2020年2月27日木曜日

伊勢参宮名所図会 巻之四 中川原




中川原
諸国の参詣人を御師より人を出し、ここに迎う。その御師の名 溝の名 組頭の姓名を書して この所の家ごとに抬牌(しるし)を出せしこと竹葦のごとし。 


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桜の渡し場から伊勢街道に出ると、そこは中川原と呼ばれる所です。参詣に訪れた人々はここで御師に迎えられ、いよいよ御師の案内による伊勢参りが始まるのです。ついに伊勢にやってきた喜び、期待、緊張、安心感、さまざまな思いがあったでしょう。ここもたくさんの人で賑わっていたようです。 

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中川原とは現在の宮川町です。また、宮川橋は桜の渡しと同じ場所に架橋されていますので、橋を渡ると、そのまま昔の伊勢街道につながっています。往来の中心は、新しくできた大きな橋と道路に移り変わっていきましたが、今でも地元の車はよく通ります。ゆったりとしたカーブは昔の街道の名残なのでしょう。



宮川橋橋詰から伊勢街道をみる





2020年2月26日水曜日

伊勢参宮名所図会 巻之四 土貢島

土貢島(とくしま)
俗にとうくという 〇慥柄南島のつづきなり 〇昔この島より柏をささげ 柏流しの神事という事 風宮にて行わる 七月四日なり 風日祈りの神事ともいう 〇柏の浮いて流るるは豊年とし 沈みかえるなどは凶年という伝う 〇長柏の事 説々多し
 
おもうこと とくのみしまの長柏 ながくぞ頼む ひろきめぐみを   寂阿

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土貢島についての記述は、まったく知らないことばかりです。まず、土貢島の地名が見当たりません。ただ慥柄のとなりに東宮という町があります。音が似ているので、調べると南島町史に、東宮はふるくは土貢と呼ばれていたという記述がありました。また、ここは川村瑞賢の生まれた土地ですが、川村瑞賢の資料に、土貢島に引っ越したという文章がああり、土貢島は今の東宮でいいようです。さらに 南島町史によると、東宮は昔神宮の御厨であったそうです。御厨というのは、神饌の料を献納した神宮の領地だそうです。ならば柏を捧げたという記録もあるかと思えば、この地は特に「秘密のもの」を神宮に奉献する役目を負うていた、と書いてありました。しかも「秘密のもの」は 柏の葉に包まれ葛で結んであり、何であるのかは、著者も知らず、おそらく土の団子のようなものだろうと推測されています。?
 
柏流しの神事について、神宮要綱(神宮司廳 昭和3年)には、「・・・中世以降この日の神事を柏流しと称することあり・・・その縁由詳かにならざるのみならず又その行事一も史跡に徴すべきものなし」とあります。これは 柏流しの神事そのものの存在を否定しているのか、記録に値しないとしているのかわかりませんが、今は全く行われていないという事は間違いなさそうです。

短歌にある長柏について調べてみると、昭和4年の植物研究雑誌7号6巻(ツムラが発行している雑誌大正5年創刊、現在も発行)に投稿がありました。それによると、昔神事に使われたとする葉で、御綱柏、三角柏、とも呼ばれ、また食物や酒を盛る器としても使われ、志摩の土貢島から献納されていたと書かれています。柏が文献上にはじめて登場するのは古事記で、仁徳天皇の時代、仁徳天皇の皇后が豊楽(儀式の後の朝廷の宴会)のために柏をとりに紀州まで出かけた・・・というくだりがあるそうです。ここで古事記伝の解説が引用されています。
古事記伝の中で、本居宣長もこの柏についていろいろ調べて述べています。土貢島からは毎年忌物が献上されていて、その中に長柏がはいっていたという事、大神宮年中行事や神名秘書の書物に柏流しの神事の記載があり占いが行われていたという事、名所図会にでてくる上記の短歌も寂阿法師の歌として古事記伝で紹介されています。また、鴨長明の伊勢記に、長さ三尺の柏の葉をもらったという話があるそうで、本居宣長は、枝の長さの間違いか、葉なら三寸の間違いだろうと述べています。
植物研究雑誌の投稿者は、葉の長さ三尺であるとするなら長柏はオオタニワタリに違いないと述べています。

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オオタニワタリとは 紀伊半島以南から南西諸島に分布するシダの仲間だそうです。生息の北限が紀伊長島の大島という所で、絶滅危惧種に指定されているそうです。柏餅の葉とは違うのですね。昔は土貢島にも自生していて、伊勢に献納されていたのかもしれません。

