三の鳥居 第四の御門の南にあり 三鳥居とは族称なり 荒垣御門とも板垣御門ともいえり 第一より第三に至る故に三の鳥居という いにしへはこの鳥居より板垣をめぐらせり
第四御門 三の鳥居の北にあり 古記には外の玉垣御門という この門にも玉垣ありて東西北に御門ありしとなり 是を十二所御門といえる事、俗に言い慣わせり 柱十二本あるゆえとあれど 是もいかがの説なり
第三御門 石壺の傍らにあり慶安の遷宮記に初めて小鳥居と記せり 此の拠りどころいかが 内宮の鳥居を以って例せば三の鳥居にあたるなり
石壺 第三御門の左右にあり 東は勅使宮司 西は十員の禰宜の石壺なり 石壺とは石を畳みて神祭および行事の時座を敷の標なり 禁中にいう版位のごとし 又は石畳ともいえり 但し勅使宣命を詠む時は新たに作る古例なり
斎王候殿 玉串殿の前東の方にあり 正殿東にあれば西にあり いにしえは玉串御門の前東に斎王候殿 西に舞姫候殿ありて祭礼には斎王玉串を取り舞姫候殿にて舞奏せしなり 両殿ともたえてなかりしを元禄年中斎王候殿再興ありて祭礼のとき雨天なれば勅使宮司宣命祝詞をこの殿にして読み奉り給う例なり
玉串御門 第三御門の内にあり 一名、内の玉垣御門という諸祭に宮司禰宜の持ち給う玉串を物忌父取りてこの御門の柱の下に納るによりこの名侍るなり 儀式帳に第二の御門の内に玉串を納むといい 延喜式には外の玉垣御門に進み入りて内の玉垣御門に当たり跪くとあり是なり この門の内にも石畳ありて玉串を収めし由 古記にあれど石畳は絶えたり 御門も久しく退轉せしを 寛文御遷宮の時 御再興あり 諸国の参宮人はこの御門の前にて拝す 玉串とは「藻しほ草」に大神宮に榊を串にさす事あれば玉串というにこそあれ なべての榊を玉串といはんはいかがと云々 〇玉串とは玉籖とも書くなり 玉は善稱のことば 籖串同じ事なり 今紙をこまかに切截て串にさせるをいう 説文には 籖をしるしなりと注して神へ奉るしるしとぞいう故に榊を玉串の葉ともいう
新古今
神風や玉くしの葉をとりかざし内外の宮に君をこそ祈れ 俊惠法師
是は康治大嘗會に中臣寿詞を奏せしに読みし歌なり 祝詞式に太玉串大中臣これを持つともあり 太は美称なり
蕃垣御門 玉串御門と瑞垣御門との間にあり 儀式帳に蕃垣三重とあり 是を猿頭の御門という軒板の上に打ちし木を丸く彫りて猿の頭に似たればかくいうなりといえり
瑞垣御門 蕃垣御門の内なり 瑞垣ある故にこの名あり延喜式儀式帳などには内院の御門という この内 御本社なり
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三の鳥居は、現在の板垣(いたがき)南御門にあたると思われます。正殿の入口にある大きな鳥居で、いにしへの如く板塀がめぐらされています。第四御門は外玉垣(とのたまがき)南御門にあたります。やはり板塀に囲まれています。今の一般参拝者は板垣南御門の鳥居をくぐり、外玉垣南御門の前でお賽銭を入れて参拝します。布が掛けられ中の様子はよく見えませんでしたが、最近は板塀が低くなって見ることができます。小鳥居は中重(なかのえ)鳥居といわれ、特別参拝者のみがこの鳥居付近で参拝することができます。その奥に内玉垣(うちたまがき)南御門、蕃垣(ばんがき)御門、瑞垣(みずがき)南御門と続きます。中重鳥居の両脇には今も石畳が見られます。
伊勢参宮名所図会では板垣や外玉垣がなく、正殿の囲いは二重です。参拝者は内玉垣御門の前まで行くことができました。しかも内玉垣の周囲をぐるりと北側の御饌殿の前まで歩いていくこともできました。現在は正殿は四重の板垣に囲まれ、周囲は立ち入り禁止で近づくことができません。本殿は森の木々の合間にちらりと見えるだけでした。(外玉垣の板塀が低くなってで最近はもう少し見えます)現代の神宮神域は、神聖で厳かな雰囲気がありますが、昔はもう少し身近な感じがあったようです。末社遥拝めぐりとか、天の岩戸(高倉山古墳)見物とか、観光的な要素もあって、楽しかったのではないかと思います。
板垣と外玉垣は、古くはあったものが江戸は時代には無くなっていました。これらを再興したのは 明治2年の遷宮のときだそうです。明治2年ですから、実際の造営準備は幕府がしていて、再興の発意も江戸幕府ということです。神宮の尊厳を守るために、神域に庶民が近づきすぎるのは好ましくないというの考えがあったそうです。
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