2021年8月24日火曜日

伊勢参宮名所図会 巻の四 ニノ鳥居 直會院 別宮遥拝所 三石 御池 手洗場 伊弉諾伊弉冉二尊拝所



        
ニノ鳥居 一の鳥居の次にあり 勅使の時 此の所にて大麻(おおぬさ)御塩献じ 榊の枝に木綿(ゆふ)を結び垂れて振りはらい又堅塩を土器(かわらけ)に盛りて 榊の葉にのせて振りそそぎて清め奉るなり 諸国の参宮人に御師の家にて清めの御祓塩をいただかしむるも是に習うか 


 💬 大麻は神社で御祈祷を受けるときに、神職が左右左と振って罪穢れを祓う神具をいいます。一般的には白木の棒の先に麻紐や紙垂を付けたものです。神宮で用いられる大麻は幹榊(幹に枝葉が付いた榊)に麻をつけているものだそうです。また、大麻の所作に続き、榊の小枝で塩湯または塩(土器にのせる)を左右左と振りそそいで祓い清めるそうです。

神宮 大幣
一般的な大麻

💬 現在もニノ鳥居のすぐ手前に祓所という場所があります、
直會院(なおらいいん) 五丈殿二宇 九丈殿一宇の三殿を一つにして直會院といへり 又は五丈殿一宇を主神司殿といい九丈殿一宇を一の殿ともいう 是も絶えたりしを 元禄年中公より再興し給えりとなん 是は勅使饗應の所なり 公事根元には なうあいと書けり なうあいとは神饌を奉るをも 神饌のおものを頂くをばいうなり 日本紀 持統天皇の紀には掌の字をなうらいと訓し神嘗月次新嘗會など なうないの御はん御酒まいる事あり 春日社にも直會殿ありて勅使神食をいただき給う所なり その後解齋の御かゆ参るなり この三院を直會殿にも解齋殿にも用いて時によりて其の名のちがいあるにやともおぼゆ 今も神嘗祭にはこの一殿に着き給うて饗應あるなり 御輿宿りという所西にありしが今は絶えたり

〇玉串所 九丈殿の前 大庭を言う 昔は石壺有りし由 江次第に見ゆ 應安御遷宮記には玉串所の石畳とあり 雨天には神輿宿りにて行いしを今は一の殿にて行うなり 是は月次神嘗祭に禰宜宮司 玉串を取り給う故 玉串行事所という 〇廻榊 此の所に一本の榊あり その榊の下にて宮司玉串をとり榊の東を廻り 禰宜は玉串を取りて榊の西を廻る故に廻榊という 解齋の時 宮司禰宜の冠につけたる木綿かづらをこの榊にかくるなり 此の所その場所広きゆえ大庭という


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直会とは、祭の終了後に神前に供えた御饌御酒を神職をはじめ参列者の人々で戴くことをいうそうです。古くから、お供えをして神々の恩頼を戴くことができると考えられており、共食によって神と人が一体になることが直会の根本的意義だそうです。また一般的な儀礼として御神酒を戴くということがありますが、これは直会の簡略的なものと考えてよいそうです。(お神酒にそういう意味があったとは知りませんでした)神職は祭のまえに斎戒をして身を清め、祭典を経て、祭典後の直会をもって行事が終了し、解齋となり元の生活にもどるそうです。したがって直会は一般の宴とは異なり、祭典の一部であるということです。(神社本庁HPより)

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現在の神宮の五丈殿・九丈殿は、神宮ホームページによると、雨天時の祭典でのお祓いや遙祀をしたり、また式年遷宮でのお祭りにおける饗膳の儀が行われる所だそうです。また、伊勢神宮崇敬会のサイトの解説によると、九丈殿と五丈殿の前の石原を大庭といい遷宮諸祭の玉串行事などが行われ、西南の隅には廻榊があると書いてあります。参宮名所図会の説明とほぼ同じかなと思います。


外宮 五丈殿(奥)九丈殿(手前)


