2016年2月17日水曜日

其の6 二見の岩々 と お雛サミット

其の6  二見の岩

2月11日

二見といえば夫婦岩、でも他にも名前のついている岩がいろいろあります。
もちろん、全国各地ありますでしょうが。。。



夫婦岩(立石ともいうようです) 猿田彦岩 猿田姫岩 潜島(くぐりしま) 破石(われいし) 硯岩。。。 

今日は、行ったことのなかった破石と硯岩を探して車で出発しました。


破石 

二見町溝口から南方に約1キロの五十鈴川右岸にある巨石。 高さ4メートル、周囲約20メートル、中央に大きな亀裂があり二分されています。海蝕によって生じた亀裂に木が生え、のちに木が枯れ海も後退し、ここに取り残されたと推定されています。(お伊勢さんテキストより)

地図を見ると、二見神社の裏からJRの高架線をくぐって川沿いに行くようです。JRの高架線は車は狭くて通れないそうです。二見神社のあたりに車をおけると思っていましたが、ちょうど神事の日で、たくさんの車が付近に止めてあって無理でした。そのまま通りすぎて、少し先で神社裏に回れそうな道があったので右折、と、そこになんと神宮御園の門が!! 天照大神にお供えする食事をつくる野菜を栽培している所です。偶然にも発見してちょっと感激。御園の外側をぐるっとまわる形で高架線をくぐる手前に出ました。ちょうど車を置けるスペースがあって、そこから歩くことにしました。


舗装はされていませんがしっかりとした道でほどなく五十鈴川にでました。ここに来たのは初めてですが、とても気持ちの良いところです。川にそってまっすぐ延びる明るい道、暖冬のポカポカした日差しの中で、足取りも軽くなります。人通りの少ない道ですが、伊勢市はこんな景観も大切に保護してほしいものだと思いながら歩いていると、途中で茂みが刈られ造成されている現場がありました。いったいどこから重機が入ってこれたのだろう、何を作るんだろうと気にしながら、通って間もなく、いきなり大きな岩が見えてきました。これぞ破石、真っ二つにわれています。おお、自然の驚異だ。のどかな五十鈴川に囲まれて、いっそう際立って存在しています。過ぎし太古の日々、どんなに激しい時間にをくぐりぬけてきたことか。感慨深いことです。




破石

ここからさらに五十鈴川に沿って上流に行くと御座石というのがあるようです。ついでなので散歩がてらに行くことにしました。途中、サンアリーナに向かう道路から未舗装の道がつながっていて、ここから重機や車がはいれるのかと納得しました。このあたりは祭り博の後、開発しようとして途中放置された廃墟のようなところで、かつての遊歩道が、河川敷に沿って続いています。晴天続きなのに道は濡れていて、どうも満潮になると沈んでしまう道のようです。

多分 御座石 2メートルくらい

五十鈴川と歩道 御座石


硯岩

二見町三津山地区前山の北斜面にある露岩。長さ12メートル、幅9メートル、高さ6メートルの巨岩。伊勢の三郎の硯といわれるそうです。(お伊勢さんテキストより)

伊勢の三郎とは二見の江で生まれた武士で、源義経に仕えた四天王の一人。伊勢三郎義盛という実在した人物のようです。こんな大きな硯を使ったとはよほどの巨漢だったんでしょうか。

岩の上は比較的平らで窪みがあり、硯の形に似ているそうです。この窪みの水はけっして乾かず、雨乞いのときに、この水を汲みとると雨が降るそうです(案内板にかいてありました)。




さて、硯岩については全く知りませんでした。どうも場所は安土桃山文化村のある山の斜面のようです。老人施設のすぐそばで、山のふもとに硯岩の案内板があり、広い空き地があって車をとめることができました。

案内板もあるし、道はしっかりと山のふもとに沿って続いているし、案外簡単に見つかるかもしれないと思ったけれど、まったく甘かったとしか言えません。道は途中で途絶えて、そこからは、けもの道かなんかしか見当たらず、適当に斜面を上がって行くと尾根近くで鉄条網に阻まれて進めず、仕方なく引き返しました。地図ではわずか幅400メートル弱、高さ2,30メートルの斜面なのに、山中は本当に見通しがきかずわかりにくいものです。斜面の向こうの端に神社があり、道路から斜面を眺めながら歩いてみましたが、大岩など見えません。神社に着いたら山の神が祀ってあったので、お願いをしてもう一度看板地点からトライしました。

