2021年8月26日木曜日

神嘗祭 神嘗祭其の二

 




神嘗祭
  井 例幣使
天子より両宮へ勅使を以って御幣を奉らせ給うは九月十六日十七日にて 年毎の事なれば是を例幣使という。此の事朱雀院の御時に始まり 十一日葱華に御してかしこくも神祇官へみゆきなりて行い給いしとぞ。養老五年九月十一日にはじまる

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葱華輦(そうかれん) 葱華の御輦(なぎのはなのみこし)という言葉があります。
屋上に金色の葱花の飾りをつけた輿で、天皇が神事や臨時の行幸の際に使うそうです。
文中 葱華に御し この御輿に乗って行ったということでしょう。

神祇官 律令制で設けられた朝廷の祭祀を司る官庁名

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神嘗祭
神宮の年間のお祭りの中で最も重要なお祭りで、その年に収穫された最初の新穀を天照大神に捧げて、恵みに感謝するお祭りです。明治以降は10月に行われています。内宮では10月16日の午後10時と17日午前2時に由貴大御饌の儀(神田で収穫された新米で調理した蒸し米、餅、白酒、黒酒を山海の食材と共に捧げる)が行われます。17日正午には、天皇が遣わした勅使が幣帛を奉納する奉幣の儀が行われ、最後に17日夕刻に御神楽が行われます。外宮では1日早く10月15日16日に由貴大御饌、奉幣、御神楽が行われます。(神宮ホームページより)

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参宮名所図会では由貴大御饌について述べられていませんが、この図では、焚火が勢いよく燃えていて夜間の行事であることがわかります。長官禰宜の列の前に櫃のようなものが置かれ、廻榊の前に玉串内人がすわり、大宮司が紐のようなものをもって榊を受け取ろうとしているようです。これはきっと 由貴大御饌の儀の一場面でしょう。一般の見物人もいて何やらしゃべりながら見ています。現在は夜間の参拝は禁止されていて由貴大御饌を見ることはできません。右端には武士の姿も見えます。山田奉行所の役人達かなと想像します。刀を手元に置いてあるので驚きます。



其の二
勅使進発の前に宣命をはじめとして神祇伯禁庭の事務追日行われ 進発の日に当たって宣命を賜り常も奉り長月の神嘗の御幣ぞ汝中臣能申て奉れと勅を奉って逢坂の関を超え 路次所々の禊し宮川を渡って種々の調物を整え 一の鳥居より下馬行列ある 又御馬を引き立て玉串所において行い事あり それより広前にすすみてをのをの飯位につき 中臣宣命を読進し給う 宮司また祝詞をのべらる 玉串を納る行事終えて御内にすすみて御幣木を納め奉り御内を出てのち八度拝・饗膳・倭舞の行い事あり 委く延喜式井儀式帳などに見ゆ故に其の大概を記す 又祭礼の後鳥子名舞というあり 俗にひよひよの神事という

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進発:出発   神祇伯:神祇官の長官   禁庭:宮中   追日:日一日と
路次:道筋   飯位:?   鳥古名舞(となこまい):常世の長鳴き鳥を模した舞

💬御幣木について
御幣は神前への捧げものの意味するそうです。古来から捧げものは時代の最先端の貴重なもの(米、酒、塩、魚などの神饌、武器・武具、玉、鏡、衣類、布など)でしたが、奈良時代後半から平安時代にかけては主に布、さらに時代がすすむと紙を捧げるようになったそうです。捧げ方も色々あったそうですが、木にはさんで捧げるという形が登場し、これが現代の御幣につながっていきます。捧げものをはさむ木には、捧げもの本体と、神聖さを表現する木綿や麻をはさんで垂らしたそうです。木綿や麻は後に紙になり、紙垂(しで)と呼ばれます。
室町時代から江戸時代にかけては、御幣は、捧げもの本体(幣紙)、紙垂、それらをはさむ木(幣串)という構造になっていたそうです。御幣木というのは、こうした形の捧げ物の事と思われます。その後、幣紙と紙垂は一体化され、特徴的な造形から紙垂が強調されて、現代のような形になったということです。

御幣(二見興玉神社)

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其の二は、奉幣の儀の様子と思われます。まさに正殿の扉を開けて御幣木を納めようとする所と思われます。ここでは見物人は瑞垣の外に大勢います。現代では絶対に許されないでしょうね。瑞垣内の東宝殿の前には、やはり武士の姿があります。


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