2021年8月24日火曜日

伊勢参宮名所図会 巻の四 ニノ鳥居 直會院 別宮遥拝所 三石 御池 手洗場 伊弉諾伊弉冉二尊拝所



        
ニノ鳥居 一の鳥居の次にあり 勅使の時 此の所にて大麻(おおぬさ)御塩献じ 榊の枝に木綿(ゆふ)を結び垂れて振りはらい又堅塩を土器(かわらけ)に盛りて 榊の葉にのせて振りそそぎて清め奉るなり 諸国の参宮人に御師の家にて清めの御祓塩をいただかしむるも是に習うか 


 💬 大麻は神社で御祈祷を受けるときに、神職が左右左と振って罪穢れを祓う神具をいいます。一般的には白木の棒の先に麻紐や紙垂を付けたものです。神宮で用いられる大麻は幹榊(幹に枝葉が付いた榊)に麻をつけているものだそうです。また、大麻の所作に続き、榊の小枝で塩湯または塩(土器にのせる)を左右左と振りそそいで祓い清めるそうです。

神宮 大幣
一般的な大麻

💬 現在もニノ鳥居のすぐ手前に祓所という場所があります、
直會院(なおらいいん) 五丈殿二宇 九丈殿一宇の三殿を一つにして直會院といへり 又は五丈殿一宇を主神司殿といい九丈殿一宇を一の殿ともいう 是も絶えたりしを 元禄年中公より再興し給えりとなん 是は勅使饗應の所なり 公事根元には なうあいと書けり なうあいとは神饌を奉るをも 神饌のおものを頂くをばいうなり 日本紀 持統天皇の紀には掌の字をなうらいと訓し神嘗月次新嘗會など なうないの御はん御酒まいる事あり 春日社にも直會殿ありて勅使神食をいただき給う所なり その後解齋の御かゆ参るなり この三院を直會殿にも解齋殿にも用いて時によりて其の名のちがいあるにやともおぼゆ 今も神嘗祭にはこの一殿に着き給うて饗應あるなり 御輿宿りという所西にありしが今は絶えたり

〇玉串所 九丈殿の前 大庭を言う 昔は石壺有りし由 江次第に見ゆ 應安御遷宮記には玉串所の石畳とあり 雨天には神輿宿りにて行いしを今は一の殿にて行うなり 是は月次神嘗祭に禰宜宮司 玉串を取り給う故 玉串行事所という 〇廻榊 此の所に一本の榊あり その榊の下にて宮司玉串をとり榊の東を廻り 禰宜は玉串を取りて榊の西を廻る故に廻榊という 解齋の時 宮司禰宜の冠につけたる木綿かづらをこの榊にかくるなり 此の所その場所広きゆえ大庭という


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直会とは、祭の終了後に神前に供えた御饌御酒を神職をはじめ参列者の人々で戴くことをいうそうです。古くから、お供えをして神々の恩頼を戴くことができると考えられており、共食によって神と人が一体になることが直会の根本的意義だそうです。また一般的な儀礼として御神酒を戴くということがありますが、これは直会の簡略的なものと考えてよいそうです。(お神酒にそういう意味があったとは知りませんでした)神職は祭のまえに斎戒をして身を清め、祭典を経て、祭典後の直会をもって行事が終了し、解齋となり元の生活にもどるそうです。したがって直会は一般の宴とは異なり、祭典の一部であるということです。(神社本庁HPより)

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現在の神宮の五丈殿・九丈殿は、神宮ホームページによると、雨天時の祭典でのお祓いや遙祀をしたり、また式年遷宮でのお祭りにおける饗膳の儀が行われる所だそうです。また、伊勢神宮崇敬会のサイトの解説によると、九丈殿と五丈殿の前の石原を大庭といい遷宮諸祭の玉串行事などが行われ、西南の隅には廻榊があると書いてあります。参宮名所図会の説明とほぼ同じかなと思います。


外宮 五丈殿(奥)九丈殿(手前)