地図によれば道が途絶えた先に硯岩があるはずです。腰の高さまである笹の茂みで行きどまりになっている道を夫が思い切って笹を踏みわけて進むと、意外にも道は続いていました。間もなくおむすび形の岩が一つあって、そのあたりで再び道が消えてしまうのですが、今度こそはと斜め上に登っていくと、やはり何もありません。あきらめかけて前方を見ると、ありました、岩のようなものが木立の間から見えています!
目標が定まれば一気に登ればよいわけです。上に上がると、たしかに平らで舞台のようです、岩はところどころ苔がむして、起伏の低い所は落ち葉が厚く積もっています。どこが硯なのかと一瞬戸惑いましたが、写真を思い出しながら、この辺かなと足で落ち葉を掻きだすと(行儀悪くてすみません)、四角い窪みが現れて、しかも水が溜まって濡れています。


これが硯岩!?


右側に窪みあります、、


この日は2月11日、ずっと晴天続きでしたが、13日と14日は雨が降りました。
私が硯岩の水をこぼしたからかもしれません。


お昼は二見の砂浜で肉まん


お昼を食べたら、お雛様めぐりin二見 を 楽しむことに。
濱日館に行って、豪華なお雛様たちを見学しました。









お雛サミット

2016年2月14日日曜日

其の5 大世古の千手観音 風宮の十三仏石塔 宇治橋供養塔 寿厳院と寂照寺

其の5 大世古の千手観音 風宮の十三仏石塔 宇治橋供養塔 寿厳院と寂照寺

2月7日

    自宅 、、、、、大世古墓地( 大世古の千手観音 福島正頼の墓 ) 、、、、、、  

    寿厳院( 身代わり地蔵 眠り地蔵 経ヶ峰の曼陀羅石 )、、、、、、
    
    寂照寺 (山門 金毘羅堂 観音堂 ) 、、、、、、 

    おかげ横丁 ( ウドちゃんの色紙展、海老丸で昼食 ) 、、、、、、、 

    今北山墓地 ( 宇治橋供養塔 風宮の十三仏石塔 ) 、、、、、、 自宅


今日は自転車で出発します。 おかげ横丁でウドちゃんの色紙展が開催されているそうなので、見に行くことにしました。ついでに、行きは古市を通って寿厳院と寂照寺に、帰りは今北山墓地によって幾つかの市の指定文化財になっている石塔を探してみようと思いました。伊勢に25年暮らしていますが、いずれの場所も初めてです(おかげ横丁以外)。夫は生まれも育ちも伊勢なのに知らないそうです。 内宮方面に向かう前に、先日探してもわからなかった大世古墓地の千手観音をもう一度探しに行くことにしました。今度は知っている人から場所を聞いたので、見つかるはずです。



西側の無縁仏の墓標群の中に立っていました。
30センチほどの小さな石ですが腕が42本ほられているそうです。
年代は不明ですが、時代を超えても安らぎを求める人の心は同じでしょう。



福島正頼(自然石)と息子二人の墓


福島正頼は、福島正則の弟でした。兄の正則は賤ヶ岳の七槍といわれた有名な武将だったそうです。正頼も関ヶ原の戦いで戦功をあげましたが、その後、領地没収、閉門蟄居を命じられ、伊勢山田に移り住んだそうです。ここで2男1女を育て、18年後に亡くなっています。その7年後に、息子二人はなんと喧嘩で命を落とすことになってしまいます。(山田散策より)

大世古の墓地に彼らの墓があります。
若くして亡くなった息子は哀れとしか言えないのですが、正頼はどうだったでしょう。若いころは戦で手柄をたて、その後は家族を伴い、貧しくても伊勢で平和に暮したのだと、私は思いたいです。




寿厳院
1615年開基、小田橋を渡って古市の坂を登り始める所の右手にあり、尾上町バス停のちょうど前に大きな石柱が建っていて寺の入り口とわかります。住宅地のなかにありますが、周囲に森が残されてなかなか良い感じでした。中に入ると、新しい本堂があり、周辺には古い幾つかのお堂が建っています。また大きな宝篋印塔があり、境内の隅には幾つかの古い石碑が倒れて転がっていました。それらの石碑には、文字が刻まれているものもあり、いったいどんな言われのあるものなのか、好奇心はわきますが、知る手だてがないのが残念です。

