大間は大若子命(おおわくごのみこと)国生は乙若子命(おとわくごのみこと)を祀る
大間広は左の森にあり
大若子命は一名大幡主命(おおぼたぬしのみこと) 乙若子命は一名加夫良居命(かぶらいのみこと)という 度会氏の祖なり 大間広町の左の森にあり
大間広 上中郷の領下 堤世古の入り口にして左の方へ至る横道なり
草薙社
大間の社の西にあり 祭所 標剣仗(ひょうけんじょう)なり 越に凶賊ありし時 垂仁天皇の御代 大若子命に詔して討ちせしめ給いし剣なり されば日本武尊命の故事を擬して後世草薙と称するか 標剣杖は 標はしるしなり 剣杖は兵仗にして後には節刀という 叛く者ある時朝廷より将たる者をえらまれ これにしるしの剣を賜り 向かって征伐せしむ 此の事 禰宜補任に見ゆ 標剣仗の事は元々集に見えたり 節刀の事は禁秘抄にあり
付言
内宮の神山より掘り出せる剣頭石といえる奇石あり 伝えて素戔嗚尊の剣の頭という 誠しからずといえど昔の頭槌の剣なるや知らず 谷川士清が勾玉考にも弁ありて三輪山にも堀得ることありとぞ 是を宇治山中氏の人の許に得て見しなり 頭槌剣のこと 日本記 古事記等に見えたり
清野井庭社 大間社の東 人家の裏にあり 祭所 草野姫の神にて草の霊なり 外宮摂社十六社の内 俗に小間の社という 大間に対しての俗称なるべし
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大間国成神社と草薙社は、大間広と呼ばれる台地の上の同じ社地にあります。鳥居をくぐると石垣が正面にあり、その向こうに、向かって右に大間国生神社、左に草薙社があります。また、大間国生神社は一つの玉垣の中に二つの社殿が建っていて、右(東)が大間社、左(西)が国生社です。大間社は大若子命、国生社は乙若子命を祀っています。大若子命は外宮の祭祀を司ってきた度会氏の遠祖とされています。
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大間広は現在の山田上口駅の南に広がる台地状の土地をいうそうですが、実際にどこからどこまでか、台地という地形も、まったくわかりません。堤世古の入り口で左にはいる横道と書かれていますが、このあたりは空襲で焼けたそうで、道は整備され、古い街道はなくなっています。ただ地図を眺めていると、左、左、左と、3回も繰り返されているように、伊勢街道を歩いて来て、この辺りで左の横道に入らないと大間広の神社を通り越してしまいそうです。
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草薙社は標剣仗を祀っています。大若子命が、越国の賊徒 安彦を平定する際に、垂仁天皇より賜った剣です。日本武尊命にちなんで草薙と命名されたという説があります。標はみしるしという意味。兵仗は戦うための武器。節刀は、天皇が出征する将軍や大使に持たせた任命の印としての刀のことだそうです。
「草薙」という表記は今日では「草奈伎」に統一されているそうです。祭神は御剣仗神(みしるしのつるぎのかみ)というそうです。
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大若子命についてまとめ
天日別命の子孫。天日別命は神武天皇の命を受けて伊勢国を平定、伊勢国造になったということです。
大若子命は、伊勢の国造として倭姫に同行して内宮鎮座をたすけ、神国造と神宮の初代大神主となりました。外宮の神主家の度会氏の祖先とされています。 朝廷より標剣仗を与えられ、越国の賊徒安彦を平定し、その功により大幡主の名を賜りました。
乙若子命について
大若子命の弟。倭姫に同行して内宮鎮座をたすけました。外宮の大神官をつとめました。
草奈伎神社は外宮摂社1位 大間国生神社は2位です。内宮鎮座に最も功労のあった倭姫は、大正時代まで祀る神社がなかったのに、大若子命 乙若子命は古くから祀られていました。度会氏の力ということでしょうか。
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頭槌(かぶつち くぶつち)の剣とは、古代の剣で、柄頭が槌状にふくらんでいる太刀をいうそうです。伊勢の国学者 谷川士清は、剣頭石という奇石が内宮の神山から掘り出され、この頭槌剣の頭であろうと考えました。また、三輪山でも剣頭石が掘り出されると述べています。しかし、この考えは現在では誤認とされ、剣頭石は、実は勾玉の一種で、子持ち勾玉と呼ばれ、おそらく祭祀に使用されたものと考えられています。古墳時代の集落跡から出土することが多いそうです。
頭槌剣 |
子持ち勾玉 |
内宮の神山 内宮の周囲に神山なる地名は見あたりません。内宮裏の神路山のことでしょうか。今のところ詳細不明です。
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清野井庭神社 大間社の西にあります。草野姫の神(かやのひめのみこと)を祀っています。草の霊ですが、ここでは清野は周辺の原野をさし、井庭は井堰をさしているそうです。近隣の灌漑用水を守る神として祀られていたようです。
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