2021年8月31日火曜日

度會宮正殿 

度會宮正殿 豊受皇大神 一座
相殿 天彦彦火瓊瓊杵尊 天太玉命 天児屋根命  三座

〇當宮御鎮座の始めは人皇二十二代雄略天皇二十二年九月十五日なり 是は垂仁天皇御宇二十六年十月に天照皇大神當国五十鈴川のほとりに鎮座、両宮元より別なれど伊勢太神宮と称し奉る時は二宮すべての名なり 後四百八十二年を経て天照皇大神の御託宣によりて丹波の国(今は丹後の国に入れり)与謝郡真名井原より移らせおはします その昔倭姫命 天照皇大神を戴きまつり与謝の宮に鎮まり給いしとき天降ましまして御同殿にましませし御神なり 今丹後の国河守の内外宮というは是なり 其の時御幽契ありけるにや かくのごとくの神託し給いて朝夕の御饌も御一所にあらざれば容易にきこしめされぬとの義なり

〇皇孫尊の事 士佛日記に見えたり 〇天津児屋根命 中臣藤原祖神 春日 河内平岡祭所〇天太玉命 忌部氏祖神 安芸一宮また大和忌郡に祭る 両神は補佐の神なり

御殿造りは南面にして茅葺掘立柱は 太古穴住まいの後 初めて家造りを覚え竹木をそのまま縄からげにせしさまなり 〇風榑鰹木(ちぎかつおぎ)泥障板(あおりのいた) 覆板(おおいのいた) 樋侏儒(ひつか) 樋貫(ひぬき) 鞭掛(むちかけ) 居玉(すえたま) 大床(おおゆか) 御階(みはし) 金銅の御飾等 その他記すにいとまあらず


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豊受大神は、食物・穀類を司る女神です。古事記では豊宇気毘売神と表記、別称もいろいろあります。伊勢神宮外宮の社伝(止由気宮儀式帳)には、雄略天皇の夢に天照大神が現れ「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比治の真奈井にいる御饌の神、等由気太神を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、外宮に祀るようになったとされています。

天彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと) 一般的にいう瓊瓊杵尊で、日本書紀でこの名があります。天照大神の孫で、高天原から九州の日向に降り皇室の祖先になった神様です。

天太玉命(あめのふとだまのみこと) 神話では、岩戸隠れの際に、天児屋根命とともに、太占を行い、天照大神が顔を出すとその前に鏡を差し出した神様だそうです、天孫降臨の際には瓊瓊杵尊に随伴して地上に降りてきました。忌部氏の祖とされました。忌部氏は中臣氏と共に古代朝廷の祭祀を司った氏族だそうです。根拠地の大和忌部とは現在の橿原市で天太玉神社があるそうです。安藝一之宮は厳島神社で天太玉命は祭神ではありません。全国に一之宮はたくさんあるので、安藝が間違いかもしれません。

天児屋根命(あめのこやねのみこと) 岩戸隠れの際に、天太玉命と共に天照大神の前に鏡を差し出した神様だそうです。天孫降臨の際に、瓊瓊杵尊に随伴し、また中臣氏の祖とされました。春日大社 枚岡(ひらおか)神社の祭神です。

相殿神については、検定お伊勢さんの公式テキストブックでは御伴神三座とのみあり、上記の神様の名はでてきません。(内宮の相殿神については天手力男神、万幡豊秋津姫命の二座と書いてあります)理由は不明です。

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豊受大神が外宮に遷座したのは、天照大神の内宮鎮座から482年後と書いてありますが、これはきっと正しくありません。古代天皇の在位期間が長すぎてあてにならないのです。初代神武天皇から11代垂仁天皇まで630年、次の10代後の雄略天皇まで480年、次の10代後は130年、100年、120年・・と続くので、実際は100年くらいなのかなと、思いました。

