2020年12月29日火曜日

伊勢参宮名所図会 巻の四 離宮院舊趾 月讀宮 高河原社 舘町

離宮院舊趾 宮後にあり 或いは大神宮宮司と号す 或いは大神宮の御厨と号す 神領の年貢調布をおさめ、官人是を検領して事事の料に充て量る所なり 故にいにしへは内中外院の殿舎門垣等その数甚だ多き所なり 小俣の離宮院は是を移したるなり

〇離宮院に坐す中臣氏社四座 鹿島武雷命 香取齋主命 平岡天児屋根命 拷幡千々姫。今称する所は春日明神なり


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離宮院跡とは、伊勢斎宮の離宮のあった場所です。斎宮は伊勢神宮から20キロ程も離れていたため、伊勢神宮に向かう斎王が途中で宿泊する場所が離宮院でした。構内には、大神宮司(今の神宮司庁)、御厨、諸司の官舎駅馬院など置かれており、大勢の人が働く一大官庁街だったそうです。

離宮院は元は山田原沼木郷高河原(現在の伊勢市宮後 月夜見宮のあたり)にありましたが、水害のため797年(延暦16年)湯田郷宇羽西村(宮川左岸、現在の伊勢市小俣)に移転したそうです。その後、鎌倉時代以降に斎宮の廃絶により離宮院も荒廃していったということです。現在月夜見宮のあたりには何も残っていませんが、小俣では離宮院公園が整備され、土塁の一部が残されています。

離宮院公園内の土塁跡

また、公園の西に官舎神社があります。官舎神社は、797年離宮院が創設された際、神宮祭主大中臣氏が、中臣氏祖神の春日明神を離宮院西方に遷座したのが始まりということです。祭神は春日神(春日大社の祭神)の四柱の神ですが、明治以降は小俣村の村社等が合祀され、小俣の産土神社として信仰されています。

官舎神社

公園内の官舎神社参道 


まったく関係のない事ですが、官舎神社の鳥居は真っ白に塗られています。周囲の市街地と隔絶された深い緑の森の中、清楚な色が目を引きます。春日大社の社殿や鳥居はあざやかな朱塗り。鳥居の色は、お祀りしている神様とは関係がないのですね。










月讀宮 宮後北の端の森にあり 所祭月夜見命荒魂命二座なり 外宮四所の別宮なり 仔細内宮月讀宮の条に弁ず

新古今 さやかなる鷲のたかねの雲井よりかげやわらぐる月讀の森 西園寺入道太政大臣

風雅 とこやみをてらす御かげのかわらぬは今もかしこき月よみの神 後宇多院

高河原社 一名河原野国生神 月讀宮地の内 東の方にあり 外宮摂社十六社の内なり 所祭月讀の御魂


月夜見宮


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西園寺入道太政大臣は誤りで西行の歌です。鷲のたかねとはインドの霊鷲山(釈迦が説法したという山)をさすそうです。かげ和らぐるとは、仏語の和光同塵より、仏が威光を和らげて神の姿になるという事でしょうか。鷲の高嶺の雲の間より届く仏の威光は和らいで(月讀の神となり)、清らかに月讀の森を照らしている という意味かなと思いました。 

余談ですが、「かげやわらぐる」という言葉が気になって検索してみると、偶然にも欣浄寺の御詠歌が出てきました。
 和らぐる神の光の影みちて秋に変わらぬ短か夜の月  伝法然
「仏の御慈悲は神の姿となって人々を守り導き、念仏をすすめています。今その神の御威光が満ち満ちています。月は秋のようにこうこうと輝き、その月の光の中で、神の御威光つまり阿弥陀様の御慈悲の光を身と心でいただいて夜の更けるのも忘れて念仏申し続けました」という意味だそうです。法然が伊勢に参籠した際に詠んだ歌といわれています。西行の歌と情景が似ています。
他にも
 和らぐる光にあまる影なれや五十鈴河原の秋の夜の月  前大僧正慈円
 和らぐる光を花にかざされて名をあらはせるさきたまの宮  西行 

「やわらぐる光」という言葉には特別な意味があるようです。


舘町 上中下あり 月よみの宮より外宮へ参ればこの舘町へもどるなり 一志 宮後 田中 前野 四町に属す この舘といえる事は 昔 正権禰宜・内人の斎館なりしかども 今は斎館なし 旧名を呼んで神事の時は神官此の所に齋宿するなり 右の横道を経て外宮の入口北御門に至る およそ参宮道は北御門と一の鳥居との二道なれども 一の鳥居より参詣するを本式とす 舘町の内に札の辻ありて、是山田の真ん中にて諸方への行程里数幾許ありという事ここを本とす 此の所に御公儀より法令御制札あり 札の辻という 昔この辺り並木にて人家稀なりし時 前野村 松原崎などと号せしとぞ その名は今にのこれり


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江戸時代末期の山田衢衢之図に札辻という辻が見えます。一の鳥居の正面で、現在の外宮参道最後の信号か前庭の辺りと思います。昔はここが山田の中心で、高札が掲げられ、人の往来も多くにぎやかな場所だったという事で、テレビの時代劇の一場面を連想してしまいます。

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これも余談ですが、月夜見宮から外宮を結ぶ道は神路通りと呼ばれています。月夜見の神様が外宮へ通われるとき、石垣の石を白馬に変えて白馬に乗って行かれるそうです。この道を通る人は神様に出会わないように、道の真ん中を避けて端を歩いたと伝えられています。今でも神路通りは月夜見宮からまっすぐ外宮の北御門に通じています。真ん中の舗装の色が違うので、真ん中を通るのは何か憚られるような気がします。さて、観光案内版には古くから言い伝えられていると書いてありますが、伊勢参宮名所図会では触れていません。山田衢衢之図や山田惣門図にも、外宮と月夜見宮を結ぶ真っすぐな道はありますが、神路通りの名はありません。神路通りについては、江戸時代初期の外宮祠官が書いた勢州古今名所集に記されているのが最も古いようです。当時はごく限られた範囲の地元の伝承だったのかもしれません。もちろん今でも伊勢の人しか知らない話なのですが。






















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