒を盛る器としても使われ、志摩の土貢島から献納されていたと書かれています。柏が文献上にはじめて登場するのは古事記で、仁徳天皇の時代、仁徳天皇の皇后が豊楽(儀式の後の朝廷の宴会)のために柏をとりに紀州まで出かけた・・・というくだりがあるそうです。ここで古事記伝の解説が引用されています。
古事記伝の中で、本居宣長もこの柏についていろいろ調べて述べています。土貢島からは毎年忌物が献上されていて、その中に長柏がはいっていたという事、大神宮年中行事や神名秘書の書物に柏流しの神事の記載があり占いが行われていたという事、名所図会にでてくる上記の短歌も寂阿法師の歌として古事記伝で紹介されています。また、鴨長明の伊勢記に、長さ三尺の柏の葉をもらったという話があるそうで、本居宣長は、枝の長さの間違いか、葉なら三寸の間違いだろうと述べています。
植物研究雑誌の投稿者は、葉の長さ三尺であるとするなら長柏はオオタニワタリに違いないと述べています。

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オオタニワタリとは 紀伊半島以南から南西諸島に分布するシダの仲間だそうです。生息の北限が紀伊長島の大島という所で、絶滅危惧種に指定されているそうです。柏餅の葉とは違うのですね。昔は土貢島にも自生していて、伊勢に献納されていたのかもしれません。

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古事記伝には、長柏を 犬朴の木、赤芽柏とする考えもあり、さらに古代のものとは異なるかもしれないという意見も書いてあります。長柏の事、説説多しということでしょう。


寂阿という名をネットで検索すると、江戸時代の俳人の並木寂阿、鎌倉時代末期の武将の菊池武時(出家して寂阿)が出てきます。寂阿法師といえば 出家していた菊池武時のことと思われます。最後は討ち死にして亡くなるのですが、吉凶の占いに思う事とは、自身の命運なのでしょうか。ひろきめぐみを という言葉は、やはり多くの人々の幸福が長く続くように祈っていたのでしょう。
それから、鎌倉時代には 柏流しの神事が行われていたのかもしれません。



東宮は川村瑞賢の生誕地です。
川村瑞賢の公園とその周囲には 今の季節、河津桜が満開です。










2020年2月19日水曜日

伊勢参宮名所図会 巻之四 鸚鵡石

鸚鵡石  宮川の上 一之瀬谷 中村という所にあり
 宮川の上の渡し場より 三里さかのぼれば川口といって人家もあり この所 西は大杉谷 野尻 御瀬川より流れ来たり 東は駒ケ野川 一之瀬よりの落合なり 是より駒ケ野へ三里 鸚鵡石まですべて八里といえども山路難所にして春の一日も暮れに及べり 但し舟にて往来すればその労なし また 下りには急流なれば最も早く絶景いわんかたなし 別して駒ケ野より上は巌聳ち(そばだち)なかんずく中村の南 能見坂という所は 無双の勝景にして松島劣らじという その南に慥柄(たしがら)阿蘇などという村邑数多ありて常に往来繁く 山田の市中へ魚荷の出ること昼夜絶えず 山中ながら魚鼈(ぎょべつ)に乏しからずなり 又旧蹟あれどもこれを略す

石は山の半腹に偃然たり その高さ十余丈ばかりにて青黒なり その右手百間もあるべき所氈などしき その岩の上にいて物言い或いは弦歌鼓吹の音にも石中にものありて答うるごとし この奇石 千年伝播やや広くなりて桑原官長義卿の噂によりて詩記等を院の叡覧に入る時 霊元帝画師山本宗仙に仰せて屏風に描かせしめ その記を書付たりと云々 東涯随筆
〇漢名 是を響石といいて彼の国にももてあそぶ事とぞ
 近頃 磯部村に同石あれとも是にはおとれり