( 後で検索して俳人三浦樗良の句碑もあったそうです。確認してなかったので、また訪れようと思います )

ここには、身代わり地蔵 眠り地蔵 経ヶ峰の曼陀羅石があるそうです。

身代わり地蔵は光背の刻銘より、1640年の作で、もともと清雲院にあったそうですが、清雲院が衰退移転したのちの大正9年に寿厳院に移されたそうです。1670年に山田の大火があり、清雲院も灰燼に帰し、このとき身代わり地蔵も激しい火勢に包まれたと思われます。損傷の激しいのはそんな経緯によるものかもわかりません。今、身代わり地蔵は、どんな病気も身代わりになってくれるというありがたいお地蔵さんとして信仰を集めています。身代わりになった病気の部分がはげ落ちるのだそうです。
眠り地蔵も同じく清雲院のものであったとされているそうですが、寿厳院に移される前は間の山の参道沿いに建っていたそうです。刻銘はありませんが、山田三方会合記録より室町時代からあったようで、昔から不眠症に霊験あらたかだそうです。
経ヶ峰は、間の山の西にあった標高60メーター程の山で、山頂には12基の曼陀羅石がならんでいたといいます。明治時代に東京の豪商 原六郎に買収されて持ち去られ、唯一残っているのが、ここの曼陀羅石だそうです。( 伊勢山田散策より )


寿厳院の山門 静かな森の中を行く
お顔が見えない身代わり地蔵
全身の修復跡が痛ましい。お顔ものっぺらぼうだそうです。


眠り地蔵 祠がこわれています!


経が峯の曼陀羅石。無縁仏の墓標の中に挟まっていました。表側は見ることができません。



寂照寺
寂照寺は間の山の坂を登りきったところで、麻吉旅館の傍にあります。
1677年、千姫の菩提を弔うために創建され、江戸時代、画僧月僊によって再興されたそうです。
国指定の登録有形文化財として山門、観音堂、金毘羅堂があります。

手入れの行き届いた明るい境内です。
月僊の描いた絵図や経堂、本尊のお岩観音など、いつかは見てみたいものだと思います。

寂照寺 山門


寂照寺 金毘羅堂

金毘羅堂の天井には龍の絵が見えました

寂照寺 観音堂

月僊像

今北山墓地に 市指定有形文化財の石碑を訪ねました

宇治橋供養塔 
1580年の宇治橋竣工の際、宇治橋の傍らに建立されたもの。このとき1500人の僧侶が法華経二万部を修誦したといわれます。

戦国時代の動乱や宇治山田合戦の戦乱によって神宮も荒廃し、100年以上も遷宮は途絶えていました。洪水によりたびたび流失する宇治橋を再建し、遷宮の実現に貢献したのは、慶光院の代々の尼僧たちでした。彼女たちは足利幕府の許しを得て諸国をひろく周り、勧進によって資金を集め、四世慶光院周養のときに、ついに1580年の宇治橋竣工、1585年に両宮の遷宮を成し遂げたということです。内宮の遷宮は実に123年ぶりで、以後は現代にいたるまで、絶えることなく続いているそうです。( 伊勢山田散策より )

このときの宇治橋の竣工は、両宮遷宮を目前に控えた特別なものだったのでしょう。この供養塔は 今北山墓地の慶光院家の墓所の一角に建っています。ただ、慶光院尼僧歴代の墓所は他にあるそうです。

宇治橋供養塔



風宮十三仏石塔
風宮家の墓所に立っています。風宮家初代は 観阿弥上人で、勧進によって風宮橋を建て、1498年の刻銘とともに擬宝珠に名がきざまれています。風宮家も代々、風宮橋を守るため、諸国を勧進してまわったようです。この石碑には 上に逆修ときざまれ、右に為十方旦那、左に風宮妙生上人(四代風宮)、下に建立者と思われ道観と妙経の名があります。おそらくは、五十鈴橋供養に先立って、寄付をしてくれた旦那方、師である妙生上人、そして自らの逆修を
を祈願して建てたものと考えられるそうです。( 伊勢山田散策より )

風宮十三仏石塔




    

