2020年12月18日金曜日

伊勢参宮名所図会 巻の四 山田 下馬橋 厭離山欣浄寺 正法寺 三宝寺

山田 外宮神前の町をいう 仔細画上にいえり
下馬橋 昔 公卿勅使をはじめ参向のとき外宮の御前なれば下馬する所なり そのころ民居少なくして 此の所より外宮一の鳥居の見えけるにや また 此の所の東岸北の側に柳の大樹一株ありて宗祇の発句に
 駒とめてしばし影ふむ柳かな
しかるに享保中 この樹に妖怪ありとて 伐り倒したりという

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外宮の宮域を有する豊川町の旧町名は下馬所前野町です。下馬所は参拝者が馬をおりた場所、前野は外宮前の原野を意味するということです。伊勢ぶらりという地図アプリにある江戸時代末期の山田衢衢之図をみると、伊勢街道の一の鳥居付近に前野、その北の辺りに下馬所という町名が記されています。また下馬所と岩淵との境界に橋があり、これが下馬橋と思われます。現在、川はなくなっているのですが、おそらく外宮前郵便局の辺りと推測しました。
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宗祇  室町時代の連歌師


厭離山欣浄寺 越坂寺町にあり 浄土宗圓光大師弘法の道場なり この寺に日輪の名号あり その他 霊宝数多あり 縁起ながければ是を略す

正法寺 二俣にあり 本尊観音 臨済家 鎮守田村丸の社 大同2年 田村丸の建立という

三宝寺 山田の中 世義寺より十五町西 本尊不動明王 真言宗にて寺号山号来由すべて世義寺と相同じ 塔頭六坊あり 士佛参詣記に山田三宝院に止宿すと記せし所なり

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現在の欣浄寺は一の木にあります。法然上人二十五霊蹟の第十二番だそうです。
圓光大師=法然上人 弘法とは仏語で、仏の教えを世間に広めること。
日輪とは太陽 名号とは仏や菩薩の名。浄土教ではとくに阿弥陀仏の称号をいい、六字名号南無阿弥陀仏がよく知られています。名号を唱えることが念仏で、浄土に往生できるとされているそうです。
日輪の名号とは
法然上人が浄土宗を開宗した年、念仏が広く伝わることを願って伊勢神宮に参篭した際、この地に籠って念仏を唱え続けた7日目の朝、法然上人の前に大きな日輪が現れて、その中央に六字の名号(南無阿弥陀仏)が金色に燦然と光っていたそうです。これを見て、念仏の教えは神の意にもかなっていると大変喜び、自らその様子を写して外宮に納めたそうです。これが日輪の名号と呼ばれるもので、今は欣浄寺に保管されているそうです。

もともと欣浄寺は一の木にありましたが、1671年の山田大火の後、越坂に移転させられました。これは山田奉行所が、多くの寺院が外宮宮域近くにあるのは好ましくないとして、焼失を機に廃寺または移転を命じたためで、越坂には欣浄寺の他にも複数の寺院が移転させられていました。欣浄寺は明治の廃仏毀釈の際には廃寺になりましたが、その後復興され、大正時代に現在の一ノ木に移転したということです。

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正法寺は明治の廃仏毀釈で廃寺になり、現存しません。今の中島小学校の辺りにあったと思われます。田村丸(坂上田村麻呂)は平安時代初期に実在した武人ですが、史実からかけ離れた物語や伝説の英雄として語られ、また寺院の縁起にも数多く登場し、その信憑性は低いそうです。

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三宝寺も明治の廃仏毀釈で廃寺になりました。八日市場の市立図書館の前に三宝院跡という石碑が立っています。石碑に伊勢大神宮参詣記で知られると書いてあります。ただし、伊勢大神宮参詣記(大神宮参詣記ともいう)は坂十仏の作品で、子の士仏の作とするのは誤りだそうです。
世義寺より15町西と書いてありますが、世義寺も大火のあとの1671年に別の地に移転しており、伊勢参宮名所図会が発行されたのは1797年ですから、100年以上も前になくなっているはずです。1772年の宇治山田之図を見ると、世義寺跡地というのは記されています。

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