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古事記伝には、長柏を 犬朴の木、赤芽柏とする考えもあり、さらに古代のものとは異なるかもしれないという意見も書いてあります。長柏の事、説説多しということでしょう。


寂阿という名をネットで検索すると、江戸時代の俳人の並木寂阿、鎌倉時代末期の武将の菊池武時(出家して寂阿)が出てきます。寂阿法師といえば 出家していた菊池武時のことと思われます。最後は討ち死にして亡くなるのですが、吉凶の占いに思う事とは、自身の命運なのでしょうか。ひろきめぐみを という言葉は、やはり多くの人々の幸福が長く続くように祈っていたのでしょう。
それから、鎌倉時代には 柏流しの神事が行われていたのかもしれません。



東宮は川村瑞賢の生誕地です。
川村瑞賢の公園とその周囲には 今の季節、河津桜が満開です。










2020年2月19日水曜日

伊勢参宮名所図会 巻之四 鸚鵡石

鸚鵡石  宮川の上 一之瀬谷 中村という所にあり
 宮川の上の渡し場より 三里さかのぼれば川口といって人家もあり この所 西は大杉谷 野尻 御瀬川より流れ来たり 東は駒ケ野川 一之瀬よりの落合なり 是より駒ケ野へ三里 鸚鵡石まですべて八里といえども山路難所にして春の一日も暮れに及べり 但し舟にて往来すればその労なし また 下りには急流なれば最も早く絶景いわんかたなし 別して駒ケ野より上は巌聳ち(そばだち)なかんずく中村の南 能見坂という所は 無双の勝景にして松島劣らじという その南に慥柄(たしがら)阿蘇などという村邑数多ありて常に往来繁く 山田の市中へ魚荷の出ること昼夜絶えず 山中ながら魚鼈(ぎょべつ)に乏しからずなり 又旧蹟あれどもこれを略す

石は山の半腹に偃然たり その高さ十余丈ばかりにて青黒なり その右手百間もあるべき所氈などしき その岩の上にいて物言い或いは弦歌鼓吹の音にも石中にものありて答うるごとし この奇石 千年伝播やや広くなりて桑原官長義卿の噂によりて詩記等を院の叡覧に入る時 霊元帝画師山本宗仙に仰せて屏風に描かせしめ その記を書付たりと云々 東涯随筆
〇漢名 是を響石といいて彼の国にももてあそぶ事とぞ
 近頃 磯部村に同石あれとも是にはおとれり


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川口は宮川と、支流の一之瀬川が合流するところです。宮川は上流の大杉谷より三瀬川など幾つかの集落を経て流れてきます。(野尻という地名は不明です) 川口から一之瀬川をさかのぼっていくと、駒ケ野を経て、一之瀬、南中村に至ります。
今なら、桜の渡し跡から南中村まで車でおよそ30分、そこから1キロ足らずの山道で鸚鵡岩です。当時は、八里、春なら日も暮れてしまう距離だったようです。
当時、駒ケ野から宮川河口の大湊まで、鵜飼船と呼ばれる船が物資や人を運んでいました。伊勢参宮名所図会では、駒ケ野まで、この船で行くことを勧めています。特に川下りは急流で早いし、景色もすばらしいと言っています。船は、郷土史草50号の写真によると長さ8間、15mほど、救命衣もない時代で、何て恐ろしいことかと思います。駒ケ野から上流は岩が多く船では行けないため、南中村までは歩かねばなりません。



鸚鵡石とは別に、南中村から南へは能見坂とよばれる険しい山路になります。屏風のようにつらなった山をこえると、沖は熊野灘に続く美しい海が見えたはずです。リアス式海岸で、複雑に入り組んだ半島や島々が、松島にも劣らないという絶景を作り出していたのでしょう
能見坂峠を越えると、志摩の海岸です。海で獲れた魚は、昼夜を問わず、徒歩で能見坂を超え、駒ケ野から船で伊勢の山田へ運ばれていたそうです。

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慥柄、阿曽という村々は、現在は南伊勢町に含まれます。新野見坂トンネルが開通して車で容易に行けるようになり、峠からの絶景を見るということは、なくなってしまったようです。しかし今も、この海辺の地域は本当に風光明媚で美しいところです。釣り人以外は訪れる人も少なく、手つかずの自然が残されています。



