2020年3月30日月曜日

伊勢参宮名所図会 巻の四 中島 久留山威勝寺

中島 
堤ぎわ 京町のさし入り 田丸口の渡しより入り左の横道中川原へ出る道なり 南の後ろに小太郎の池というあり  向川の橋ありて是より中野に至る 向川とは向河原にある橋といえる事なり。

久留山威勝寺
山田上之郷久留町にあり 真言宗にて本尊不動明王古仏なり 左の坂の上に薬師堂あり 俗に峰の薬師という 一説胸の薬師 塔頭祠あり 林泉の絶景
〇昔 久留嘉左衛門威勝(おしかつ)という人建立せし故に寺号とす その後再建より今のごとく広大になりて大覚寺の末寺僧正蹟とはなれり 客殿は長谷川等室画に本堂の天井には人の手足の形多く赤き色にて一面に見えたり 是を俗に三好討ち死にの時の血に染みたるを天井とせしという また洛の養源院にも桃山の血天井といへりものあり 又堺の寺にもこの類あり ここを以って思うに是 木理自然の斑文にして血に染みたるにはあらざるべし
〇二王門外の右に長峰山大日寺とて六十六部の経を納むる所あり 昔は間山常明寺鳥居の前にありしという
〇この寺の上に塚山という岩窟あり その上に別所寺山あり この山の白川を隔つ所を卒都婆廣といいて廟所あり 又和泉式部が古墳 又瓶五輪というもあり 又この上を二黒という この外 名だたる所多し 和泉式部の塚は今他所にうつす

〇下総守長秀同孫三郎頼澄墓
中島町裏通寺の内にあり 永正5年四月十一日当所において北畠中納言材親卿と合戦し討負け自害しける跡なり 俗にこれを三好塚という長秀頼澄は三好筑前守元長入道の子なり


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中島は 田丸口の渡し(上の渡し)から入ってすぐの町です。伊勢本街道の続きで、辻久留、二俣、浦口を通って筋向橋にでます。ここで中川原から堤世古を通ってくる伊勢街道と合流します。これとは別に、上の渡しを出てすぐ左にまがり、京町を通ってまっすぐ中川原とつながる道もありました。この二つの街道のおかげで中島はたいそう賑わったそうです。
また街道の南に小太郎池という池があったそうです。この池は山田奉行所が宮川本堤を築く際に土砂を採取した跡に水が溜まってできたそうです。昭和になって埋め立てられ、現在は住宅地になっています。池はなくなっていますが、池から流れ出ていた川は今も流れていて、暗渠になっているところもありますが、桧木尻川につながり、勢田川に合流していきます。
下は江戸時代末頃の山田衢衢之図です。小太郎池と流れ出る川、橋が見えます。橋の名は違いますが、橋を渡ると中野にはいることが示されているので、向川の橋ということでしょう。ここには現在は小川橋という名の橋が架かっています。コンクリートの橋ですが、小さな古い擬宝珠がつけられていて昔の街道であったことが偲ばれます。

➡ 上の渡しから街道にはいる
 中川原から京町を経てくる道
➡ 威勝寺

京町という地名はバス停留所名にみられます
京町の通りに残る街道の松並木

小川橋



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明治政府の神仏分離政策により、宇治、山田では寺院が厳しく排除され、多くの由緒ある寺院が廃寺に追い込まれています。威勝寺も明治3年に廃寺となりました。広大であった寺域は失われていますが、境内にあった池と再建された客殿の遺構が久留山荘と名付けられ残っています。私有地のため、以前は塀に閉ざされ立ち入ることができませんでしたが、最近は塀が取り払われ、庭園跡に入ることができます。うっそうとした大木に囲まれた庭は、昼でもうす暗く、池には倒木がそのまま横たわり、建物も傷んできているようで、荒れた感は否めないのですが、通路の草は刈られ、立ち入る事を容認していただいているようなので、ありがたいことと思います。池には弁財天の祠があり、小さな弁財天の木像が安置されています。かつてこの祠には八臂で眷属を従えた弁財天像が祀られていたそうで、祠の中にその写真が添えられていました。また祠の内壁や扉には、それぞれに色あざやかな龍の絵が描かれていて、写真を撮ろうと光をあてると思わず息をのむほどの美しさです。伊勢山田散策(濱口主一氏著)によると、祠は昭和10年代頃のものだそうです。

上図をみると 大日寺、ヤクシ、アキバという文字が見えます。現在でも 池の左に登っていく坂があり、荒れた草むらですが小さな平地に出ます。薬師堂があったところかもしれません。そこから透き通った水をたたえた池が見えます。かつての林泉の絶景とはこれかと想像しました。平地の背面は宅地化されていますが、もう少し坂が続きます。アキバとは秋葉大権現のことで、天明年間の頃からこの辺りに祀られていたそうです。今はありませんが、この山は秋葉山と呼ばれています。威勝寺はこの山の北に位置するわけで、昼も薄暗いのはそのためだったと気が付きました。




そのほかの塚山、別所寺山、卒都婆廣、廟所、和泉式部古墳 瓶五輪については詳細不明です。ただ、秋葉山の東に谷を隔てて天神丘と呼ばれるもう一つの小さな山があり、東側の斜面から山頂まで墓石で埋め尽くされた墓地となっています。ここは小町塚経塚があった所で、平安時代後期の瓦経が多数出土しています。(重要文化財として京都、東京国立博物館所蔵されています)
卒都婆廣、廟所とは天神丘辺りをさしているのかもしれないと思います。

江戸時代の天明年間から瓦経の出土については知られていたそうですが、伊勢参宮名所図会では触れていません。秋葉山と天神丘の下にかつて参宮鉄道が走っており、そのトンネルが残っています。小町塚経塚は天神丘トンネルの左手の墓地の中の階段を上がっていくと登り切ったところの開けた土地にあったようです。今は比較的新しい墓石が整然と並び、経塚の痕跡は全くありません。市の建てた石碑があるだけです。

吹上の善光寺の現本堂は、威勝寺本堂を移築したものだそうです。(伊勢山田散策)
また本尊の不動明王像は、明治29年 伊賀市の引谷山利生院 不動寺に奉迎されたとあります。(不動寺 由緒)

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下総守長秀は父の之長とともに、室町時代の後期、細川氏に仕えた武将です。(wikipediaによれば長秀の父は之長で、元長は弟または子)細川政元亡き後の後継争いで細川澄元を擁立して戦うも敗れ、弟の頼澄とともに伊勢山田に敗走、北畠材親の攻撃にあって自害に追い込まれたといいます。享年31歳。その墓所は不明です。中島町裏通寺というのも今のところわかりません。

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