2016年2月12日金曜日

其の4 大湊の大仏様

其の4 大湊の大仏様

2月4日

自宅 。。。。。 勢田川沿い堤防 。。。。。。 勢田川防潮水門 。。。。。。 北向き地蔵

。。。。。。 大仏様 (大湊墓地) 。。。。。。 臥龍梅公園 。。。。。。船江庚申さん。。。。。自宅


今日は前にもふれた大湊の大仏様を見に行くことにしました。自宅から往復8キロ弱のところですが、勢田川に沿って水門まで行ってしまったので、たいへんな大回りで12キロ近くになってしまいました。船江の有連橋付近から水門まで、のどかなお散歩&ジョギングコースです。


勢田川は水質汚染が問題になっていますが、伊勢市の下水道普及により水質は急速に改善されてきました。


勢田川防潮水門

水門付近から一色大橋をのぞむ

途中まったく偶然に見つけた北向き地蔵。竹ヶ鼻の23号線沿いにあります。
毎年ひとつ願い事を叶えてくれるそうです。ラッキー!

大湊墓地   墓地の入り口にはいつも6体のお地蔵様がいます。

大湊墓地に大仏様がいます。東と西の端に一体ずつ向き合って座って、墓地を見守っているようです。
大きさは座高170センチ、蓮台を加えると3メーター以上ということです。(山田散策より)

西の阿弥陀如来


東の釈迦如来

参考までに大世古の阿弥陀如来座像(前掲) たしかに良く似ています

臥龍梅公園
臥龍梅公園は、とても小さな梅園です。花はまだですが、早咲き?の数本だけ咲いていました。
道端に、いくつかの庚申堂がありました。 おそらく各町にあるのだと思います。お供えもしてあり、今の時代も大切にされているのがわかります。
庚申さんというのは、結局良く理解できないでいるのですが、 健康や長寿、幸福などを守ってくれる神様なのだろうと思っています。神道や仏教でも取り入れられているけど、本来はどちらでもなく、教義や修行もいらない、まさに庶民の神様なのでしょう。恐ろしい様相の青面金剛は災いを払いのける逞しい神様に見えます。

大湊の庚申堂の青面金剛 6手剣人型というらしい。
月と太陽 邪鬼 鶏 猿 髪をつかまれているのは女性だそうです。
大湊 屋根には猿と桃の実!
神社の庚申堂

臥龍梅公園近くの庚申堂 伊勢市御薗町新開
大正元年建立とありました。芸術的な感じです。

船江の庚申堂 大きな佇まい 宝篋印塔には猿と桃が彫られています。
屋根にも猿がいます。

扁額には道饗社とあります。道祖神でもあるのです。

祠の中の青面金剛 恐ろしいけど綺麗。
やっぱり女性がいる (ショケラ)というらしい。
手前は見ざる聞かざる言わざるの三猿みたいです。


2016年2月7日日曜日

其の3 外宮周辺

其の3 外宮周辺 御師遺構と萬金丹、阿弥陀坐像といろいろ

1月31日 日曜日 自転車で出発

自宅、、、、、御師三日市兵部邸の土塀(市役所駐車場)、、、、、御師上部越中邸跡(地方裁判所)