丹後の国河守の内外宮というのは、福知山市大江町の皇大神社、豊受大神社の事と思われます。豊鍬入姫命は、天照大神を祀る理想的な地を求めて笠縫邑を出て諸国を巡歴しますが、はじめに丹波の吉佐宮にて4年間天照大神をお祀りをしています。その時に古くからの丹波の神、豊受大神と共に祀られたそうです。その後、倭姫によって天照大神は伊勢に鎮座し、遅れて豊受大神も伊勢に遷座します。天照大神が伊勢にくる前に祀られていた神社を元伊勢と
いうそうですが、丹波の元伊勢という伝承をもつ神社は、上記の皇大神社の他にも複数あり、一つに定められていません。(上御井神社のところでも同じようなことを書きましたが)丹波での豊受大神は、羽衣伝説のヒロイン、より人間的で、親しみが感じられます。元伊勢神社は豊受大神の故郷でもあるので、いつかぜひお参りに行きたい所です。

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正殿の建築については伊勢神宮のHPでも紹介されています。
唯一神名造と呼ばれる建築様式で、古代の高床式倉庫から発展した形と考えられているそうです。本文を読むと、江戸時代の人でも太古の人類はほら穴に住んでいたということを知っていたようで、ちょっと意外でした。掘立柱が、家造りを覚えたての頃の竹木をそのまま縄でからげたような様というのは、全然違うのでまた驚きます。確かに檜の素木を使うということですが、縄は使っていないし、それに後述で、様々な建物の部位の名称や据玉・金銅飾りを挙げているので、たいそう緻密で精巧に造られているのはわかっているでしょう。でも自由な書き方だと思います。この時代の人は正殿を見ることができたと思うので、それぞれ自由に感じたのでしょう。

2021年8月26日木曜日

神嘗祭 神嘗祭其の二

 




神嘗祭
  井 例幣使
天子より両宮へ勅使を以って御幣を奉らせ給うは九月十六日十七日にて 年毎の事なれば是を例幣使という。此の事朱雀院の御時に始まり 十一日葱華に御してかしこくも神祇官へみゆきなりて行い給いしとぞ。養老五年九月十一日にはじまる

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葱華輦(そうかれん) 葱華の御輦(なぎのはなのみこし)という言葉があります。
屋上に金色の葱花の飾りをつけた輿で、天皇が神事や臨時の行幸の際に使うそうです。
文中 葱華に御し この御輿に乗って行ったということでしょう。

神祇官 律令制で設けられた朝廷の祭祀を司る官庁名

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神嘗祭
神宮の年間のお祭りの中で最も重要なお祭りで、その年に収穫された最初の新穀を天照大神に捧げて、恵みに感謝するお祭りです。明治以降は10月に行われています。内宮では10月16日の午後10時と17日午前2時に由貴大御饌の儀(神田で収穫された新米で調理した蒸し米、餅、白酒、黒酒を山海の食材と共に捧げる)が行われます。17日正午には、天皇が遣わした勅使が幣帛を奉納する奉幣の儀が行われ、最後に17日夕刻に御神楽が行われます。外宮では1日早く10月15日16日に由貴大御饌、奉幣、御神楽が行われます。(神宮ホームページより)

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参宮名所図会では由貴大御饌について述べられていませんが、この図では、焚火が勢いよく燃えていて夜間の行事であることがわかります。長官禰宜の列の前に櫃のようなものが置かれ、廻榊の前に玉串内人がすわり、大宮司が紐のようなものをもって榊を受け取ろうとしているようです。これはきっと 由貴大御饌の儀の一場面でしょう。一般の見物人もいて何やらしゃべりながら見ています。現在は夜間の参拝は禁止されていて由貴大御饌を見ることはできません。右端には武士の姿も見えます。山田奉行所の役人達かなと想像します。刀を手元に置いてあるので驚きます。



其の二
勅使進発の前に宣命をはじめとして神祇伯禁庭の事務追日行われ 進発の日に当たって宣命を賜り常も奉り長月の神嘗の御幣ぞ汝中臣能申て奉れと勅を奉って逢坂の関を超え 路次所々の禊し宮川を渡って種々の調物を整え 一の鳥居より下馬行列ある 又御馬を引き立て玉串所において行い事あり それより広前にすすみてをのをの飯位につき 中臣宣命を読進し給う 宮司また祝詞をのべらる 玉串を納る行事終えて御内にすすみて御幣木を納め奉り御内を出てのち八度拝・饗膳・倭舞の行い事あり 委く延喜式井儀式帳などに見ゆ故に其の大概を記す 又祭礼の後鳥子名舞というあり 俗にひよひよの神事という

