2021年8月31日火曜日

度會宮正殿 

度會宮正殿 豊受皇大神 一座
相殿 天彦彦火瓊瓊杵尊 天太玉命 天児屋根命  三座

〇當宮御鎮座の始めは人皇二十二代雄略天皇二十二年九月十五日なり 是は垂仁天皇御宇二十六年十月に天照皇大神當国五十鈴川のほとりに鎮座、両宮元より別なれど伊勢太神宮と称し奉る時は二宮すべての名なり 後四百八十二年を経て天照皇大神の御託宣によりて丹波の国(今は丹後の国に入れり)与謝郡真名井原より移らせおはします その昔倭姫命 天照皇大神を戴きまつり与謝の宮に鎮まり給いしとき天降ましまして御同殿にましませし御神なり 今丹後の国河守の内外宮というは是なり 其の時御幽契ありけるにや かくのごとくの神託し給いて朝夕の御饌も御一所にあらざれば容易にきこしめされぬとの義なり

〇皇孫尊の事 士佛日記に見えたり 〇天津児屋根命 中臣藤原祖神 春日 河内平岡祭所〇天太玉命 忌部氏祖神 安芸一宮また大和忌郡に祭る 両神は補佐の神なり

御殿造りは南面にして茅葺掘立柱は 太古穴住まいの後 初めて家造りを覚え竹木をそのまま縄からげにせしさまなり 〇風榑鰹木(ちぎかつおぎ)泥障板(あおりのいた) 覆板(おおいのいた) 樋侏儒(ひつか) 樋貫(ひぬき) 鞭掛(むちかけ) 居玉(すえたま) 大床(おおゆか) 御階(みはし) 金銅の御飾等 その他記すにいとまあらず


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豊受大神は、食物・穀類を司る女神です。古事記では豊宇気毘売神と表記、別称もいろいろあります。伊勢神宮外宮の社伝(止由気宮儀式帳)には、雄略天皇の夢に天照大神が現れ「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比治の真奈井にいる御饌の神、等由気太神を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、外宮に祀るようになったとされています。

天彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと) 一般的にいう瓊瓊杵尊で、日本書紀でこの名があります。天照大神の孫で、高天原から九州の日向に降り皇室の祖先になった神様です。

天太玉命(あめのふとだまのみこと) 神話では、岩戸隠れの際に、天児屋根命とともに、太占を行い、天照大神が顔を出すとその前に鏡を差し出した神様だそうです、天孫降臨の際には瓊瓊杵尊に随伴して地上に降りてきました。忌部氏の祖とされました。忌部氏は中臣氏と共に古代朝廷の祭祀を司った氏族だそうです。根拠地の大和忌部とは現在の橿原市で天太玉神社があるそうです。安藝一之宮は厳島神社で天太玉命は祭神ではありません。全国に一之宮はたくさんあるので、安藝が間違いかもしれません。

天児屋根命(あめのこやねのみこと) 岩戸隠れの際に、天太玉命と共に天照大神の前に鏡を差し出した神様だそうです。天孫降臨の際に、瓊瓊杵尊に随伴し、また中臣氏の祖とされました。春日大社 枚岡(ひらおか)神社の祭神です。

相殿神については、検定お伊勢さんの公式テキストブックでは御伴神三座とのみあり、上記の神様の名はでてきません。(内宮の相殿神については天手力男神、万幡豊秋津姫命の二座と書いてあります)理由は不明です。

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豊受大神が外宮に遷座したのは、天照大神の内宮鎮座から482年後と書いてありますが、これはきっと正しくありません。古代天皇の在位期間が長すぎてあてにならないのです。初代神武天皇から11代垂仁天皇まで630年、次の10代後の雄略天皇まで480年、次の10代後は130年、100年、120年・・と続くので、実際は100年くらいなのかなと、思いました。

丹後の国河守の内外宮というのは、福知山市大江町の皇大神社、豊受大神社の事と思われます。豊鍬入姫命は、天照大神を祀る理想的な地を求めて笠縫邑を出て諸国を巡歴しますが、はじめに丹波の吉佐宮にて4年間天照大神をお祀りをしています。その時に古くからの丹波の神、豊受大神と共に祀られたそうです。その後、倭姫によって天照大神は伊勢に鎮座し、遅れて豊受大神も伊勢に遷座します。天照大神が伊勢にくる前に祀られていた神社を元伊勢と
いうそうですが、丹波の元伊勢という伝承をもつ神社は、上記の皇大神社の他にも複数あり、一つに定められていません。(上御井神社のところでも同じようなことを書きましたが)丹波での豊受大神は、羽衣伝説のヒロイン、より人間的で、親しみが感じられます。元伊勢神社は豊受大神の故郷でもあるので、いつかぜひお参りに行きたい所です。

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正殿の建築については伊勢神宮のHPでも紹介されています。
唯一神名造と呼ばれる建築様式で、古代の高床式倉庫から発展した形と考えられているそうです。本文を読むと、江戸時代の人でも太古の人類はほら穴に住んでいたということを知っていたようで、ちょっと意外でした。掘立柱が、家造りを覚えたての頃の竹木をそのまま縄でからげたような様というのは、全然違うのでまた驚きます。確かに檜の素木を使うということですが、縄は使っていないし、それに後述で、様々な建物の部位の名称や据玉・金銅飾りを挙げているので、たいそう緻密で精巧に造られているのはわかっているでしょう。でも自由な書き方だと思います。この時代の人は正殿を見ることができたと思うので、それぞれ自由に感じたのでしょう。

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