大庭の西南隅にある榊 廻榊でしょうか
大木ではありませんが幹樹に苔がはえていて古そうです 

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一丈は約3メートルで,屋根の大きさがそのまま建物の名前になっているそうです。参宮名所図会では五丈殿2宇と書いてありましたが、外宮宮中の図(上掲)では一つの建物にしか見えません。現在のものも同様です。五丈殿は内宮にもあるので、これらを合わせて二宇と書かれたのでしょうか。もしかもして二つの建物がピッタリ並んで一つに見えるのかもしれないと思って改めて見に行きましたが、やはり一つでした。そして九丈殿より長いのです。九丈殿については、上記の伊勢神宮崇敬会の説明によると、建物の長さが名称に残っていると書いてあります。かつては九丈あったのが今は短いのでしょうか。実際どれくらい長いのか測るとよいのですが、ちょっと恥ずかしいので、保留です。

💬 また参宮名所図会の図では、五丈殿九丈殿は北御門からくる参道の手前(東側)にありますが、現在は向こう(西側)にあります。明治になって神楽殿を建てたため移築されたのかと思いましたが、廻榊や遙祀所、三石の位置から考えると、五丈殿九丈殿の位置は変わらず、参道が移動したようです。表参道と北御門の参道の合流点に神楽殿が建てられています。




別宮遥拝所 廻榊の傍ら御池の間にあり 別宮は四所あり 高宮・土宮・月讀宮・風宮なり 石畳あり 祭主宮司禰宜の石畳なり

三石 御池の前にあり 石を鼎の如く三つ据え置き 参宮の時これを避けて踏まざるを習いとす 是は月次神嘗祭又は遷宮の時 御巫内人御祓いを修する所なり

別宮遥拝所 向こうに三石 奥は御池

三石




御池 いにしへの御手洗なり 上中下の御池あり 上の御池と中の御池は半町ばかりを隔て 下の御池は二の鳥居の外なり ここにいうは中の御池なり 又三池ともいう 又御川池ともいう 斎宮式御川池の神祭などいうは別儀なり 然るにこの池埋もれけるより桑山殿寄付ありて此の手洗い場を設けられしなり 旧記には天正六年戌寅三月二日 向井将監 外宮高宮を建て遷宮あり 此の時に池を所々に構え火災の備えとす これを将監殿の池という 〇比丘尼池 熊野比丘尼の溺れしよりの名なるよし長官智彦語られしと夜話草に出でたり 六月十日 中の御池さらへとて宮人という神役烏帽子をこうむり勤む

1791 外宮御宮絵図より
絵図中で三つの御池が見える

現在の池の様子 

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上の外宮御宮絵図では、中の御池の東は沼と書かれています。現在は沼地はなく、沼全体が御池になっています。この池がいつも澱んでいるのがわかる気がします。そういえばこの辺りは古くは沼木と呼ばれていた地域に含まれます。高倉山に降った雨がじわじわ染み出してくるのでしょうか。6月10日は池さらえとあるので、昔から澱んだ池だったのかもしれません。
また将監殿の池は火災に備えた池でした。天正6年とは1578年です。戦国時代に遷宮が中断され、129年ぶりに外宮の遷宮が行われたのは1563年、財政上の問題で内宮は実施されず、小田豊臣の寄進により両宮の遷宮が果たされたのは1584年です。高宮(多賀宮)の遷宮に合わせて池を造ったとありますが、129年ぶりの新しい社殿がいかに大切なものであったか想像に難くないと思います。
ちなみに牛鬼伝説にでてくる園田将監さんとは全く関係ありませんでした。そもそも将監というのは官位に由来した通称だそうです。百官名というらしい。


手洗場(ちょうずば)御池のまえにあり 桑山殿寄付の石盥なり その時裁石を用いる事 古法に背けるよし いなみしかども終に雌伏せり
〇中堤 このほとりより風の宮辺り迄をいう。永正記に御池の土橋の道とあるは是なり

伊弉諾伊弉冉二尊の拝所 手洗所の北の石積なり 二尊および遠方に坐す摂社の遥拝所なり〇御母神の拝所 今この前に板囲いを構えて太神の御母神の拝所とて参宮人に拝せしむるなり

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手水場は、今は表参道の入口で火除橋を渡った広場にあります。北御門の参道では火除橋の手前にあります。
中堤という言葉も今は聞かれません。御池の土橋の道で風の宮辺り迄をいうのであれば、亀石の橋の道だと思われます。参宮名所図会では亀石には触れていません。
伊弉諾伊弉冉二尊拝所、御母神拝所は、今はありません。

永正記 1513年 内宮禰宜 荒木田守晨 著

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