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川口は宮川と、支流の一之瀬川が合流するところです。宮川は上流の大杉谷より三瀬川など幾つかの集落を経て流れてきます。(野尻という地名は不明です) 川口から一之瀬川をさかのぼっていくと、駒ケ野を経て、一之瀬、南中村に至ります。
今なら、桜の渡し跡から南中村まで車でおよそ30分、そこから1キロ足らずの山道で鸚鵡岩です。当時は、八里、春なら日も暮れてしまう距離だったようです。
当時、駒ケ野から宮川河口の大湊まで、鵜飼船と呼ばれる船が物資や人を運んでいました。伊勢参宮名所図会では、駒ケ野まで、この船で行くことを勧めています。特に川下りは急流で早いし、景色もすばらしいと言っています。船は、郷土史草50号の写真によると長さ8間、15mほど、救命衣もない時代で、何て恐ろしいことかと思います。駒ケ野から上流は岩が多く船では行けないため、南中村までは歩かねばなりません。



鸚鵡石とは別に、南中村から南へは能見坂とよばれる険しい山路になります。屏風のようにつらなった山をこえると、沖は熊野灘に続く美しい海が見えたはずです。リアス式海岸で、複雑に入り組んだ半島や島々が、松島にも劣らないという絶景を作り出していたのでしょう
能見坂峠を越えると、志摩の海岸です。海で獲れた魚は、昼夜を問わず、徒歩で能見坂を超え、駒ケ野から船で伊勢の山田へ運ばれていたそうです。

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慥柄、阿曽という村々は、現在は南伊勢町に含まれます。新野見坂トンネルが開通して車で容易に行けるようになり、峠からの絶景を見るということは、なくなってしまったようです。しかし今も、この海辺の地域は本当に風光明媚で美しいところです。釣り人以外は訪れる人も少なく、手つかずの自然が残されています。



慥柄 中の磯展望台から道方、道行竃方面
道行竃


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鸚鵡石は巨大な岩で、高さ30メートル幅60メートルほどだそうです。地面に垂直に立ち、真下に行って触ることができます。かたり場といわれる岩があって、(百間も離れていないと思います。多分、数十mくらいです)その岩の上で何かを言うと、それが反響して聞こえてくる、というものです。江戸時代の儒学者伊藤東涯がここを訪れて詩を詠んでいますが、それが霊元上皇の知られる所となり、画師に屏風絵を書かせて、東涯が文を添えたということです。多くの文人がここを訪れているそうです。







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磯部の山にも鸚鵡石があります。こちらは、岩のふもと近くの語り場で話すと、反響し
て、離れている聞き場にいる人に聞こえるというものです。山の頂上から鸚鵡岩の上に上がれます。ここからの景色は、初夏ということもあって本当にきれいでした。
もちろん優劣はなくて、どちらも素晴らしいです。

磯部 鸚鵡石

鸚鵡石からの展望

2020年2月16日日曜日

伊勢参宮名所図会 巻之四 藤波里 御牧の小野 岩出里

藤波里(ふじなみのさと)
或記いはく 是は宮川ちかき沢地村の北に沢地の浅間という森あり その森の西の方 宮川の間に藤波家の屋敷跡あり その所を言うなり

内宮祠官新名所の歌合    藤波の里という題に
幾千代を松にちぎりて藤波の里の主も春を経ぬらん   荒木田長興
と詠ぜしも藤波家を祝しての挨拶と聞こえたり 判者権大納言藤原為世卿の判詞に里の主荒涼なりと 云々    右 勢陽雑記


御牧の小野(みまきのおの)
新名所歌合  春深きみまきの小野の浅茅生に松原こめてかかる藤波  荒木田成言
或記いはく この名所を藤波近郷の者に尋ねしに老いたる一両輩の言いしは藤波の里の川向かい宮川の端なる野を言い伝えたり 往昔 市守長者が旧跡という所 御牧の小野たりと答え侍りぬ云々  岩手の里のつづきなり