慥柄 中の磯展望台から道方、道行竃方面
道行竃


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鸚鵡石は巨大な岩で、高さ30メートル幅60メートルほどだそうです。地面に垂直に立ち、真下に行って触ることができます。かたり場といわれる岩があって、(百間も離れていないと思います。多分、数十mくらいです)その岩の上で何かを言うと、それが反響して聞こえてくる、というものです。江戸時代の儒学者伊藤東涯がここを訪れて詩を詠んでいますが、それが霊元上皇の知られる所となり、画師に屏風絵を書かせて、東涯が文を添えたということです。多くの文人がここを訪れているそうです。







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磯部の山にも鸚鵡石があります。こちらは、岩のふもと近くの語り場で話すと、反響し
て、離れている聞き場にいる人に聞こえるというものです。山の頂上から鸚鵡岩の上に上がれます。ここからの景色は、初夏ということもあって本当にきれいでした。
もちろん優劣はなくて、どちらも素晴らしいです。

磯部 鸚鵡石

鸚鵡石からの展望

2020年2月16日日曜日

伊勢参宮名所図会 巻之四 藤波里 御牧の小野 岩出里

藤波里(ふじなみのさと)
或記いはく 是は宮川ちかき沢地村の北に沢地の浅間という森あり その森の西の方 宮川の間に藤波家の屋敷跡あり その所を言うなり

内宮祠官新名所の歌合    藤波の里という題に
幾千代を松にちぎりて藤波の里の主も春を経ぬらん   荒木田長興
と詠ぜしも藤波家を祝しての挨拶と聞こえたり 判者権大納言藤原為世卿の判詞に里の主荒涼なりと 云々    右 勢陽雑記


御牧の小野(みまきのおの)
新名所歌合  春深きみまきの小野の浅茅生に松原こめてかかる藤波  荒木田成言
或記いはく この名所を藤波近郷の者に尋ねしに老いたる一両輩の言いしは藤波の里の川向かい宮川の端なる野を言い伝えたり 往昔 市守長者が旧跡という所 御牧の小野たりと答え侍りぬ云々  岩手の里のつづきなり

岩手里(いわでのさと)宮川舟わたしより 一里ばかり上なり 昔祭主の居給いし所にて古歌あり 古事諸々あり


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藤波の里は 桜の渡しから4キロほど上流、現在は佐八(そうち)と呼ばれるところの川岸にあったと思われます。神宮の祭主をつとめた大中臣氏は当初京都から赴任していましたが、平安時代の中頃からこの地や対岸の岩出周辺に屋敷を構え、地名を家名にして土着するようになったそうです。宮川が織りなす風雅な景観から藤波の里、岩出の里と呼ばれ、また強大な力を有した祭主の豪華な屋敷では歌合せ会が催され、その様子が、内宮祠官新名所絵歌合 に描かれています。(重要文化財 神宮徴古館蔵)およそ400年隆盛を極めますが、南北朝時代の混乱と国司北畠氏の台頭により、神宮祭主の権力は弱まり衰退していきます。 

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藤波の里は宮川によって形成された河岸段丘の台地の上にあるため、水害を受けることが少なかったと思われます。古くから人が住んでいたようで、縄文時代の石器が多数出土しており、佐八藤波遺跡として発掘調査されています。石器とともに。古墳時代の佐八藤波古墳群、平安末期頃の建物跡などが確認されています。現在は、神宮の苗園、畑となっていて、案内板が佐八小学校の敷地内に立っているだけです。昔をしのばせるものとしては、森というほどのものはありませんが、佐八の浅間さんの小さな社が近くにあります。御川神事の天忍穂海人を祀る宮本神社もこの近くにあります。畑の奥の茂みの中に、川に向かって小さな道があったので、辿っていくと、斜面をおりて、宮川の河原に出ることができます。ここから上流は河岸段丘が形成されていて、堤防がありません。人の手がはいっていない、昔の宮川の(もしくはそれに近い)風景が眼前に広がっています。

