2020年12月30日水曜日

伊勢参宮名所図会 巻の四 外宮宮中の図 豊川

 



豊川 宮の西北に巡りたる川なり
豊受の宮に属す 故に豊川という 今は幅二丈ばかりの水流にして宮地の北を巡れり 〇宮中へ入るに東北に二つの橋あり 北御門橋は西にあり 一の鳥居口は東にあり 北御門橋のほとりを広小路という この川のほとりに神領古法の制札あり 北御門の傍らの西なる石垣は長さ十余間 高さ八尺ばかり 幅六尺あり 慶長四年大阪営中朝日殿という女子の寄付ありしという この石垣の東の端に兜石といえる小さき石あり いにしへ出陣には神前を拝してこの石を撫づる例ありしが知る人稀なり 近年ある侯家より尋ねありしを松木知彦神主知りて教えられしとぞ いにしへの石垣に等しき土手は慶安の頃常晨長官築かれしという

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慶長4年は1599年  慶安年間は1648年から1652年
北御門(きたみかど)といっても門があるわけではなさそうです。現在も外宮の入り口には東西の橋があり、西は火除橋(ひよけばし)、東は表参道火除橋と呼ばれています。明治時代まで、この辺りまで民家が立ち並んでいたそうで、火災の際に延焼を食い止めるため、お堀の川と橋は重要でした。現在、両方の橋の手前も外宮の敷地で、砂利が敷かれた広場になっています。また、今のお堀はとても小さいのですが、本文によれば川幅はおよそ2丈あったと書いてあります。2丈といえば、6メートルもあったことになります。川が小さくなったのは、宮川の治水が進んだことと関係があるのでしょうか。

北御門の火除け橋の両側には古い石垣があり、特に西側では直角に交わる、ひときわ大きな石を積み上げた石垣があります。衛士見張所があって真ん中はとぎれており、高さは人の腰位、石垣の上は大きな木が植えられています。高さ八尺などはとうていありませんが、その古さと石の大きさには迫力を感じます。これが朝日殿が寄付したという石垣の一部ではないかと思いましたが、想像の域を出ません。他にも石垣はあり、参宮名所図会の絵と大体一致しています。

火除け橋の東側の石垣は短く、苔に覆われた土手に変わります。現在、北御門と表参道のあいだは駐車場になっていて、駐車場の境内側の通路を歩くと、この土手に沿って歩くことが出きます。この土手の終わりは平らな石に覆われて補強されていました。これを見て、宮川の突出し提にも同じような構造があったと思い出しました。宮川の突出し提は江戸時代に築かれたものですが、この土手も同じ頃のものではないかと思われます。

北御門付近 火除け橋と石垣


北御門、表参道間の土手


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宮川は昔、伊勢平野では幾筋もの支流となって流れていました。その中で伊勢平野を横切って勢田川に合流する川が清川と豊川でした。

清川は、山田衢衢之図でみると、小川町辺りから現れて、筋向橋、今の社、月夜見宮の北を流れていたと思われます。月夜見宮より上流はまだ未確認ですが、月夜見宮の北、県道37号線に平行している新道商店街の駐車場は、かつて川が流れていた所の上にあるそうです。この流れが清川と思われますが、現在は、コンクリートに蓋をされていて見えません。新道商店街の始まる踏み切り付近で川が現れ、線路の下をくぐって踏切の向こう側に出て、吹上方面に流れていきます。八軒通り手前で再び暗渠となりますが、50年前に近くに住んでいた夫の話では、この辺りの家々の玄関前には川があったそうです。今は道路が舗装され全くわかりません。吹上ポンプ場で勢田川に合流しているようです。