岩手里(いわでのさと)宮川舟わたしより 一里ばかり上なり 昔祭主の居給いし所にて古歌あり 古事諸々あり


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藤波の里は 桜の渡しから4キロほど上流、現在は佐八(そうち)と呼ばれるところの川岸にあったと思われます。神宮の祭主をつとめた大中臣氏は当初京都から赴任していましたが、平安時代の中頃からこの地や対岸の岩出周辺に屋敷を構え、地名を家名にして土着するようになったそうです。宮川が織りなす風雅な景観から藤波の里、岩出の里と呼ばれ、また強大な力を有した祭主の豪華な屋敷では歌合せ会が催され、その様子が、内宮祠官新名所絵歌合 に描かれています。(重要文化財 神宮徴古館蔵)およそ400年隆盛を極めますが、南北朝時代の混乱と国司北畠氏の台頭により、神宮祭主の権力は弱まり衰退していきます。 

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藤波の里は宮川によって形成された河岸段丘の台地の上にあるため、水害を受けることが少なかったと思われます。古くから人が住んでいたようで、縄文時代の石器が多数出土しており、佐八藤波遺跡として発掘調査されています。石器とともに。古墳時代の佐八藤波古墳群、平安末期頃の建物跡などが確認されています。現在は、神宮の苗園、畑となっていて、案内板が佐八小学校の敷地内に立っているだけです。昔をしのばせるものとしては、森というほどのものはありませんが、佐八の浅間さんの小さな社が近くにあります。御川神事の天忍穂海人を祀る宮本神社もこの近くにあります。畑の奥の茂みの中に、川に向かって小さな道があったので、辿っていくと、斜面をおりて、宮川の河原に出ることができます。ここから上流は河岸段丘が形成されていて、堤防がありません。人の手がはいっていない、昔の宮川の(もしくはそれに近い)風景が眼前に広がっています。

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御牧の小野について
御牧とは牧場のこと。奈良時代に天皇の勅使により開発された牧場で軍馬等の供給が目的だったそうです。主に東国におかれましたが、献上された馬を飼育するために、畿内にも近都牧が置かれていたそうです。延期式巻48に、国飼の軍馬数、伊勢国10疋と記されているそうです。ここに、そうした朝廷の牧場があったのかもしれません。
また、玉木町史 金子延夫著によると、御牧とは神宮の神馬放牧地であると書いてあります。田丸領名所調帳に「藤波の里の川向、宮川の端なる野を言い伝えたり」「岩出の渡し場から二三町西の長者山のあたり」とあります。神馬の放牧が目的なら神宮のある宮川の東、軍馬の放牧なら朝廷側の西に作るでしょうから、やはり始まりは、軍馬のための近都牧だったのかなと、勝手に考えます。
市守長者の旧跡とは長者が淵のことと思われます。「経塚のある瀬の山が宮川にせまるところ、岩手の南に深い淵がある」と玉木町史にありますが、はっきりとした場所はわかりません。いずれにせよ、御牧の里は、江戸時代でさえ言い伝えだけが残っている所なので、今は何もないのでしょう。ちなみに、現在は内宮外宮それぞれに境内に馬場があって、神馬はそこで飼われています。

(付足)神鳳鈔という神宮領地を書いた書物があります。そこに御厨、御薗、神田などとならんで御牧の言葉が見えます。たしかに伊勢では、同じ御牧という言葉でも、朝廷の牧場を考えなくてもいいようです。でも神馬の放牧地としても、どうやって馬を神宮のある東岸に渡らせたのか不思議です。佐八御牧という牧があったようです(角川日本地名大辞典旧地名編より)。でもここは若菜を備進する所だったそうです。御牧といっても馬はいなかったのかもしれないと思います。


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市守長者の民話  あらすじ
宮川で魚を取って暮らしていたおじいさんが、ある日、川底に黒いうるしあぶらが たくさんたまっているのを見つけました。うるしあぶらはとても貴重なものだったので、それを町で売るとたくさんの小判を手に入れることができました。おじいさんは、たちまち大金持ちになって贅沢な暮らしをするようになりました。そして、うるしあぶらを他の村人に取られたくないと思いました。おじいさんは大蛇の作り物を川の中において、村人に大蛇がいるから川に近づくなと嘘を言いました。そして、一人でこっそり、うるしあぶらを取りに行くと、作り物の大蛇は本当の大蛇になって、おじいさんをひとのみにしてしまいました。 おわり  玉城町の民話より