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御牧の小野について
御牧とは牧場のこと。奈良時代に天皇の勅使により開発された牧場で軍馬等の供給が目的だったそうです。主に東国におかれましたが、献上された馬を飼育するために、畿内にも近都牧が置かれていたそうです。延期式巻48に、国飼の軍馬数、伊勢国10疋と記されているそうです。ここに、そうした朝廷の牧場があったのかもしれません。
また、玉木町史 金子延夫著によると、御牧とは神宮の神馬放牧地であると書いてあります。田丸領名所調帳に「藤波の里の川向、宮川の端なる野を言い伝えたり」「岩出の渡し場から二三町西の長者山のあたり」とあります。神馬の放牧が目的なら神宮のある宮川の東、軍馬の放牧なら朝廷側の西に作るでしょうから、やはり始まりは、軍馬のための近都牧だったのかなと、勝手に考えます。
市守長者の旧跡とは長者が淵のことと思われます。「経塚のある瀬の山が宮川にせまるところ、岩手の南に深い淵がある」と玉木町史にありますが、はっきりとした場所はわかりません。いずれにせよ、御牧の里は、江戸時代でさえ言い伝えだけが残っている所なので、今は何もないのでしょう。ちなみに、現在は内宮外宮それぞれに境内に馬場があって、神馬はそこで飼われています。

(付足)神鳳鈔という神宮領地を書いた書物があります。そこに御厨、御薗、神田などとならんで御牧の言葉が見えます。たしかに伊勢では、同じ御牧という言葉でも、朝廷の牧場を考えなくてもいいようです。でも神馬の放牧地としても、どうやって馬を神宮のある東岸に渡らせたのか不思議です。佐八御牧という牧があったようです(角川日本地名大辞典旧地名編より)。でもここは若菜を備進する所だったそうです。御牧といっても馬はいなかったのかもしれないと思います。


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市守長者の民話  あらすじ
宮川で魚を取って暮らしていたおじいさんが、ある日、川底に黒いうるしあぶらが たくさんたまっているのを見つけました。うるしあぶらはとても貴重なものだったので、それを町で売るとたくさんの小判を手に入れることができました。おじいさんは、たちまち大金持ちになって贅沢な暮らしをするようになりました。そして、うるしあぶらを他の村人に取られたくないと思いました。おじいさんは大蛇の作り物を川の中において、村人に大蛇がいるから川に近づくなと嘘を言いました。そして、一人でこっそり、うるしあぶらを取りに行くと、作り物の大蛇は本当の大蛇になって、おじいさんをひとのみにしてしまいました。 おわり  玉城町の民話より

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荒木田氏は内宮神官、明治まで世襲しました。
外宮は度会氏が世襲。

2020年2月6日木曜日

伊勢参宮名所図会 巻之四 宮川





宮川 山田の入口なり 是より外宮北御門まで三十町 
一名 度会川(わたらいがわ)豊宮川(とよみやがわ)斉宮川(いつきのみやがわ)
                  源は和州 添下郡大(そふのしもこおりのおお)
台原 巴が淵やその他谷々より落ちて二見大湊に至る
里俗の書に
 北熊野 西は宮川 東風吹けば 吉野の川にまさるなり

渡し船は昼夜を分かたず 満水の時も両宮のうちより人を出し参詣人を渡さしむ
御遷宮の御時は舟橋をかくる
勅使参向の時ここに禊あり 又いにしえ三祭礼の前月  禰宜の大祓もここに勤仕す 諸国より参詣人 この川に浴して身を清むるもこれにならえり

新古今
 契りありて けふ宮川の ゆふかづら 永き世まても かけて頼まん   定家
新拾遺
 御禊する 豊宮川の 敷浪の 数より君を なほ祈るかな  朝勝


💬 宮川東岸の絵の次のページをめくると 宮川の紹介です。
名前の由来は、外宮である豊受大神宮の禊川であったことから豊宮川と呼ばれ、豊は略されて、現在は宮川となったようです。水源は大台ケ原です。上記では 和州(大和国)添下郡とありますが、大和国の北の地域をさすようなので、ちょっと違うかもしれません。

💬台原とは、大台ケ原のことと思われます。『吉野山独案内』(1671年)という本に、
大台ケ原に巴が淵というものがあって、吉野川 熊野川 宮川 三つの川の上流にあたる。周りのおいしげった藤の枝によって、西風が吹くと水は東へ流され宮川へ、東風が吹くと吉野川へ、北風が吹くと熊野川へ流れ出るとか と書かれているそうです。巴が淵がただ一つの水源というのは、あり得ないのですが、面白い風景だなぁと思います。

💬渡し場は大混雑だったようです。この渡し船は 大神宮の御馳走船といわれ、無料で、昼夜の別なく運行されていたそうです。

💬 和歌
新古今和歌集 
 前世からの宿縁があって、今日宮川(外宮)を参拝できました。髪にかけてあるゆうかずらのように、末永いご加護をお願いします。     藤原定家
  百人一首 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くやもしほの身もこがれつつ