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進発:出発   神祇伯:神祇官の長官   禁庭:宮中   追日:日一日と
路次:道筋   飯位:?   鳥古名舞(となこまい):常世の長鳴き鳥を模した舞

💬御幣木について
御幣は神前への捧げものの意味するそうです。古来から捧げものは時代の最先端の貴重なもの(米、酒、塩、魚などの神饌、武器・武具、玉、鏡、衣類、布など)でしたが、奈良時代後半から平安時代にかけては主に布、さらに時代がすすむと紙を捧げるようになったそうです。捧げ方も色々あったそうですが、木にはさんで捧げるという形が登場し、これが現代の御幣につながっていきます。捧げものをはさむ木には、捧げもの本体と、神聖さを表現する木綿や麻をはさんで垂らしたそうです。木綿や麻は後に紙になり、紙垂(しで)と呼ばれます。
室町時代から江戸時代にかけては、御幣は、捧げもの本体(幣紙)、紙垂、それらをはさむ木(幣串)という構造になっていたそうです。御幣木というのは、こうした形の捧げ物の事と思われます。その後、幣紙と紙垂は一体化され、特徴的な造形から紙垂が強調されて、現代のような形になったということです。

御幣(二見興玉神社)

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其の二は、奉幣の儀の様子と思われます。まさに正殿の扉を開けて御幣木を納めようとする所と思われます。ここでは見物人は瑞垣の外に大勢います。現代では絶対に許されないでしょうね。瑞垣内の東宝殿の前には、やはり武士の姿があります。


2021年8月24日火曜日

三の鳥居 第四御門 第三御門 石壺 斎王候殿 玉串御門 蕃垣御門 瑞垣御門

 三の鳥居 第四の御門の南にあり 三鳥居とは族称なり 荒垣御門とも板垣御門ともいえり 第一より第三に至る故に三の鳥居という いにしへはこの鳥居より板垣をめぐらせり


第四御門 三の鳥居の北にあり 古記には外の玉垣御門という この門にも玉垣ありて東西北に御門ありしとなり 是を十二所御門といえる事、俗に言い慣わせり 柱十二本あるゆえとあれど 是もいかがの説なり

第三御門 石壺の傍らにあり慶安の遷宮記に初めて小鳥居と記せり 此の拠りどころいかが 内宮の鳥居を以って例せば三の鳥居にあたるなり

石壺 第三御門の左右にあり 東は勅使宮司 西は十員の禰宜の石壺なり 石壺とは石を畳みて神祭および行事の時座を敷の標なり 禁中にいう版位のごとし 又は石畳ともいえり 但し勅使宣命を詠む時は新たに作る古例なり

斎王候殿 玉串殿の前東の方にあり 正殿東にあれば西にあり いにしえは玉串御門の前東に斎王候殿 西に舞姫候殿ありて祭礼には斎王玉串を取り舞姫候殿にて舞奏せしなり 両殿ともたえてなかりしを元禄年中斎王候殿再興ありて祭礼のとき雨天なれば勅使宮司宣命祝詞をこの殿にして読み奉り給う例なり

玉串御門 第三御門の内にあり 一名、内の玉垣御門という諸祭に宮司禰宜の持ち給う玉串を物忌父取りてこの御門の柱の下に納るによりこの名侍るなり 儀式帳に第二の御門の内に玉串を納むといい 延喜式には外の玉垣御門に進み入りて内の玉垣御門に当たり跪くとあり是なり この門の内にも石畳ありて玉串を収めし由 古記にあれど石畳は絶えたり 御門も久しく退轉せしを 寛文御遷宮の時 御再興あり 諸国の参宮人はこの御門の前にて拝す 玉串とは「藻しほ草」に大神宮に榊を串にさす事あれば玉串というにこそあれ なべての榊を玉串といはんはいかがと云々 〇玉串とは玉籖とも書くなり 玉は善稱のことば 籖串同じ事なり 今紙をこまかに切截て串にさせるをいう 説文には 籖をしるしなりと注して神へ奉るしるしとぞいう故に榊を玉串の葉ともいう
新古今
  神風や玉くしの葉をとりかざし内外の宮に君をこそ祈れ 俊惠法師 
是は康治大嘗會に中臣寿詞を奏せしに読みし歌なり 祝詞式に太玉串大中臣これを持つともあり 太は美称なり