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荒木田氏は内宮神官、明治まで世襲しました。
外宮は度会氏が世襲。

2020年2月6日木曜日

伊勢参宮名所図会 巻之四 宮川





宮川 山田の入口なり 是より外宮北御門まで三十町 
一名 度会川(わたらいがわ)豊宮川(とよみやがわ)斉宮川(いつきのみやがわ)
                  源は和州 添下郡大(そふのしもこおりのおお)
台原 巴が淵やその他谷々より落ちて二見大湊に至る
里俗の書に
 北熊野 西は宮川 東風吹けば 吉野の川にまさるなり

渡し船は昼夜を分かたず 満水の時も両宮のうちより人を出し参詣人を渡さしむ
御遷宮の御時は舟橋をかくる
勅使参向の時ここに禊あり 又いにしえ三祭礼の前月  禰宜の大祓もここに勤仕す 諸国より参詣人 この川に浴して身を清むるもこれにならえり

新古今
 契りありて けふ宮川の ゆふかづら 永き世まても かけて頼まん   定家
新拾遺
 御禊する 豊宮川の 敷浪の 数より君を なほ祈るかな  朝勝


💬 宮川東岸の絵の次のページをめくると 宮川の紹介です。
名前の由来は、外宮である豊受大神宮の禊川であったことから豊宮川と呼ばれ、豊は略されて、現在は宮川となったようです。水源は大台ケ原です。上記では 和州(大和国)添下郡とありますが、大和国の北の地域をさすようなので、ちょっと違うかもしれません。

💬台原とは、大台ケ原のことと思われます。『吉野山独案内』(1671年)という本に、
大台ケ原に巴が淵というものがあって、吉野川 熊野川 宮川 三つの川の上流にあたる。周りのおいしげった藤の枝によって、西風が吹くと水は東へ流され宮川へ、東風が吹くと吉野川へ、北風が吹くと熊野川へ流れ出るとか と書かれているそうです。巴が淵がただ一つの水源というのは、あり得ないのですが、面白い風景だなぁと思います。

💬渡し場は大混雑だったようです。この渡し船は 大神宮の御馳走船といわれ、無料で、昼夜の別なく運行されていたそうです。

💬 和歌
新古今和歌集 
 前世からの宿縁があって、今日宮川(外宮)を参拝できました。髪にかけてあるゆうかずらのように、末永いご加護をお願いします。     藤原定家
  百人一首 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くやもしほの身もこがれつつ

新後拾遺和歌集
  度会 朝勝    南北朝時代 外宮禰宜



〇清盛堤  宮川の堤をいうなり いにしえは川幅広く故に この時の堤は今畑となりて字に残れり
元正天皇霊亀 清和貞観のころ 度々大風洪水せし事記録に見えたり  崇徳院大治3年勅して大宮三座および大河内神社、志登美神社を河水の守護と祀らせ給う このとき平清盛 命をこうむりて此の堤を築けり また弘治3年以来 度々洪水せり 近来には元文6年辛酉7月22日洪水数百丈 

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伊勢市HPより、宮川堤の歴史を調べると、最も古い洪水の記録は、717年(霊亀3年)8月16日の大風洪水のようです。清和天皇の貞観のころ、856年8月13日にも大風雨があり、その他幾度かの洪水の記録があります。1128年(大治3年)宮川堤の守護の功績により外宮摂社であった土社が、土宮として別宮に昇格したそうです。また、同じ年に外宮末社の志登美、大河内、打懸神社の祭神も宮川提の守護神として定められたようです。清盛が訪れたのは、もっと後で、1161年から65年にかけて勅使として参詣、惨状を聞いて堤防の改修に力を尽くし、此の堤を清盛堤と呼んだと言い伝えられているそうです。清盛提は江戸時代すでに取り崩されて畑になっているようですが、お伊勢さん検定のテキストによると、大間国生神社の後ろにある高まりは清盛提の名残と伝えられているそうです。



