2020年2月16日日曜日

伊勢参宮名所図会 巻之四 藤波里 御牧の小野 岩出里

藤波里(ふじなみのさと)
或記いはく 是は宮川ちかき沢地村の北に沢地の浅間という森あり その森の西の方 宮川の間に藤波家の屋敷跡あり その所を言うなり

内宮祠官新名所の歌合    藤波の里という題に
幾千代を松にちぎりて藤波の里の主も春を経ぬらん   荒木田長興
と詠ぜしも藤波家を祝しての挨拶と聞こえたり 判者権大納言藤原為世卿の判詞に里の主荒涼なりと 云々    右 勢陽雑記


御牧の小野(みまきのおの)
新名所歌合  春深きみまきの小野の浅茅生に松原こめてかかる藤波  荒木田成言
或記いはく この名所を藤波近郷の者に尋ねしに老いたる一両輩の言いしは藤波の里の川向かい宮川の端なる野を言い伝えたり 往昔 市守長者が旧跡という所 御牧の小野たりと答え侍りぬ云々  岩手の里のつづきなり

岩手里(いわでのさと)宮川舟わたしより 一里ばかり上なり 昔祭主の居給いし所にて古歌あり 古事諸々あり


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藤波の里は 桜の渡しから4キロほど上流、現在は佐八(そうち)と呼ばれるところの川岸にあったと思われます。神宮の祭主をつとめた大中臣氏は当初京都から赴任していましたが、平安時代の中頃からこの地や対岸の岩出周辺に屋敷を構え、地名を家名にして土着するようになったそうです。宮川が織りなす風雅な景観から藤波の里、岩出の里と呼ばれ、また強大な力を有した祭主の豪華な屋敷では歌合せ会が催され、その様子が、内宮祠官新名所絵歌合 に描かれています。(重要文化財 神宮徴古館蔵)およそ400年隆盛を極めますが、南北朝時代の混乱と国司北畠氏の台頭により、神宮祭主の権力は弱まり衰退していきます。 

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藤波の里は宮川によって形成された河岸段丘の台地の上にあるため、水害を受けることが少なかったと思われます。古くから人が住んでいたようで、縄文時代の石器が多数出土しており、佐八藤波遺跡として発掘調査されています。石器とともに。古墳時代の佐八藤波古墳群、平安末期頃の建物跡などが確認されています。現在は、神宮の苗園、畑となっていて、案内板が佐八小学校の敷地内に立っているだけです。昔をしのばせるものとしては、森というほどのものはありませんが、佐八の浅間さんの小さな社が近くにあります。御川神事の天忍穂海人を祀る宮本神社もこの近くにあります。畑の奥の茂みの中に、川に向かって小さな道があったので、辿っていくと、斜面をおりて、宮川の河原に出ることができます。ここから上流は河岸段丘が形成されていて、堤防がありません。人の手がはいっていない、昔の宮川の(もしくはそれに近い)風景が眼前に広がっています。

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御牧の小野について
御牧とは牧場のこと。奈良時代に天皇の勅使により開発された牧場で軍馬等の供給が目的だったそうです。主に東国におかれましたが、献上された馬を飼育するために、畿内にも近都牧が置かれていたそうです。延期式巻48に、国飼の軍馬数、伊勢国10疋と記されているそうです。ここに、そうした朝廷の牧場があったのかもしれません。
また、玉木町史 金子延夫著によると、御牧とは神宮の神馬放牧地であると書いてあります。田丸領名所調帳に「藤波の里の川向、宮川の端なる野を言い伝えたり」「岩出の渡し場から二三町西の長者山のあたり」とあります。神馬の放牧が目的なら神宮のある宮川の東、軍馬の放牧なら朝廷側の西に作るでしょうから、やはり始まりは、軍馬のための近都牧だったのかなと、勝手に考えます。
市守長者の旧跡とは長者が淵のことと思われます。「経塚のある瀬の山が宮川にせまるところ、岩手の南に深い淵がある」と玉木町史にありますが、はっきりとした場所はわかりません。いずれにせよ、御牧の里は、江戸時代でさえ言い伝えだけが残っている所なので、今は何もないのでしょう。ちなみに、現在は内宮外宮それぞれに境内に馬場があって、神馬はそこで飼われています。

(付足)神鳳鈔という神宮領地を書いた書物があります。そこに御厨、御薗、神田などとならんで御牧の言葉が見えます。たしかに伊勢では、同じ御牧という言葉でも、朝廷の牧場を考えなくてもいいようです。でも神馬の放牧地としても、どうやって馬を神宮のある東岸に渡らせたのか不思議です。佐八御牧という牧があったようです(角川日本地名大辞典旧地名編より)。でもここは若菜を備進する所だったそうです。御牧といっても馬はいなかったのかもしれないと思います。


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市守長者の民話  あらすじ
宮川で魚を取って暮らしていたおじいさんが、ある日、川底に黒いうるしあぶらが たくさんたまっているのを見つけました。うるしあぶらはとても貴重なものだったので、それを町で売るとたくさんの小判を手に入れることができました。おじいさんは、たちまち大金持ちになって贅沢な暮らしをするようになりました。そして、うるしあぶらを他の村人に取られたくないと思いました。おじいさんは大蛇の作り物を川の中において、村人に大蛇がいるから川に近づくなと嘘を言いました。そして、一人でこっそり、うるしあぶらを取りに行くと、作り物の大蛇は本当の大蛇になって、おじいさんをひとのみにしてしまいました。 おわり  玉城町の民話より

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荒木田氏は内宮神官、明治まで世襲しました。
外宮は度会氏が世襲。

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