豊川は、外宮宮域を堀のように巡り、一度勾玉池と合流した後再び流れ出て、茜社参道入口付近に現れると思っていましたが、これは少々違っていました。濱口主一さんの「伊勢山田散策 ふるさと再発見」の本によると、豊川は、上社北側の堀が源流の名残で、そこから浦口、八日市場を経て外宮に達していましたが、生活排水によって汚染がすすんだため外宮に不浄水が流れるとして、明治35年に現在のNTTビルの南から流れを切り替え、茜社入口まで暗渠になっているということです。したがって、火除け橋の下を流れる川は、今は豊川とは直接につながってはおらず、勾玉池を出たところで豊川と合流しているということになります。川幅が小さくなった理由がよくわかりました。
さて茜社入口付近から流れ出た豊川は、御木本道路を渡って、ハローワーク、商工会議所、百五銀行付近を流れ、小田橋と簀子橋の間で勢田川と合流します。古市に向かう伊勢街道と並行するように、その北側を流れています。昔、伊勢街道を歩く人からも、その川面が見えたことでしょう。外宮境内のお堀の川は森に囲まれて少し暗いのですが、小さな美しい川です。市街に出たとたんに生活排水で汚れ、どぶ川のようになってしまうのは、とても残念です。この川が外宮から流れてきたという事さえ、知らない人が多いのではないでしょうか。勢田川を含めて、清流をよみがえらせたいものです。


清川 月夜見宮の北 新道駐車場
  

              清川 線路下をくぐる


清川 吹上ポンプ場手前 道路の下



 北御門付近 (旧豊川)


表参道付近(旧豊川)


豊川 百五銀行付近


 












2020年12月29日火曜日

伊勢参宮名所図会 巻の四 離宮院舊趾 月讀宮 高河原社 舘町

離宮院舊趾 宮後にあり 或いは大神宮宮司と号す 或いは大神宮の御厨と号す 神領の年貢調布をおさめ、官人是を検領して事事の料に充て量る所なり 故にいにしへは内中外院の殿舎門垣等その数甚だ多き所なり 小俣の離宮院は是を移したるなり

〇離宮院に坐す中臣氏社四座 鹿島武雷命 香取齋主命 平岡天児屋根命 拷幡千々姫。今称する所は春日明神なり


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離宮院跡とは、伊勢斎宮の離宮のあった場所です。斎宮は伊勢神宮から20キロ程も離れていたため、伊勢神宮に向かう斎王が途中で宿泊する場所が離宮院でした。構内には、大神宮司(今の神宮司庁)、御厨、諸司の官舎駅馬院など置かれており、大勢の人が働く一大官庁街だったそうです。

離宮院は元は山田原沼木郷高河原(現在の伊勢市宮後 月夜見宮のあたり)にありましたが、水害のため797年(延暦16年)湯田郷宇羽西村(宮川左岸、現在の伊勢市小俣)に移転したそうです。その後、鎌倉時代以降に斎宮の廃絶により離宮院も荒廃していったということです。現在月夜見宮のあたりには何も残っていませんが、小俣では離宮院公園が整備され、土塁の一部が残されています。

離宮院公園内の土塁跡

また、公園の西に官舎神社があります。官舎神社は、797年離宮院が創設された際、神宮祭主大中臣氏が、中臣氏祖神の春日明神を離宮院西方に遷座したのが始まりということです。祭神は春日神(春日大社の祭神)の四柱の神ですが、明治以降は小俣村の村社等が合祀され、小俣の産土神社として信仰されています。

官舎神社

公園内の官舎神社参道 


まったく関係のない事ですが、官舎神社の鳥居は真っ白に塗られています。周囲の市街地と隔絶された深い緑の森の中、清楚な色が目を引きます。春日大社の社殿や鳥居はあざやかな朱塗り。鳥居の色は、お祀りしている神様とは関係がないのですね。