〇御川祭  毎年5月3日 これを鮎取りの神事という  
鎮座本記に渡相(わたらい)河原に 天忍穂海人(あまのおしほみと)という人 年魚(あゆ)を取りて神饌に蓄うとあり 今もその末の掃守氏(かもりうじ)の人あみを以って年魚取の式あり その詞 云わく
 みとの神の孫 櫛八たまの神を かしはでとして あまのみあえ奉る時 ほぎ申していはく 中略 たぐ縄のちひろの縄うちはへつり あまの くちひろのをひれのすずき さわさわと引きよせあげて さきたけのとををにあまる きなくひ 奉る  右古事記

坂士佛参詣記に けふ宮川舟橋をわたりゆかんと小俣田という里の北なる原をわけて 彼の川に至れば  掃守氏の人船を渡して離宮院の前に留め 夫れより参詣しけるこそ 彼の掃守は天忍海人命の末として そのかみ5月のはじめのころ年魚をとりて備えたる例と  下略

💬
御川神事は今は行われていません。宮川提公園散策マップに御川神事場跡が載っていますが、実際は草に覆われた堤防の斜面で何もありません。

天忍穂海人を祀る佐八の宮本神社の由緒によると、この地にいた漁夫に 宮川の鮎を御饌にして奉献せよ、という天照大神の勅令が下り、漁夫は漁をして鮎を奉献しました。その功により、天皇より天忍穂海人の名を賜ったということです。これが御川神事の始まりで、天忍穂海人の末裔とされる掃守氏が御川神事を継承していったようです。御川神事跡の近くにある浅間提の松井社境内に『掃守社舊蹟』の石碑が立っています。掃守社(祭神 天忍漁人命)がここにあって、明治に上社に合祀されたと記されています。
「天忍穂海人の末裔は掃守氏」というのは、雄略天皇の時代に天忍人命が宮廷の掃除の事を監したので掃守の姓を与えられたという逸話と似ていると思いました。掃うという言葉が、年魚取神事とどう関係するのか、よくわかりません。川守職というのが あったそうですが、いつしか川守が掃守にかわってしまったのでしょうか。

古事記の一節は
(大国主命の国譲りの条件として出雲に神殿を築いたときの場面)
水戸の神の孫の櫛八玉の神を料理人として(大国主命に)御饗を奉るとき、(櫛八玉の神が)祝辞を申して言うに、、、長いたぐ縄を延ばして海人が釣る、口の広い尾びれの張ったスズキをさわさわと引き上げて 折敷もたわむほどたくさんの高貴な魚の御饗を奉ります、、、
という内容です。御川神事と重なるところも多いかな。


💬
宮川は古くは洪水のたびに流れが変わったといわれています。離宮院跡のある台地のすそも、古くは川岸だったそうです。(玉木町史より)



2020年1月28日火曜日

伊勢参宮名所図会 巻之四 宮川東岸




宮川東岸  豊宮川とも云う

 風雅集
    君が代の しるしとこれも 宮川の 岸の杉むら 色もかはらず
                                後京極
 
 土祖神
     


💬 
 和歌 は 風雅集 賀 2218番 
 君が代の 永遠に変わらぬしるしと、これも見ることだ。岸の杉の木々は常緑で色も変わらない。 
 これも「見る」と 宮川の「みや」を 掛けています
 
 九条良経 通称 後京極摂政 平安末期から鎌倉時代の公卿・歌人 
   百人一首 きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣片敷 ひとりかも寝む

💬
宮川東岸 右岸 
 宮川は、氾濫を繰り返す「暴れ川」であったため、橋を架けることができず、伊勢にはいるためには、渡し舟で渡らなければなりませんでした。宮川には 上の渡し、下の渡し、磯の渡しという3つの渡し場があったそうです。伊勢街道を通ってきた人々は下の渡しを利用しました。下の渡しは、江戸時代より桜が多く植えられ、桜の渡しと呼ばれていました。この絵は、伊勢に入ってくる人々、帰っていく人々、迎え入れる人や茶店などで賑わう、桜の渡し場の風景と思われます。
 (磯の渡しの下流には 上条の渡しがあり、また、岩手にも渡し場があったそうで、参詣人が利用した3つの渡し場以外にも、たくさんの渡し場があったようです)
 