大庭の西南隅にある榊 廻榊でしょうか
大木ではありませんが幹樹に苔がはえていて古そうです 

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一丈は約3メートルで,屋根の大きさがそのまま建物の名前になっているそうです。参宮名所図会では五丈殿2宇と書いてありましたが、外宮宮中の図(上掲)では一つの建物にしか見えません。現在のものも同様です。五丈殿は内宮にもあるので、これらを合わせて二宇と書かれたのでしょうか。もしかもして二つの建物がピッタリ並んで一つに見えるのかもしれないと思って改めて見に行きましたが、やはり一つでした。そして九丈殿より長いのです。九丈殿については、上記の伊勢神宮崇敬会の説明によると、建物の長さが名称に残っていると書いてあります。かつては九丈あったのが今は短いのでしょうか。実際どれくらい長いのか測るとよいのですが、ちょっと恥ずかしいので、保留です。

💬 また参宮名所図会の図では、五丈殿九丈殿は北御門からくる参道の手前(東側)にありますが、現在は向こう(西側)にあります。明治になって神楽殿を建てたため移築されたのかと思いましたが、廻榊や遙祀所、三石の位置から考えると、五丈殿九丈殿の位置は変わらず、参道が移動したようです。表参道と北御門の参道の合流点に神楽殿が建てられています。




別宮遥拝所 廻榊の傍ら御池の間にあり 別宮は四所あり 高宮・土宮・月讀宮・風宮なり 石畳あり 祭主宮司禰宜の石畳なり

三石 御池の前にあり 石を鼎の如く三つ据え置き 参宮の時これを避けて踏まざるを習いとす 是は月次神嘗祭又は遷宮の時 御巫内人御祓いを修する所なり

別宮遥拝所 向こうに三石 奥は御池

三石




御池 いにしへの御手洗なり 上中下の御池あり 上の御池と中の御池は半町ばかりを隔て 下の御池は二の鳥居の外なり ここにいうは中の御池なり 又三池ともいう 又御川池ともいう 斎宮式御川池の神祭などいうは別儀なり 然るにこの池埋もれけるより桑山殿寄付ありて此の手洗い場を設けられしなり 旧記には天正六年戌寅三月二日 向井将監 外宮高宮を建て遷宮あり 此の時に池を所々に構え火災の備えとす これを将監殿の池という 〇比丘尼池 熊野比丘尼の溺れしよりの名なるよし長官智彦語られしと夜話草に出でたり 六月十日 中の御池さらへとて宮人という神役烏帽子をこうむり勤む

1791 外宮御宮絵図より
絵図中で三つの御池が見える

現在の池の様子 

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上の外宮御宮絵図では、中の御池の東は沼と書かれています。現在は沼地はなく、沼全体が御池になっています。この池がいつも澱んでいるのがわかる気がします。そういえばこの辺りは古くは沼木と呼ばれていた地域に含まれます。高倉山に降った雨がじわじわ染み出してくるのでしょうか。6月10日は池さらえとあるので、昔から澱んだ池だったのかもしれません。
また将監殿の池は火災に備えた池でした。天正6年とは1578年です。戦国時代に遷宮が中断され、129年ぶりに外宮の遷宮が行われたのは1563年、財政上の問題で内宮は実施されず、小田豊臣の寄進により両宮の遷宮が果たされたのは1584年です。高宮(多賀宮)の遷宮に合わせて池を造ったとありますが、129年ぶりの新しい社殿がいかに大切なものであったか想像に難くないと思います。
ちなみに牛鬼伝説にでてくる園田将監さんとは全く関係ありませんでした。そもそも将監というのは官位に由来した通称だそうです。百官名というらしい。


手洗場(ちょうずば)御池のまえにあり 桑山殿寄付の石盥なり その時裁石を用いる事 古法に背けるよし いなみしかども終に雌伏せり
〇中堤 このほとりより風の宮辺り迄をいう。永正記に御池の土橋の道とあるは是なり

伊弉諾伊弉冉二尊の拝所 手洗所の北の石積なり 二尊および遠方に坐す摂社の遥拝所なり〇御母神の拝所 今この前に板囲いを構えて太神の御母神の拝所とて参宮人に拝せしむるなり

