2020年2月6日木曜日

伊勢参宮名所図会 巻之四 宮川





宮川 山田の入口なり 是より外宮北御門まで三十町 
一名 度会川(わたらいがわ)豊宮川(とよみやがわ)斉宮川(いつきのみやがわ)
                  源は和州 添下郡大(そふのしもこおりのおお)
台原 巴が淵やその他谷々より落ちて二見大湊に至る
里俗の書に
 北熊野 西は宮川 東風吹けば 吉野の川にまさるなり

渡し船は昼夜を分かたず 満水の時も両宮のうちより人を出し参詣人を渡さしむ
御遷宮の御時は舟橋をかくる
勅使参向の時ここに禊あり 又いにしえ三祭礼の前月  禰宜の大祓もここに勤仕す 諸国より参詣人 この川に浴して身を清むるもこれにならえり

新古今
 契りありて けふ宮川の ゆふかづら 永き世まても かけて頼まん   定家
新拾遺
 御禊する 豊宮川の 敷浪の 数より君を なほ祈るかな  朝勝


💬 宮川東岸の絵の次のページをめくると 宮川の紹介です。
名前の由来は、外宮である豊受大神宮の禊川であったことから豊宮川と呼ばれ、豊は略されて、現在は宮川となったようです。水源は大台ケ原です。上記では 和州(大和国)添下郡とありますが、大和国の北の地域をさすようなので、ちょっと違うかもしれません。

💬台原とは、大台ケ原のことと思われます。『吉野山独案内』(1671年)という本に、
大台ケ原に巴が淵というものがあって、吉野川 熊野川 宮川 三つの川の上流にあたる。周りのおいしげった藤の枝によって、西風が吹くと水は東へ流され宮川へ、東風が吹くと吉野川へ、北風が吹くと熊野川へ流れ出るとか と書かれているそうです。巴が淵がただ一つの水源というのは、あり得ないのですが、面白い風景だなぁと思います。

💬渡し場は大混雑だったようです。この渡し船は 大神宮の御馳走船といわれ、無料で、昼夜の別なく運行されていたそうです。

💬 和歌
新古今和歌集 
 前世からの宿縁があって、今日宮川(外宮)を参拝できました。髪にかけてあるゆうかずらのように、末永いご加護をお願いします。     藤原定家
  百人一首 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くやもしほの身もこがれつつ

新後拾遺和歌集
  度会 朝勝    南北朝時代 外宮禰宜



〇清盛堤  宮川の堤をいうなり いにしえは川幅広く故に この時の堤は今畑となりて字に残れり
元正天皇霊亀 清和貞観のころ 度々大風洪水せし事記録に見えたり  崇徳院大治3年勅して大宮三座および大河内神社、志登美神社を河水の守護と祀らせ給う このとき平清盛 命をこうむりて此の堤を築けり また弘治3年以来 度々洪水せり 近来には元文6年辛酉7月22日洪水数百丈 

💬
伊勢市HPより、宮川堤の歴史を調べると、最も古い洪水の記録は、717年(霊亀3年)8月16日の大風洪水のようです。清和天皇の貞観のころ、856年8月13日にも大風雨があり、その他幾度かの洪水の記録があります。1128年(大治3年)宮川堤の守護の功績により外宮摂社であった土社が、土宮として別宮に昇格したそうです。また、同じ年に外宮末社の志登美、大河内、打懸神社の祭神も宮川提の守護神として定められたようです。清盛が訪れたのは、もっと後で、1161年から65年にかけて勅使として参詣、惨状を聞いて堤防の改修に力を尽くし、此の堤を清盛堤と呼んだと言い伝えられているそうです。清盛提は江戸時代すでに取り崩されて畑になっているようですが、お伊勢さん検定のテキストによると、大間国生神社の後ろにある高まりは清盛提の名残と伝えられているそうです。



〇御川祭  毎年5月3日 これを鮎取りの神事という  
鎮座本記に渡相(わたらい)河原に 天忍穂海人(あまのおしほみと)という人 年魚(あゆ)を取りて神饌に蓄うとあり 今もその末の掃守氏(かもりうじ)の人あみを以って年魚取の式あり その詞 云わく
 みとの神の孫 櫛八たまの神を かしはでとして あまのみあえ奉る時 ほぎ申していはく 中略 たぐ縄のちひろの縄うちはへつり あまの くちひろのをひれのすずき さわさわと引きよせあげて さきたけのとををにあまる きなくひ 奉る  右古事記

坂士佛参詣記に けふ宮川舟橋をわたりゆかんと小俣田という里の北なる原をわけて 彼の川に至れば  掃守氏の人船を渡して離宮院の前に留め 夫れより参詣しけるこそ 彼の掃守は天忍海人命の末として そのかみ5月のはじめのころ年魚をとりて備えたる例と  下略

💬
御川神事は今は行われていません。宮川提公園散策マップに御川神事場跡が載っていますが、実際は草に覆われた堤防の斜面で何もありません。

天忍穂海人を祀る佐八の宮本神社の由緒によると、この地にいた漁夫に 宮川の鮎を御饌にして奉献せよ、という天照大神の勅令が下り、漁夫は漁をして鮎を奉献しました。その功により、天皇より天忍穂海人の名を賜ったということです。これが御川神事の始まりで、天忍穂海人の末裔とされる掃守氏が御川神事を継承していったようです。御川神事跡の近くにある浅間提の松井社境内に『掃守社舊蹟』の石碑が立っています。掃守社(祭神 天忍漁人命)がここにあって、明治に上社に合祀されたと記されています。
「天忍穂海人の末裔は掃守氏」というのは、雄略天皇の時代に天忍人命が宮廷の掃除の事を監したので掃守の姓を与えられたという逸話と似ていると思いました。掃うという言葉が、年魚取神事とどう関係するのか、よくわかりません。川守職というのが あったそうですが、いつしか川守が掃守にかわってしまったのでしょうか。

古事記の一節は
(大国主命の国譲りの条件として出雲に神殿を築いたときの場面)
水戸の神の孫の櫛八玉の神を料理人として(大国主命に)御饗を奉るとき、(櫛八玉の神が)祝辞を申して言うに、、、長いたぐ縄を延ばして海人が釣る、口の広い尾びれの張ったスズキをさわさわと引き上げて 折敷もたわむほどたくさんの高貴な魚の御饗を奉ります、、、
という内容です。御川神事と重なるところも多いかな。


💬
宮川は古くは洪水のたびに流れが変わったといわれています。離宮院跡のある台地のすそも、古くは川岸だったそうです。(玉木町史より)



0 件のコメント:

コメントを投稿