。。。。。。外宮駐車場に自転車を置いて。。。。。。 大神宮前駅跡地 。。。。小西萬金丹 。。

。。。。。。御師福島みさき大夫邸跡 。。。。。。。烏帽子世古 。。。。。。御師丸岡宗大夫邸

。。。。。。大世古。。。。。御師龍大夫邸跡(大豊和紙工業 伊勢和紙館) 。。。。。。常明寺

。。。。。。神路通り。。。。。。御師東大夫邸 門と蔵 。。。。。蔵deパスタでランチ休憩 。。。。

自転車回収、、、、、、天神が丘墓地 (阿弥陀坐像 荒木田家墓碑 度会家墓碑)、、、、、、、

大世古墓地(阿弥陀坐像) 、、、、、、、大世古の浅間神社、、、、、、自宅


昼前から午後いっぱいで、いろいろまわりました。良い運動になりました。
今日の目的は御師遺構と、天神が岡と大世古墓地の阿弥陀坐像を見に行くことでした。

御師とは
平安時代後期頃から生まれ、江戸時代に最盛期をむかえたそうです。もともと神宮は天皇以外からの私幣禁断(お供えなどの禁止)でしたが、、人々は御師に依頼して神楽を奉献し祈祷を行うようになりました。 初期の御師は神宮の権禰宜で、度会(外宮の権禰宜)、荒木田(内宮の権禰宜)の姓をもつ者が多く、また権禰宜になると五位の位を授かったため、大夫と称したそうです。時代がくだると御師株が売買され、他の神官や商人なども御師となり、江戸時代、宇治に271家、山田に615家の御師がいたといわれています。
禁裏御師に藤波神主、桧垣神主、足利将軍家に藤波神主、織田信長に福井大夫、豊臣秀吉に上部大夫、徳川将軍家に山本大夫、春木大夫が担当していました。また御師は全国に檀家をもち、檀家が伊勢参宮の際は、松阪や小俣のあたりまで送迎し、御師邸に宿泊させ、神楽をあげ、酒や馳走でもてなし、伊勢の両宮参拝や名所旧跡、古市などを案内したそうです。御師は毎年、神宮の御祓大麻を、伊勢暦などの土産とともに全国各地の檀家に配り、お伊勢参りの普及に大きな働きをしたといわれます。
しかし明治4年 1871年、御師制度は政府によって禁止され、御師たちは職を失うことになります。現在、広大な御師邸や関係資料がほとんど残っていないのは、困窮した御師たちが財産の切り売りをしたためであるといいます。また、現在、祈祷や大麻の作成配布等は、神宮が直接行っています。 (お伊勢さんテキストより)

実際には戦争で焼失してしまった御師邸もあるようで、本宅が現存するのは 山田では烏帽子世古にある丸岡宗大夫邸のみだそうです。でもここは、人が住んでいるので、中を拝見することはできません。外から門と塀が見られるだけです。
また伊勢和紙は職を失った御師が始めたそうで、大豊和紙工業株式会社が、旧御師邸跡にあるのも納得がいきます。ここに、伊勢和紙館があるのですが、残念ながら日曜日は閉館のため、またの機会に見学したいと思います。


御師三日市兵部邸の土塀(市役所駐車場)

御師上部越中邸跡 地方裁判所の敷地の一角です


御師丸岡宗大夫邸 

御師東大夫邸 門と蔵
 御師福島みさき大夫邸跡 と 御師龍大夫邸跡 は 案内柱だけなので写真は省略します


伊勢電気鉄道 大神宮前 駅跡地

外宮北御門から数百mの道路沿いに看板が建っています。ここにかつて駅があったそうです。伊勢電気鉄道の前身は明治44年創立、桑名からここ大神宮前まで開通したのが昭和5年、一世を風靡したものの、その後経営に行き詰って参宮急行電鉄に吸収され、昭和17年に江戸橋以南は廃線となったそうです。松阪から小俣あたりまでの旧国道23号線はかつて線路の通っていた敷地だそうです。伊勢では宮川右岸近くの論出交差点から図書館前を通ってNTTにいたる道がそれで、秋葉トンネルや天神丘トンネルは列車が走っていたということになります。
看板の後ろに説明が載っています。参宮急行電鉄は大阪電気鉄道が伊勢を目指して新設した鉄道で、昭和6年に現在の宇治山田駅が完成して大阪伊勢間が開通、伊勢電と競合していた訳です。また当時、参宮線(亀山から鳥羽)も開通しており、伊勢には3つの鉄道があったということになります。
参宮急行電鉄は大阪電気鉄道とともに、のちの近鉄となり、参宮線は国鉄を経てJR参宮線となります。参宮線は戦前は幹線同等に扱われて東京や大阪から直通列車もあったというから驚きです。今の寂れようはどうしたのでしょう。
伊勢電は廃線になりましたが江戸橋以北は、近鉄線として残っています。





小西萬金丹
萬金丹には四つの流れがあったそうですが、現在のこっているのは小西萬金丹と野間製薬の朝熊岳萬金丹の二つのみだそうです。もともとは胃腸薬のようです。
昔の薬舗を残しているのは小西萬金丹だけだそうです。(山田散策より)

どこかで手に入れて、飲んでみたいです。。

小西萬金丹 大きな風格のある建物です

小西萬金丹 店内? 営業中という看板が下げてありましたが、誰もいないので買い難い。



蔵deパスタは、味噌・醤油醸造元の糀屋が営業するパスタ屋さんです。大正時代の元大豆蔵を改装したレトロな雰囲気のレストランで、ランチセットがパスタとサラダとコーヒーで880円と、とてもお得で、おいしいです!
ここで休憩をしたら、次はなんと墓地探検です。