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手水場は、今は表参道の入口で火除橋を渡った広場にあります。北御門の参道では火除橋の手前にあります。
中堤という言葉も今は聞かれません。御池の土橋の道で風の宮辺り迄をいうのであれば、亀石の橋の道だと思われます。参宮名所図会では亀石には触れていません。
伊弉諾伊弉冉二尊拝所、御母神拝所は、今はありません。

永正記 1513年 内宮禰宜 荒木田守晨 著

2021年2月17日水曜日

伊勢参宮名所図会 巻の四 清盛楠 一の鳥居 神 茜社

 これより宮中勅使上使の本道


清盛楠 前に言う一の鳥居橋の前なる大楠樹なり 子細図上に記す

一の鳥居 御宮の本道第一の鳥居をいう 宮後より舘に出で行き東に向かうて行きあたり橋をわたり一の鳥居にいたる 是より兵仗及び仏具を帯せざる事北御門に同じ 勅使上使も是より下乗せられ兵仗を解いて参入あるなり この趣を制札に記して立らる また草の類 すべて不浄の品 足駄などこの所より禁ず 北御門豊川の橋の前にもこの制札あり

神庫 一の鳥居と二の鳥居との間 西の方にあり 古典記録等を納む 寛文年中の御遷宮の時に再興す 昔は是に添えて文殿とて 講習校勘のため建ておかれしを火災を憚りて今の宿館に付て建てらるる 是を文殿という 神官雑事に天平神護年中の条に文殿焼亡の事載せたり

茜の社 前の町氏神なり 二鳥居前左へ入る所にあり 穴ありて前に鳥居多く立てり その数を知らず



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寛文 1661~1673    天平神護 765~767
神庫(しんこ)  文殿(ふどの ふみどの) 
古くより神宮には、記録文書を収めるための施設があったそうです。内宮では文殿、外宮では神庫と呼ばれていました。「大神宮諸雑事記」に、天平神護2年(766)に内宮文殿焼失の記述があり、この時代にすでに文殿が存在していたことが窺われます。また、外宮の神庫が初めて記録に見られるのは、500年後の1261年、「鏑矢伊勢宮方記」に外宮に神庫ありと記されているそうです。これらの施設は神職の研究調査に利用されていましたが、禰宜以下の者が利用することは許されていなかったそうです。
また、内宮と外宮は対立していたため、文殿と神庫は独立して存在し、統一されることはありませんでした。明治になって、これらの施設は廃止され、内宮外宮の所蔵していた文書記録、豊宮崎文庫、林崎文庫の蔵書を統合保管する神宮文庫が設立されました。現在では神宮司庁によって運営され、一般人も閲覧可能となっています。(とはいってもなかなか気軽にはいけませんが)
本文中に「文殿」について記述がありますが、内宮の文殿と外宮の神庫との区別があいまいになっているように思います。

倉田山 神宮文庫
蔵書は30万で、うち28万は江戸時代以前の書籍だそうです。国宝、重要文化財などを含みます。神宮文庫の門は御師福島みさき大夫の邸門を移築したもので黒門と呼ばれています。皇學館大學に隣接しています。御幸道路をはさんで倭姫宮、付近に徴古館などがあります。

黒門
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全くの余談ですが、倉田山というのは地図には載っていない伊勢の地名です。倉田山公園に野球スタジアムがあり、隣接して松尾観音、周辺には皇學館大學、皇學館付属中学・高校、倉田山中学、伊勢高校と多くの学校があり、神宮文庫、神道博物館、神宮徴古館、農業館、美術館があり、倭姫宮もあります。緑豊かな地域で、かつては本当の山だったのかもしれませんが、どこからどこまでが倉田山なのか、よくわかりません。倉田山中学の校庭には三角点がありますが、決して最高地点ではないようです。