土祖神 
 道祖神のことでしょうか。今は見あたらないようです。
 大土乃御祖神(土の宮)ということもあるでしょうか
 玉城町史 金子延夫著 では 祭神は道祖神といわれているが堤防の守護神で、虫歯で痛む人達は有尓郷のほうろく(土器)をそなえて拝むと治るのでホウロク社と俗称したと、書かれています。
付足 角川地名辞典より 歯痛に霊験あらたかな山の神で明治42年今社に合祀されたとあります。

 桜の渡し跡は、宮川堤河川公園の下流のはずれの外にあり、まさに宮川橋の橋脚がたっているところと思われます。宮川堤改修工事で公園を広げ、このあたりは水辺の広場がつくられる予定らしいですが遅々として進まず、今も工事中で近寄りがたい荒れ地となっています。
それでも、新しい案内板が立っていました。


こちらは安藤広重の絵です。参宮名所図会の挿絵にも、この絵にも、画面の中央に棒堤が描かれています。これは江戸時代につくられた突出堤で(洪水の時に水の流れを変えて本堤を守るものだそうです)今も現存しています。土祖神(道祖神?)が見つかったら、そこに桜の渡しがあった証になるかと思ったのですが、残念ながら見つけられませんでした。ただ棒堤の終わり辺りに楠があるようで、そこかもしれないと推測しました。前述したように付近は荒れ地で入れないため、工事が終わるのを待ちます。


💬
 現在も宮川堤はさくらの名所として有名です。宮川堤河川公園として整備され、つい最近改修工事がおわった堤防からの眺めは広々として爽快です。堤防と河川敷の間には、およそ700本のソメイヨシノが植わっています。以前は堤防の上も桜のトンネルがあったのですが、工事のため伐採されて若木が新しく植えられています。
ところで、桜の渡し場跡付近には、杉の木は一本もありません。和歌の詠まれた時代はおよそ千年も昔のことです。この時代から、宮川の堤は築いては流されの繰り返しでした。より大きな堤防を築き、桜を植え、すっかり様変わりしてしまったようです。それでもこの本が出版された200年前にも、付近に「杉むら」があったのでしょう。広々とした堤防の上の舗装された道が、かつて、うっそうとした杉の木で覆われていたことを想像すると、戻ってほしいような気もします。

桜の渡し場から2キロほど上流の対岸に、杉の林がありました。また、こちら側も更に1キロ程行くと、人家の庭に古い杉の木が数本残っていました。
   
対岸の杉 夕方ですみません

伊勢参宮名所図会 巻之四 読みます

伊勢参宮名所図会は、寛政9年(1797年)、江戸時代に刊行された伊勢参宮の案内書で、数ある案内記や道中記の中で最も詳しい決定版ともいえるものだそうです。5巻からなり、巻一巻二では、京都の三条大橋を起点に東海道・伊勢別街道を通って伊勢参宮街道との合流点(津市上浜町付近)まで、巻三では桑名から宮川手前の小俣まで、伊勢に向かう街道沿いの地誌、社寺、名所旧跡などが絵入りで紹介されています。巻四では宮川を渡り、外宮、五十鈴川まで、巻五では内宮、朝熊、二見、伊勢志摩が紹介されています。

現代の伊勢を、昔の伊勢と比べながら見直してみるのは、きっと楽しいし、新しい発見があるのではないかと、ワクワクします。古文書は全くの素人の私にとっては難解ですが、身近な伊勢から、すなわち巻四から、読んでいきたいと思います。

書籍は 国立図書館コレクション 伊勢参宮名所図会 5巻(4)Kindle本 として購入しました。
110円 です。

表紙は 灰色がかった薄青 なんという色でしょう 縹 っていう色に近いかな。
  二見の夫婦岩が描かれています。
表紙裏に 変体仮名で何か書いてあるけど、これは保留。きっと、いつか読める。
次は目次ならぬ目録で、3ページにわたって、およそ140余りの項目が列挙されてます。

ページ数は、キンドルで104ページ。内容としては100ページ弱でしょう。