2016年2月14日日曜日

其の5 大世古の千手観音 風宮の十三仏石塔 宇治橋供養塔 寿厳院と寂照寺

其の5 大世古の千手観音 風宮の十三仏石塔 宇治橋供養塔 寿厳院と寂照寺

2月7日

    自宅 、、、、、大世古墓地( 大世古の千手観音 福島正頼の墓 ) 、、、、、、  

    寿厳院( 身代わり地蔵 眠り地蔵 経ヶ峰の曼陀羅石 )、、、、、、
    
    寂照寺 (山門 金毘羅堂 観音堂 ) 、、、、、、 

    おかげ横丁 ( ウドちゃんの色紙展、海老丸で昼食 ) 、、、、、、、 

    今北山墓地 ( 宇治橋供養塔 風宮の十三仏石塔 ) 、、、、、、 自宅


今日は自転車で出発します。 おかげ横丁でウドちゃんの色紙展が開催されているそうなので、見に行くことにしました。ついでに、行きは古市を通って寿厳院と寂照寺に、帰りは今北山墓地によって幾つかの市の指定文化財になっている石塔を探してみようと思いました。伊勢に25年暮らしていますが、いずれの場所も初めてです(おかげ横丁以外)。夫は生まれも育ちも伊勢なのに知らないそうです。 内宮方面に向かう前に、先日探してもわからなかった大世古墓地の千手観音をもう一度探しに行くことにしました。今度は知っている人から場所を聞いたので、見つかるはずです。



西側の無縁仏の墓標群の中に立っていました。
30センチほどの小さな石ですが腕が42本ほられているそうです。
年代は不明ですが、時代を超えても安らぎを求める人の心は同じでしょう。



福島正頼(自然石)と息子二人の墓


福島正頼は、福島正則の弟でした。兄の正則は賤ヶ岳の七槍といわれた有名な武将だったそうです。正頼も関ヶ原の戦いで戦功をあげましたが、その後、領地没収、閉門蟄居を命じられ、伊勢山田に移り住んだそうです。ここで2男1女を育て、18年後に亡くなっています。その7年後に、息子二人はなんと喧嘩で命を落とすことになってしまいます。(山田散策より)

大世古の墓地に彼らの墓があります。
若くして亡くなった息子は哀れとしか言えないのですが、正頼はどうだったでしょう。若いころは戦で手柄をたて、その後は家族を伴い、貧しくても伊勢で平和に暮したのだと、私は思いたいです。




寿厳院
1615年開基、小田橋を渡って古市の坂を登り始める所の右手にあり、尾上町バス停のちょうど前に大きな石柱が建っていて寺の入り口とわかります。住宅地のなかにありますが、周囲に森が残されてなかなか良い感じでした。中に入ると、新しい本堂があり、周辺には古い幾つかのお堂が建っています。また大きな宝篋印塔があり、境内の隅には幾つかの古い石碑が倒れて転がっていました。それらの石碑には、文字が刻まれているものもあり、いったいどんな言われのあるものなのか、好奇心はわきますが、知る手だてがないのが残念です。

( 後で検索して俳人三浦樗良の句碑もあったそうです。確認してなかったので、また訪れようと思います )

ここには、身代わり地蔵 眠り地蔵 経ヶ峰の曼陀羅石があるそうです。

身代わり地蔵は光背の刻銘より、1640年の作で、もともと清雲院にあったそうですが、清雲院が衰退移転したのちの大正9年に寿厳院に移されたそうです。1670年に山田の大火があり、清雲院も灰燼に帰し、このとき身代わり地蔵も激しい火勢に包まれたと思われます。損傷の激しいのはそんな経緯によるものかもわかりません。今、身代わり地蔵は、どんな病気も身代わりになってくれるというありがたいお地蔵さんとして信仰を集めています。身代わりになった病気の部分がはげ落ちるのだそうです。
眠り地蔵も同じく清雲院のものであったとされているそうですが、寿厳院に移される前は間の山の参道沿いに建っていたそうです。刻銘はありませんが、山田三方会合記録より室町時代からあったようで、昔から不眠症に霊験あらたかだそうです。
経ヶ峰は、間の山の西にあった標高60メーター程の山で、山頂には12基の曼陀羅石がならんでいたといいます。明治時代に東京の豪商 原六郎に買収されて持ち去られ、唯一残っているのが、ここの曼陀羅石だそうです。( 伊勢山田散策より )


寿厳院の山門 静かな森の中を行く
お顔が見えない身代わり地蔵
全身の修復跡が痛ましい。お顔ものっぺらぼうだそうです。


眠り地蔵 祠がこわれています!


経が峯の曼陀羅石。無縁仏の墓標の中に挟まっていました。表側は見ることができません。



寂照寺
寂照寺は間の山の坂を登りきったところで、麻吉旅館の傍にあります。
1677年、千姫の菩提を弔うために創建され、江戸時代、画僧月僊によって再興されたそうです。
国指定の登録有形文化財として山門、観音堂、金毘羅堂があります。

手入れの行き届いた明るい境内です。
月僊の描いた絵図や経堂、本尊のお岩観音など、いつかは見てみたいものだと思います。

寂照寺 山門


寂照寺 金毘羅堂

金毘羅堂の天井には龍の絵が見えました

寂照寺 観音堂

月僊像

今北山墓地に 市指定有形文化財の石碑を訪ねました

宇治橋供養塔 
1580年の宇治橋竣工の際、宇治橋の傍らに建立されたもの。このとき1500人の僧侶が法華経二万部を修誦したといわれます。

戦国時代の動乱や宇治山田合戦の戦乱によって神宮も荒廃し、100年以上も遷宮は途絶えていました。洪水によりたびたび流失する宇治橋を再建し、遷宮の実現に貢献したのは、慶光院の代々の尼僧たちでした。彼女たちは足利幕府の許しを得て諸国をひろく周り、勧進によって資金を集め、四世慶光院周養のときに、ついに1580年の宇治橋竣工、1585年に両宮の遷宮を成し遂げたということです。内宮の遷宮は実に123年ぶりで、以後は現代にいたるまで、絶えることなく続いているそうです。( 伊勢山田散策より )

このときの宇治橋の竣工は、両宮遷宮を目前に控えた特別なものだったのでしょう。この供養塔は 今北山墓地の慶光院家の墓所の一角に建っています。ただ、慶光院尼僧歴代の墓所は他にあるそうです。

宇治橋供養塔



風宮十三仏石塔
風宮家の墓所に立っています。風宮家初代は 観阿弥上人で、勧進によって風宮橋を建て、1498年の刻銘とともに擬宝珠に名がきざまれています。風宮家も代々、風宮橋を守るため、諸国を勧進してまわったようです。この石碑には 上に逆修ときざまれ、右に為十方旦那、左に風宮妙生上人(四代風宮)、下に建立者と思われ道観と妙経の名があります。おそらくは、五十鈴橋供養に先立って、寄付をしてくれた旦那方、師である妙生上人、そして自らの逆修を
を祈願して建てたものと考えられるそうです。( 伊勢山田散策より )

風宮十三仏石塔




    

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