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茜社は外宮境内の勾玉池のほとりに鎮座する神社です。創建は986年以前、主祭神は天牟羅雲命と蛭子命で、元は外宮の摂社でしたが明治になって神宮所管から独立しました。また山田産土八社の一つです。現在は表参道からは入れず、参宮館東のバス駐車場からと、駐車場から外に出て道路から茜社の参道があります。二つの参道には多くの鳥居が立ち、境内には茜社と、豊川稲荷神社、菅原道真を祀る天神社の3つの社殿が並んで立っています。茜社の本殿は木に囲まれ、前に拝殿の建物があってよく見えないのですが、神明造で千木や鰹木に装飾金具が見られます。傍らに覆屋のついた井戸が祀られています。豊川稲荷神社の社殿は最も大きく立派です。入口にはたくさんの白い狐が置かれていて目をみはります。天神社では牛像が神様として祀られています。菅原道真公の御霊を牛像に入魂したという説明がありました。その牛は赤い紐で飾られ、なんとも優しく重厚です。

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茜社は文化文政の頃まで石壇のみで社殿がなかったそうです。したがって、伊勢参宮名所図会の時代もまだ社殿は無かったという事になります。また「小祠拾」の茜社に関する記述に「石壇の東北の方に稲荷とて岩窟あり、土俗豊川稲荷明神という」とあるそうです。本文でいきなり「穴」が出てきてびっくりしましたが、たしかに穴(岩窟)を稲荷明神として祀っていたようです。
お稲荷さんと穴の関係について全く知りませんでしたが、調べてみると、
古来日本では山の神、田の神を信仰する風習があったそうです。田の神とは農耕、稲作の神様で、その使いが狐とされていました。本来、田の神の祀り場は狐塚だったそうです。狐塚というのは狐の棲家の穴などを神聖なものとして祀った所だそうです。近世になって稲荷信仰が広まると、狐塚で稲荷神がまつられるようになりました。稲荷神も稲作、農業の神なので、田の神と稲荷神が同一のもと考えられたのだと思います。狐塚を人為的に築いて祠をたてたものもあったでしょうし、自然の岩窟などを狐塚に見立てて祀ったものもあったと思われます。境内に狐塚がみられる稲荷神社はたくさんあるそうです。(私は見たことがありませんが)ネットに出ている東京の穴稲荷、静岡の割狐塚神社などがそうなのかもしれません。また、お稲荷さんの祠の裏に小さな穴があいている事があるそうです。これは神の使いである狐の出入りする穴だそうですが、狐塚の名残なのかもしれません。

今の豊川稲荷の社殿はとても立派です。石積の上に塀がめぐらされていて、裏に回っても穴などはわかりませんでした。本殿の下にあるのかと想像するのみです。

茜社(あこねさん)参道

東にある天神社

牛像



中央に豊川稲荷神社

たくさんの狐たち

西に茜社

拝殿所


2021年2月6日土曜日

伊勢参宮名所図会 巻の四 清盛楠

 


清盛楠

昔 小松内大臣重盛公
勅使として参向の時
冠にさわるべしとて
西へさしたる枝を
伐らせられし事あり
これを里俗あやまりて清盛楠と
いうなるべし
勅使として清盛公三度 重盛公は一度
参向ありし由は
勅使部類例文等に見えたり 


💬
驚きの人違いでした。それでも、今も清盛楠は清盛楠です。
重盛は清盛の嫡男でした。穏やかで情に厚い優れた人物だったそうですが、清盛と後白川法皇の間に立って心労の多かった人のようです。病没のため、実際に清盛の後を継いだのは異母弟の宗盛でした。冠にあたるから枝を切らせたというエピソードは、良いことなのか悪いことなのかよくわかりません。参道に枝が伸びて人にあたりそうになったら、切るのは普通の事のように思います。1000年近くも言い伝えられているというのは、清盛という人の人気でしょうか。また、その楠が今も残っているのも凄いことです。
💬
伊勢参宮名所図会の絵では、清盛楠は橋を渡って左に描かれています。今は右側にあります。西に伸びた枝が冠にあたるのなら、楠は東側(左)にあったはずと思います。それに楠の位置から今の参道まで相当遠いので、枝が伸びて届いたとなると、やはり参道や橋の位置が昔は違っていたのではないかと思います。絵図にみられるような齋舘を囲う石垣や、清盛楠の東側の多くの人家なども、今は無くなっています。