新後拾遺和歌集
  度会 朝勝    南北朝時代 外宮禰宜



〇清盛堤  宮川の堤をいうなり いにしえは川幅広く故に この時の堤は今畑となりて字に残れり
元正天皇霊亀 清和貞観のころ 度々大風洪水せし事記録に見えたり  崇徳院大治3年勅して大宮三座および大河内神社、志登美神社を河水の守護と祀らせ給う このとき平清盛 命をこうむりて此の堤を築けり また弘治3年以来 度々洪水せり 近来には元文6年辛酉7月22日洪水数百丈 

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伊勢市HPより、宮川堤の歴史を調べると、最も古い洪水の記録は、717年(霊亀3年)8月16日の大風洪水のようです。清和天皇の貞観のころ、856年8月13日にも大風雨があり、その他幾度かの洪水の記録があります。1128年(大治3年)宮川堤の守護の功績により外宮摂社であった土社が、土宮として別宮に昇格したそうです。また、同じ年に外宮末社の志登美、大河内、打懸神社の祭神も宮川提の守護神として定められたようです。清盛が訪れたのは、もっと後で、1161年から65年にかけて勅使として参詣、惨状を聞いて堤防の改修に力を尽くし、此の堤を清盛堤と呼んだと言い伝えられているそうです。清盛提は江戸時代すでに取り崩されて畑になっているようですが、お伊勢さん検定のテキストによると、大間国生神社の後ろにある高まりは清盛提の名残と伝えられているそうです。



〇御川祭  毎年5月3日 これを鮎取りの神事という  
鎮座本記に渡相(わたらい)河原に 天忍穂海人(あまのおしほみと)という人 年魚(あゆ)を取りて神饌に蓄うとあり 今もその末の掃守氏(かもりうじ)の人あみを以って年魚取の式あり その詞 云わく
 みとの神の孫 櫛八たまの神を かしはでとして あまのみあえ奉る時 ほぎ申していはく 中略 たぐ縄のちひろの縄うちはへつり あまの くちひろのをひれのすずき さわさわと引きよせあげて さきたけのとををにあまる きなくひ 奉る  右古事記

坂士佛参詣記に けふ宮川舟橋をわたりゆかんと小俣田という里の北なる原をわけて 彼の川に至れば  掃守氏の人船を渡して離宮院の前に留め 夫れより参詣しけるこそ 彼の掃守は天忍海人命の末として そのかみ5月のはじめのころ年魚をとりて備えたる例と  下略

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御川神事は今は行われていません。宮川提公園散策マップに御川神事場跡が載っていますが、実際は草に覆われた堤防の斜面で何もありません。

天忍穂海人を祀る佐八の宮本神社の由緒によると、この地にいた漁夫に 宮川の鮎を御饌にして奉献せよ、という天照大神の勅令が下り、漁夫は漁をして鮎を奉献しました。その功により、天皇より天忍穂海人の名を賜ったということです。これが御川神事の始まりで、天忍穂海人の末裔とされる掃守氏が御川神事を継承していったようです。御川神事跡の近くにある浅間提の松井社境内に『掃守社舊蹟』の石碑が立っています。掃守社(祭神 天忍漁人命)がここにあって、明治に上社に合祀されたと記されています。
「天忍穂海人の末裔は掃守氏」というのは、雄略天皇の時代に天忍人命が宮廷の掃除の事を監したので掃守の姓を与えられたという逸話と似ていると思いました。掃うという言葉が、年魚取神事とどう関係するのか、よくわかりません。川守職というのが あったそうですが、いつしか川守が掃守にかわってしまったのでしょうか。

古事記の一節は
(大国主命の国譲りの条件として出雲に神殿を築いたときの場面)
水戸の神の孫の櫛八玉の神を料理人として(大国主命に)御饗を奉るとき、(櫛八玉の神が)祝辞を申して言うに、、、長いたぐ縄を延ばして海人が釣る、口の広い尾びれの張ったスズキをさわさわと引き上げて 折敷もたわむほどたくさんの高貴な魚の御饗を奉ります、、、
という内容です。御川神事と重なるところも多いかな。


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宮川は古くは洪水のたびに流れが変わったといわれています。離宮院跡のある台地のすそも、古くは川岸だったそうです。(玉木町史より)