月讀宮 宮後北の端の森にあり 所祭月夜見命荒魂命二座なり 外宮四所の別宮なり 仔細内宮月讀宮の条に弁ず

新古今 さやかなる鷲のたかねの雲井よりかげやわらぐる月讀の森 西園寺入道太政大臣

風雅 とこやみをてらす御かげのかわらぬは今もかしこき月よみの神 後宇多院

高河原社 一名河原野国生神 月讀宮地の内 東の方にあり 外宮摂社十六社の内なり 所祭月讀の御魂


月夜見宮


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西園寺入道太政大臣は誤りで西行の歌です。鷲のたかねとはインドの霊鷲山(釈迦が説法したという山)をさすそうです。かげ和らぐるとは、仏語の和光同塵より、仏が威光を和らげて神の姿になるという事でしょうか。鷲の高嶺の雲の間より届く仏の威光は和らいで(月讀の神となり)、清らかに月讀の森を照らしている という意味かなと思いました。 

余談ですが、「かげやわらぐる」という言葉が気になって検索してみると、偶然にも欣浄寺の御詠歌が出てきました。
 和らぐる神の光の影みちて秋に変わらぬ短か夜の月  伝法然
「仏の御慈悲は神の姿となって人々を守り導き、念仏をすすめています。今その神の御威光が満ち満ちています。月は秋のようにこうこうと輝き、その月の光の中で、神の御威光つまり阿弥陀様の御慈悲の光を身と心でいただいて夜の更けるのも忘れて念仏申し続けました」という意味だそうです。法然が伊勢に参籠した際に詠んだ歌といわれています。西行の歌と情景が似ています。
他にも
 和らぐる光にあまる影なれや五十鈴河原の秋の夜の月  前大僧正慈円
 和らぐる光を花にかざされて名をあらはせるさきたまの宮  西行 

「やわらぐる光」という言葉には特別な意味があるようです。


舘町 上中下あり 月よみの宮より外宮へ参ればこの舘町へもどるなり 一志 宮後 田中 前野 四町に属す この舘といえる事は 昔 正権禰宜・内人の斎館なりしかども 今は斎館なし 旧名を呼んで神事の時は神官此の所に齋宿するなり 右の横道を経て外宮の入口北御門に至る およそ参宮道は北御門と一の鳥居との二道なれども 一の鳥居より参詣するを本式とす 舘町の内に札の辻ありて、是山田の真ん中にて諸方への行程里数幾許ありという事ここを本とす 此の所に御公儀より法令御制札あり 札の辻という 昔この辺り並木にて人家稀なりし時 前野村 松原崎などと号せしとぞ その名は今にのこれり


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江戸時代末期の山田衢衢之図に札辻という辻が見えます。一の鳥居の正面で、現在の外宮参道最後の信号か前庭の辺りと思います。昔はここが山田の中心で、高札が掲げられ、人の往来も多くにぎやかな場所だったという事で、テレビの時代劇の一場面を連想してしまいます。

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これも余談ですが、月夜見宮から外宮を結ぶ道は神路通りと呼ばれています。月夜見の神様が外宮へ通われるとき、石垣の石を白馬に変えて白馬に乗って行かれるそうです。この道を通る人は神様に出会わないように、道の真ん中を避けて端を歩いたと伝えられています。今でも神路通りは月夜見宮からまっすぐ外宮の北御門に通じています。真ん中の舗装の色が違うので、真ん中を通るのは何か憚られるような気がします。さて、観光案内版には古くから言い伝えられていると書いてありますが、伊勢参宮名所図会では触れていません。山田衢衢之図や山田惣門図にも、外宮と月夜見宮を結ぶ真っすぐな道はありますが、神路通りの名はありません。神路通りについては、江戸時代初期の外宮祠官が書いた勢州古今名所集に記されているのが最も古いようです。当時はごく限られた範囲の地元の伝承だったのかもしれません。もちろん今でも伊勢の人しか知らない話なのですが。






