清盛楠 樹齢1000年を超えるといわれています




2021年2月4日木曜日

伊勢参宮名所図会 巻の四 上御井社 藤岡山 藤社 国見社旧地 御厩 

上御井社(かみのみいのやしろ) 御炊屋殿より百二十丈西 藤岡山の麓にあり この御井 天長井(あまのながい)とも天真名井(あまのまない)とも 忍穂井(おしほい)とも おも井ともいう 水の上に社ありて其の戸を開いて水を汲む 所祭天村雲神(あまのむらくものかみ) 大神宮の御供に用いる事往昔よりその例たがわず また炊洗には忌火屋殿の水を用ゆ 霊水を汲んで持ち来る日 百二十丈の間は無言にして高貴の人に逢うとも辞譲せざる例なり 是は昔 天村雲命 天村雲命は外宮祀官祖神 神皇産霊命七世孫一名天二上命とも後小橋命ともいう 天上より下りし不増不減の水なり 日向高千穂の峰より丹後の真名井原に移し鎮め その後この藤岡山に移し鎮め給いしとなん 藻塩草 夜話草
この奥に池三つあり 手水場の源なるよし 一つは将監殿の池 一つは比丘尼池 一つは御池という
夫木 君が代は濁りもあらじ高くらや麓に澄める忍穂井の水 度會仲房
風雅集 世々を歴(へ)て汲むともつきじ久方の天より移すをしほ井の水 度會延誠

藤岡山 御井の社の上の山 俗におもい山という も井とは水の古語なり 故に主水をモンドとよむのも是なり
神祇百首 花咲けば真名井の水をむすぶとて藤岡山にあからめなせそ 度會元長

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度會元長は伊勢の祠官 神祇百首和歌によると 歌の始めに「藤花」という言葉があり。また、水をむすぶとは、手のひらを合わせて水を掬うこと。あからめなせそとは、よそ見をするなという意味らしいです。
藤の花が咲いているので、真名井の水を掬うにも、美しい藤岡山に気を取られてよそ見をしないように。という意味でしょうか。真名井の水が上御井であれば、神聖な水なので手で掬うことはあり得ません。水を汲むという事でよいのでしょうか、違う意味があるのかもしれません。いずれにせよ、溢れるように咲く藤の花の美しさを感じます。

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上御井社は、今は一般人は立ち入ることができません。地図で位置を確認すると、たしかに忌火屋殿の西、300メートル程の所にあります。忌火屋殿も昔から位置は変わっていないという事になります。藤岡山は、地図でその名を探すことはできませんでした。上御井社の後ろの山ということから、推測するしかありません。高倉山の北西の50メートルに満たないなだらかな峰かと思います。頂上付近に行く道はあるようですが、もちろん立ち入り禁止です。
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上御井社の祭神は現在は上御井鎮守神で、井戸がご神体だそうです。天村雲命とは異なります。天村雲命は、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊の御供として高天原から降りてきた神です。地上の水が荒れていたため、もう一度天上にあがり、天の忍石の長井の水を与えられ、帰参し高千穂の忍穂井に移したということです。水は、後に丹波の比治の真奈井に移され、豊受大神の鎮座に伴って伊勢の外宮の御井に移されたということです。したがって、御井の水は天から賜った聖水であり、永久に尽きることがないそうです。
比治の真奈井とは古来から豊受大神が祀られていた所です。高千穂には天の真名井という泉があります。丹波(現在は丹後)の真名井神社にも真名井という泉があります。いずれの泉も藤岡山という山の麓にあったそうです。日向高千穂旧蹟勝地案内という書物には、天村雲命が「天真名井の水を汲み取り奉りて高千穂の藤岡山に安置し給う 後に丹後の真名井原、伊勢に移さる 皆藤岡山と称す」と書かれています。真名井神社も伊勢も、この高千穂の藤岡山にちなんで付近の山を藤岡山と呼んだのでしょう。
真名井神社は創建は神代の時代といいます。古くは匏宮(よさのみや)といい、豊受大神が鎮座していた所だそうです。伊勢神宮へ遷座された後は、籠神社の奥宮として今も豊受大神をお祀りしています。丹波の比治の真奈井については、他にも数か所の候補地がありますが、他の神社では天女伝説があって天女を豊受大神の化身としているのに、真名井神社では天女伝説はないようです。また真名井神社では藤の花と豊受大神は関係があるようなのですが、外宮ではそのようなことは聞いたことがありません。
伊勢の藤岡山は立ち入り禁止なのでわかりませんが、手前の大津神社の辺りでは、森が深く楠の大木が日を遮り、藤が繁るような所ではないのが残念です。