私が伊勢に来て、初めいろいろ驚いたことがありましたが、そのうちの一つは墓地です。墓地と言うと東京近郊の八柱霊園くらいしか知らなかったので、伊勢の墓地を見て驚きました。まず、あまりに身近にあります。当たり前のように町の中にあります。昔は集落のはずれにあったのかもしれませんが、市街地化してしまったのでしょう。それから、各町にあるのではないかと思うくらいあちこちにあります。そうした墓地の中にはとても広いものがあります。丘の斜面一杯に墓石がならび、しかも途方もなく古いものが真新しい墓と混在しています。石器時代からずっと人が住んでいた土地だから、お墓も歴史があるのは当然ですが、苔蒸して埋もれかけた墓碑、様々な石碑、仏像、無縁仏になった墓碑をつみあげたピラミッドなどを見ると、墓地はまさに遺跡と言ってもいいのではないかと思われます。

江戸時代元禄のころ、大湊の山中道喜という人が江戸の名石工に大仏を2体つくらせて大湊の墓地に据えたそうです。そのとき、同時に3体の阿弥陀坐像もつくらせ、天神、走下、船江の墓地に置いたと言われています。天神が岡墓地の北の入り口の祠の中と、大世古の墓地の入り口には、今も、その仏像が座っているそうです。残念ながら船江の墓地にはそれらしきものはありません。 
(山田散策より) (走下の墓地は明治に大世古に移転されたそうです)

天神が岡墓地は天神丘トンネルの手前で、自転車で行けばすぐ近くです。地図で見る限り、天神が岡墓地もかなり広く、道路で南北に分断されています。(例の伊勢電跡の道路です。)
墓地の北側部分の外れの角に行きましたが、仏像らしきものは見つからず、見上げれば墓地は真上の丘の上まで広がっています。頂上付近の西の角に特別に大きな五輪塔がそびえて見えます。たしか地図では、もっと北の部分が広かったので、きっと丘を超えた向こうにも入り口があるだろうと思って、丘を登って墓地敷地内から北の入り口を探すことにしました。頂上に上がると視界に、伊勢市を一望できるすばらしい眺めが飛び込んできました。そして、北にのびる細い通路を見つけ、その通路が下にむかって見えなくなる所の両側に祠がふたつありました。ドキドキしながら、近づいていくと ひとつはお地蔵様、そしてもう一つはあの阿弥陀様に違いありませんでした。こちらの入り口はまっすぐ登ってくる階段になっています。やれやれと上がってくる人々を、やさしく見守り続けてきたのでしょう。

たくさんの墓碑の中、立派な墓碑と五輪塔複数が並んでいる所があり、一つは荒木田氏、一つは度会氏の一族の墓と思われました。

天神が丘墓地の北の入り口はこんな階段でした。

逆光でうまく撮れません。石段を上がったところで、祠の中に阿弥陀さんが座っています。

頂上の真ん中付近に荒木田姓の墓石と五輪塔が並んでいました。

頂上の西の崖の上には、ひときわ大きな五輪塔があります。度会四門橋村正修氏のもの。
他にも度会姓の墓石、五輪塔が並んでいます。


大世古墓地の阿弥陀様。

大世古墓地の阿弥陀坐像 


大世古の浅間神社

自然石に大日如来と刻まれた石がご神体で二つあります。本地垂迹説では浅間大菩薩は大日如来そのものだそうです。この付近の町村では明治の合祀政策の影響で浅間神社はほとんど残っていないそうですが、廃仏毀釈の中、この石碑は取り残されていたと思われ、大正の時代に疫病が流布した際に、お祭りされるようになったということです。(山田散策より)

祠の中の石はよく見えませんが、山田散策の本には写真が載っています。祠はないようでした。その写真をみると、宮川の大日権現の石塔に似ているのです。大世古の石塔には年代1703年と1713年と彫られているそうなので、宮川のものは孫右衛門の時代から100年後とすると1730年位でつくられた時代も近いと思われます。その頃の慣習というか、流行りか、もしくは同じ目的で作られたものなのかもしれない、、、と勝手に推測しながら終わります。

大世古の浅間神社。ご神体の石は祠の中に左右一つずつ。