2020年3月4日水曜日

伊勢参宮名所図会 巻之四 中川原 堤世古

中川原
宮川の東にあり人家列なれり この東北なる高向村の内なり。 和名抄には高田と書けり 書写の誤りなり。この町の西 宮川の上に田丸口の渡しあり 是を中島口ともいう 磯村 上条の渡しあり 磯村の渡しを越えて高向村に出づる 此の所 古えの往還にや。中川原 中島 昔は宮川の川中なり

堤世古
中河原の次の町なり 世古とは他所にて小路 裏町などというがごとし
付言 神都にて横道、小路を世古という事についての話「下馬の橋という西北に日本藤六屋の世古という古名あり いつのころにや此の所の者 難風に会うて朝鮮へ吹き流されけるが 彼の地より故郷の老母へ便宜ありて文通するその表名に 日本藤六屋の世古母へ参る と記せり 是を日本にて知るものなかりしに 世古ということ勢州山田の方言なることを聞きて ついに達す これ西川恕見翁が夜話草に見えしジャガタラ文または康頼が卒徒婆の類にして共に孝心の至りと云うべし。今は下馬所町という 夜話草


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中川原は、桜の渡しを渡ったところの町です。下流側にある高向村(たかぶくと読みます)の一部でした。現在、中川原は高向から別れ、宮川町といいます。
田丸口の渡しとは上の渡しのことと思われます。桜の渡しよりおよそ1キロほど上流にあります。上の渡しは伊勢本街道を通ってくる人々に利用され、田丸は伊勢本街道の一つ手前の大きな宿場町でした。田丸へ通じるという意味で田丸口と呼ばれたのでしょう。また上の渡しは中島にあったので、中島口とも呼ばれたと思われます。
磯村の渡し、上条の渡しというものもありました。磯村の渡し跡は、現在の宮川大橋付近にあり、対岸の磯村と高向を結んでいました。高向から伊勢街道を経て外宮に行くルートもかつてはあったそうです。上条の渡しはさらに下流にあり、主に地元の人々に利用されていました。


中河原は中島町と接していましたが、その境界に逆さ楠と呼ばれた楠がありました。大方は枯れて小さくなっていますが、かつては巨大な楠だったようで、その幹の太さには驚きます。今も楠大明神として宮川提にあり、地元の人に大切にされています。



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中川原を過ぎると、堤世古を通り、筋向橋に向かいます。
世古は山田の方言とあります。私は伊勢で育った人間ではないのですが、世古とはよく耳にする言葉で、小さな路地を指していると思います。当時の世古は、もう少し大きい道、○○通りくらいの意味かなと思います。
筋向橋は、上の渡しをとおる伊勢本街道と、下の渡し(桜の渡し)をとおる伊勢街道の合流地点です。ここからは一つの道を神宮に向かって進みます。
堤世古は現在その地名は残されていません。筋向橋につづく伊勢街道がそれに相当するはずですが、古い街道は途切れてしまってたどることができません。地図で見ると筋向橋の手前の細い道がその一部と思われます。




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下馬所町は現在の豊川町で、町のほとんどが外宮の境内となっています。藤六屋世古のあった場所は豊川町から分離して本町になっています。外宮の正面、参道の終わりにある信号の右手前に藤六屋世古を示す石碑が立っています。
石碑には、「昔、長崎の港に外国から「日本藤六屋世古母へ参る」という便りが届いたが 世古の名が伊勢山田の方言と知られていたため、無事その家に届けられた」と記されています。
ジャガタラ文とは、西川恕見の夜話草で紹介された、鎖国時にジャカルタに追放された混血児の娘が日本の故郷へ送った手紙のこと 
康頼が卒塔婆とは、平家転覆を企てた罪で鬼ヶ島へ流された平康頼が、故郷の老母を思い詠んだ歌を千本の卒塔婆に書いて海に流したところ、その1本が厳島神社に流れ着き、清盛に赦免されたという話のこと


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古代、宮川の河口は大きなデルタ地帯を形成していました。川は枝分かれして網の目のように流れていました。中川原や中島はもとより、伊勢の人々はほとんど中州の上に住んでいたようなものです。たびたびの洪水や、宮川は洪水のたびに流れが変わったというのも、うなずけるように思います。





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