土貢島(とくしま)
俗にとうくという 〇慥柄南島のつづきなり 〇昔この島より柏をささげ 柏流しの神事という事 風宮にて行わる 七月四日なり 風日祈りの神事ともいう 〇柏の浮いて流るるは豊年とし 沈みかえるなどは凶年という伝う 〇長柏の事 説々多し
おもうこと とくのみしまの長柏 ながくぞ頼む ひろきめぐみを 寂阿
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土貢島についての記述は、まったく知らないことばかりです。まず、土貢島の地名が見当たりません。ただ慥柄のとなりに東宮という町があります。音が似ているので、調べると南島町史に、東宮はふるくは土貢と呼ばれていたという記述がありました。また、ここは川村瑞賢の生まれた土地ですが、川村瑞賢の資料に、土貢島に引っ越したという文章がああり、土貢島は今の東宮でいいようです。さらに 南島町史によると、東宮は昔神宮の御厨であったそうです。御厨というのは、神饌の料を献納した神宮の領地だそうです。ならば柏を捧げたという記録もあるかと思えば、この地は特に「秘密のもの」を神宮に奉献する役目を負うていた、と書いてありました。しかも「秘密のもの」は 柏の葉に包まれ葛で結んであり、何であるのかは、著者も知らず、おそらく土の団子のようなものだろうと推測されています。?
柏流しの神事について、神宮要綱(神宮司廳 昭和3年)には、「・・・中世以降この日の神事を柏流しと称することあり・・・その縁由詳かにならざるのみならず又その行事一も史跡に徴すべきものなし」とあります。これは 柏流しの神事そのものの存在を否定しているのか、記録に値しないとしているのかわかりませんが、今は全く行われていないという事は間違いなさそうです。
短歌にある長柏について調べてみると、昭和4年の植物研究雑誌7号6巻(ツムラが発行している雑誌大正5年創刊、現在も発行)に投稿がありました。それによると、昔神事に使われたとする葉で、御綱柏、三角柏、とも呼ばれ、また食物や酒を盛る器としても使われ、志摩の土貢島から献納されていたと書かれています。柏が文献上にはじめて登場するのは古事記で、仁徳天皇の時代、仁徳天皇の皇后が豊楽(儀式の後の朝廷の宴会)のために柏をとりに紀州まで出かけた・・・というくだりがあるそうです。ここで古事記伝の解説が引用されています。
古事記伝の中で、本居宣長もこの柏についていろいろ調べて述べています。土貢島からは毎年忌物が献上されていて、その中に長柏がはいっていたという事、大神宮年中行事や神名秘書の書物に柏流しの神事の記載があり占いが行われていたという事、名所図会にでてくる上記の短歌も寂阿法師の歌として古事記伝で紹介されています。また、鴨長明の伊勢記に、長さ三尺の柏の葉をもらったという話があるそうで、本居宣長は、枝の長さの間違いか、葉なら三寸の間違いだろうと述べています。
植物研究雑誌の投稿者は、葉の長さ三尺であるとするなら長柏はオオタニワタリに違いないと述べています。
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オオタニワタリとは 紀伊半島以南から南西諸島に分布するシダの仲間だそうです。生息の北限が紀伊長島の大島という所で、絶滅危惧種に指定されているそうです。柏餅の葉とは違うのですね。昔は土貢島にも自生していて、伊勢に献納されていたのかもしれません。
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古事記伝には、長柏を 犬朴の木、赤芽柏とする考えもあり、さらに古代のものとは異なるかもしれないという意見も書いてあります。長柏の事、説説多しということでしょう。
寂阿という名をネットで検索すると、江戸時代の俳人の並木寂阿、鎌倉時代末期の武将の菊池武時(出家して寂阿)が出てきます。寂阿法師といえば 出家していた菊池武時のことと思われます。最後は討ち死にして亡くなるのですが、吉凶の占いに思う事とは、自身の命運なのでしょうか。ひろきめぐみを という言葉は、やはり多くの人々の幸福が長く続くように祈っていたのでしょう。
それから、鎌倉時代には 柏流しの神事が行われていたのかもしれません。
東宮は川村瑞賢の生誕地です。
川村瑞賢の公園とその周囲には 今の季節、河津桜が満開です。
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