2020年12月18日金曜日

伊勢参宮名所図会 巻の四 山田 下馬橋 厭離山欣浄寺 正法寺 三宝寺

山田 外宮神前の町をいう 仔細画上にいえり
下馬橋 昔 公卿勅使をはじめ参向のとき外宮の御前なれば下馬する所なり そのころ民居少なくして 此の所より外宮一の鳥居の見えけるにや また 此の所の東岸北の側に柳の大樹一株ありて宗祇の発句に
 駒とめてしばし影ふむ柳かな
しかるに享保中 この樹に妖怪ありとて 伐り倒したりという

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外宮の宮域を有する豊川町の旧町名は下馬所前野町です。下馬所は参拝者が馬をおりた場所、前野は外宮前の原野を意味するということです。伊勢ぶらりという地図アプリにある江戸時代末期の山田衢衢之図をみると、伊勢街道の一の鳥居付近に前野、その北の辺りに下馬所という町名が記されています。また下馬所と岩淵との境界に橋があり、これが下馬橋と思われます。現在、川はなくなっているのですが、おそらく外宮前郵便局の辺りと推測しました。
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宗祇  室町時代の連歌師


厭離山欣浄寺 越坂寺町にあり 浄土宗圓光大師弘法の道場なり この寺に日輪の名号あり その他 霊宝数多あり 縁起ながければ是を略す

正法寺 二俣にあり 本尊観音 臨済家 鎮守田村丸の社 大同2年 田村丸の建立という

三宝寺 山田の中 世義寺より十五町西 本尊不動明王 真言宗にて寺号山号来由すべて世義寺と相同じ 塔頭六坊あり 士佛参詣記に山田三宝院に止宿すと記せし所なり

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現在の欣浄寺は一の木にあります。法然上人二十五霊蹟の第十二番だそうです。
圓光大師=法然上人 弘法とは仏語で、仏の教えを世間に広めること。
日輪とは太陽 名号とは仏や菩薩の名。浄土教ではとくに阿弥陀仏の称号をいい、六字名号南無阿弥陀仏がよく知られています。名号を唱えることが念仏で、浄土に往生できるとされているそうです。
日輪の名号とは
法然上人が浄土宗を開宗した年、念仏が広く伝わることを願って伊勢神宮に参篭した際、この地に籠って念仏を唱え続けた7日目の朝、法然上人の前に大きな日輪が現れて、その中央に六字の名号(南無阿弥陀仏)が金色に燦然と光っていたそうです。これを見て、念仏の教えは神の意にもかなっていると大変喜び、自らその様子を写して外宮に納めたそうです。これが日輪の名号と呼ばれるもので、今は欣浄寺に保管されているそうです。

もともと欣浄寺は一の木にありましたが、1671年の山田大火の後、越坂に移転させられました。これは山田奉行所が、多くの寺院が外宮宮域近くにあるのは好ましくないとして、焼失を機に廃寺または移転を命じたためで、越坂には欣浄寺の他にも複数の寺院が移転させられていました。欣浄寺は明治の廃仏毀釈の際には廃寺になりましたが、その後復興され、大正時代に現在の一ノ木に移転したということです。

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正法寺は明治の廃仏毀釈で廃寺になり、現存しません。今の中島小学校の辺りにあったと思われます。田村丸(坂上田村麻呂)は平安時代初期に実在した武人ですが、史実からかけ離れた物語や伝説の英雄として語られ、また寺院の縁起にも数多く登場し、その信憑性は低いそうです。

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三宝寺も明治の廃仏毀釈で廃寺になりました。八日市場の市立図書館の前に三宝院跡という石碑が立っています。石碑に伊勢大神宮参詣記で知られると書いてあります。ただし、伊勢大神宮参詣記(大神宮参詣記ともいう)は坂十仏の作品で、子の士仏の作とするのは誤りだそうです。
世義寺より15町西と書いてありますが、世義寺も大火のあとの1671年に別の地に移転しており、伊勢参宮名所図会が発行されたのは1797年ですから、100年以上も前になくなっているはずです。1772年の宇治山田之図を見ると、世義寺跡地というのは記されています。