蕃垣御門 玉串御門と瑞垣御門との間にあり 儀式帳に蕃垣三重とあり 是を猿頭の御門という軒板の上に打ちし木を丸く彫りて猿の頭に似たればかくいうなりといえり

瑞垣御門 蕃垣御門の内なり 瑞垣ある故にこの名あり延喜式儀式帳などには内院の御門という この内 御本社なり



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三の鳥居は、現在の板垣(いたがき)南御門にあたると思われます。正殿の入口にある大きな鳥居で、いにしへの如く板塀がめぐらされています。第四御門は外玉垣(とのたまがき)南御門にあたります。やはり板塀に囲まれています。今の一般参拝者は板垣南御門の鳥居をくぐり、外玉垣南御門の前でお賽銭を入れて参拝します。布が掛けられ中の様子はよく見えませんでしたが、最近は板塀が低くなって見ることができます。小鳥居は中重(なかのえ)鳥居といわれ、特別参拝者のみがこの鳥居付近で参拝することができます。その奥に内玉垣(うちたまがき)南御門、蕃垣(ばんがき)御門、瑞垣(みずがき)南御門と続きます。中重鳥居の両脇には今も石畳が見られます。

伊勢参宮名所図会では板垣や外玉垣がなく、正殿の囲いは二重です。参拝者は内玉垣御門の前まで行くことができました。しかも内玉垣の周囲をぐるりと北側の御饌殿の前まで歩いていくこともできました。現在は正殿は四重の板垣に囲まれ、周囲は立ち入り禁止で近づくことができません。本殿は森の木々の合間にちらりと見えるだけでした。(外玉垣の板塀が低くなってで最近はもう少し見えます)現代の神宮神域は、神聖で厳かな雰囲気がありますが、昔はもう少し身近な感じがあったようです。末社遥拝めぐりとか、天の岩戸(高倉山古墳)見物とか、観光的な要素もあって、楽しかったのではないかと思います。

板垣と外玉垣は、古くはあったものが江戸は時代には無くなっていました。これらを再興したのは 明治2年の遷宮のときだそうです。明治2年ですから、実際の造営準備は幕府がしていて、再興の発意も江戸幕府ということです。神宮の尊厳を守るために、神域に庶民が近づきすぎるのは好ましくないというの考えがあったそうです。





 

僧尼拝所

 


僧尼拝所 三の鳥居の前 流水の小橋をわたりて左にあり正殿に向かえり 僧尼・山伏・法体人ここにおいて拝し奉る 両宮に佛家を忌む事 斎宮の忌詞をはじめ皆勅命なり 乱世には佛家混んずといえども この拝所古今失わざるなり 元亨釈書に、この神 僧を憎んで神前に許さず一大樹の本にて拝すといえり 是は外宮の神木といいし五百枝の杉の事なるべし 僧尼の拝所のほとりに中ころまで株残れり  名所 〇五百枝杉 昔は僧尼拝所のほとりにありしなり 今はなし 坂士佛参詣記に出家の輩は五百枝の杉と申す霊木の本に詣でて宮中へは参らず 是又禁裏の礼儀なりと云々

神祇百首
神風や五百枝の雪の靑にぎて杉のしるしの少し見えつつ 度會元長

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僧尼拝所は正宮の正面、御池のほとりで、昔は小さな流れを渡った所だったようです。その小さな流れも僧尼拝所も今はありません。また、そこには五百枝杉という大樹があったようです。参詣記は1342年に書かれたもの。坂士佛は誤りで父の坂十佛の作といわれています。
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靑にぎて 麻でできたにぎて。
    にぎてとは、榊の枝にかけて神前にささげたり祓いに用いたりする布や紙のこと
神風や 伊勢神宮や神に関係のある言葉にかかる枕詞
しるし 目印や証拠、霊験やご利益などの意味もあるようです、

この歌の解説は見つけられず、自己流で解釈
 伊勢の五百枝の大樹に、白いにぎてを掛けたように雪が降り積もっている。杉の枝葉も少し見えている。杉の霊力が感じられるようだ。
 しるしに深い意味はこめずに、深緑の杉に積もる雪をにぎてに見立て、美しさを詠んだ歌とも思われます。伊勢では積雪はめったにないので、この風景は新鮮だったと思います。





伊勢参宮名所図会 巻の四 ニノ鳥居 直會院 別宮遥拝所 三石 御池 手洗場 伊弉諾伊弉冉二尊拝所



        
ニノ鳥居 一の鳥居の次にあり 勅使の時 此の所にて大麻(おおぬさ)御塩献じ 榊の枝に木綿(ゆふ)を結び垂れて振りはらい又堅塩を土器(かわらけ)に盛りて 榊の葉にのせて振りそそぎて清め奉るなり 諸国の参宮人に御師の家にて清めの御祓塩をいただかしむるも是に習うか 


 💬 大麻は神社で御祈祷を受けるときに、神職が左右左と振って罪穢れを祓う神具をいいます。一般的には白木の棒の先に麻紐や紙垂を付けたものです。神宮で用いられる大麻は幹榊(幹に枝葉が付いた榊)に麻をつけているものだそうです。また、大麻の所作に続き、榊の小枝で塩湯または塩(土器にのせる)を左右左と振りそそいで祓い清めるそうです。

神宮 大幣
一般的な大麻

💬 現在もニノ鳥居のすぐ手前に祓所という場所があります、
直會院(なおらいいん) 五丈殿二宇 九丈殿一宇の三殿を一つにして直會院といへり 又は五丈殿一宇を主神司殿といい九丈殿一宇を一の殿ともいう 是も絶えたりしを 元禄年中公より再興し給えりとなん 是は勅使饗應の所なり 公事根元には なうあいと書けり なうあいとは神饌を奉るをも 神饌のおものを頂くをばいうなり 日本紀 持統天皇の紀には掌の字をなうらいと訓し神嘗月次新嘗會など なうないの御はん御酒まいる事あり 春日社にも直會殿ありて勅使神食をいただき給う所なり その後解齋の御かゆ参るなり この三院を直會殿にも解齋殿にも用いて時によりて其の名のちがいあるにやともおぼゆ 今も神嘗祭にはこの一殿に着き給うて饗應あるなり 御輿宿りという所西にありしが今は絶えたり

〇玉串所 九丈殿の前 大庭を言う 昔は石壺有りし由 江次第に見ゆ 應安御遷宮記には玉串所の石畳とあり 雨天には神輿宿りにて行いしを今は一の殿にて行うなり 是は月次神嘗祭に禰宜宮司 玉串を取り給う故 玉串行事所という 〇廻榊 此の所に一本の榊あり その榊の下にて宮司玉串をとり榊の東を廻り 禰宜は玉串を取りて榊の西を廻る故に廻榊という 解齋の時 宮司禰宜の冠につけたる木綿かづらをこの榊にかくるなり 此の所その場所広きゆえ大庭という


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直会とは、祭の終了後に神前に供えた御饌御酒を神職をはじめ参列者の人々で戴くことをいうそうです。古くから、お供えをして神々の恩頼を戴くことができると考えられており、共食によって神と人が一体になることが直会の根本的意義だそうです。また一般的な儀礼として御神酒を戴くということがありますが、これは直会の簡略的なものと考えてよいそうです。(お神酒にそういう意味があったとは知りませんでした)神職は祭のまえに斎戒をして身を清め、祭典を経て、祭典後の直会をもって行事が終了し、解齋となり元の生活にもどるそうです。したがって直会は一般の宴とは異なり、祭典の一部であるということです。(神社本庁HPより)

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現在の神宮の五丈殿・九丈殿は、神宮ホームページによると、雨天時の祭典でのお祓いや遙祀をしたり、また式年遷宮でのお祭りにおける饗膳の儀が行われる所だそうです。また、伊勢神宮崇敬会のサイトの解説によると、九丈殿と五丈殿の前の石原を大庭といい遷宮諸祭の玉串行事などが行われ、西南の隅には廻榊があると書いてあります。参宮名所図会の説明とほぼ同じかなと思います。


外宮 五丈殿(奥)九丈殿(手前)


大庭の西南隅にある榊 廻榊でしょうか
大木ではありませんが幹樹に苔がはえていて古そうです 

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一丈は約3メートルで,屋根の大きさがそのまま建物の名前になっているそうです。参宮名所図会では五丈殿2宇と書いてありましたが、外宮宮中の図(上掲)では一つの建物にしか見えません。現在のものも同様です。五丈殿は内宮にもあるので、これらを合わせて二宇と書かれたのでしょうか。もしかもして二つの建物がピッタリ並んで一つに見えるのかもしれないと思って改めて見に行きましたが、やはり一つでした。そして九丈殿より長いのです。九丈殿については、上記の伊勢神宮崇敬会の説明によると、建物の長さが名称に残っていると書いてあります。かつては九丈あったのが今は短いのでしょうか。実際どれくらい長いのか測るとよいのですが、ちょっと恥ずかしいので、保留です。

💬 また参宮名所図会の図では、五丈殿九丈殿は北御門からくる参道の手前(東側)にありますが、現在は向こう(西側)にあります。明治になって神楽殿を建てたため移築されたのかと思いましたが、廻榊や遙祀所、三石の位置から考えると、五丈殿九丈殿の位置は変わらず、参道が移動したようです。表参道と北御門の参道の合流点に神楽殿が建てられています。




別宮遥拝所 廻榊の傍ら御池の間にあり 別宮は四所あり 高宮・土宮・月讀宮・風宮なり 石畳あり 祭主宮司禰宜の石畳なり

三石 御池の前にあり 石を鼎の如く三つ据え置き 参宮の時これを避けて踏まざるを習いとす 是は月次神嘗祭又は遷宮の時 御巫内人御祓いを修する所なり

別宮遥拝所 向こうに三石 奥は御池

三石




御池 いにしへの御手洗なり 上中下の御池あり 上の御池と中の御池は半町ばかりを隔て 下の御池は二の鳥居の外なり ここにいうは中の御池なり 又三池ともいう 又御川池ともいう 斎宮式御川池の神祭などいうは別儀なり 然るにこの池埋もれけるより桑山殿寄付ありて此の手洗い場を設けられしなり 旧記には天正六年戌寅三月二日 向井将監 外宮高宮を建て遷宮あり 此の時に池を所々に構え火災の備えとす これを将監殿の池という 〇比丘尼池 熊野比丘尼の溺れしよりの名なるよし長官智彦語られしと夜話草に出でたり 六月十日 中の御池さらへとて宮人という神役烏帽子をこうむり勤む

1791 外宮御宮絵図より
絵図中で三つの御池が見える

現在の池の様子 

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上の外宮御宮絵図では、中の御池の東は沼と書かれています。現在は沼地はなく、沼全体が御池になっています。この池がいつも澱んでいるのがわかる気がします。そういえばこの辺りは古くは沼木と呼ばれていた地域に含まれます。高倉山に降った雨がじわじわ染み出してくるのでしょうか。6月10日は池さらえとあるので、昔から澱んだ池だったのかもしれません。
また将監殿の池は火災に備えた池でした。天正6年とは1578年です。戦国時代に遷宮が中断され、129年ぶりに外宮の遷宮が行われたのは1563年、財政上の問題で内宮は実施されず、小田豊臣の寄進により両宮の遷宮が果たされたのは1584年です。高宮(多賀宮)の遷宮に合わせて池を造ったとありますが、129年ぶりの新しい社殿がいかに大切なものであったか想像に難くないと思います。
ちなみに牛鬼伝説にでてくる園田将監さんとは全く関係ありませんでした。そもそも将監というのは官位に由来した通称だそうです。百官名というらしい。


手洗場(ちょうずば)御池のまえにあり 桑山殿寄付の石盥なり その時裁石を用いる事 古法に背けるよし いなみしかども終に雌伏せり
〇中堤 このほとりより風の宮辺り迄をいう。永正記に御池の土橋の道とあるは是なり

伊弉諾伊弉冉二尊の拝所 手洗所の北の石積なり 二尊および遠方に坐す摂社の遥拝所なり〇御母神の拝所 今この前に板囲いを構えて太神の御母神の拝所とて参宮人に拝せしむるなり

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手水場は、今は表参道の入口で火除橋を渡った広場にあります。北御門の参道では火除橋の手前にあります。
中堤という言葉も今は聞かれません。御池の土橋の道で風の宮辺り迄をいうのであれば、亀石の橋の道だと思われます。参宮名所図会では亀石には触れていません。
伊弉諾伊弉冉二尊拝所、御母神拝所は、今はありません。

永正記 1513年 内宮禰宜 荒木田守晨 著