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外宮の其の二の図絵(後出)で見えますが、手水場は昔は本殿の前にあり、御池から繋がっていたようです。あとの二つの池は図会には描かれていません。現在、外宮の周りには堀のように池が幾つか連なっていますが、水の流れは昔と違っているようです。正殿の南の池の水は残念ながら澱んでいます。
将監殿とは、牛鬼退治をした薗田将監のことでしょうか。薗田家は代々将監殿といったそうなので、違う将監殿かもしれませんが。比丘尼池というのも、いわれのありそうな池の名です。今のところ謎です。(この文は令和3年8月に訂正しました)

〇藤社 石積みなり 社頭もなく祀る神もしれず この辺りに藤多ければ俗称なるべし
国見社旧地 藤社の東にありて式内なり 昔摂社再建の時いにしへの地と考え得ずしてここに建つといえども 元は藤社の石積みはこの国見の社の旧地なり

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坂社の拝殿 
藤社は現在、八日市場の坂社に合祀されています。伊勢市図書館発行の「ふるさとの風 ー山田産土八社 坂社ー」の中で藤社についての記載があります。それによると、藤社は度会国御神社の分社といわれ、同社の鎮守。祭神は同じ 彦国見賀岐建輿束命で、ご神体は黒石の霊石。かつて神宮境内にあり、社の前に大きな藤の木があったので、藤社と名付けられたそうです。明治6年に住民より産土神社としての社地設定・移転奉祀の願いが出され認められ、宮域から遷座しています。明治41年まで社殿がなく黒石が石段上に露座し
たものだったそうです。昭和20年に宮域整備によって坂社に合祀されたそうです。産土神社は古来から御神体として御頭(獅子の頭)をもっています。藤社の御頭は坂社に納められ、坂社は2個の御頭を所有し、2月11日の御頭神事に使われるそうです。私が見に行った時には一つの御頭だけでの獅子舞でした。

藤社が国見の旧地にあったというのは、分社だったからなのでしょうか。古来から御頭があったというのも不思議な気がします。どこに置いてあったのだろうと思います。


2017年2月11日 坂社 御頭神事
 重厚な獅子頭です





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国御神社の奥には大津神社が建っています。その先に上御井社があるはずですが、立ち入り禁止で進めません。大津神社は五十鈴川河口にあった大湊の港口の守護神(葦原神)でしたが、長い年月に所在が分からなくなっていて、明治6年、この地に再興されたそうです。藤社の地に再興されたのか、藤社は別にあったのか不明です。なぜ大湊の港の神様が、ここに再興されたのかという事もわかりません。



御厩(みむまや) 木柴垣東の道の左にあり昔は内外の御厩とて二所ありしなり 延喜の代には櫪飼(いたがい)御馬二匹と載せたり 又式には四所と見ゆれど今はこの御厩のみにて即ち内の御厩なるべし 今は木馬を据え置かる 〇服記道(ふっけみち) 御むまやのうしろにあり 服者及び僧尼山伏 法体の輩のかよう道なり

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櫪飼 板飼 板張りの厩で馬を飼育すること
服者 近親者が死んで喪に服している人
法体 僧侶の姿

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御厩は今は、北鳥居の右手前にあります。かつてあった所には神楽殿が建っています。服記道も残っていません。神馬は今は2頭います。江戸時代末に書かれた勢陽五十鈴遺響を見ていたら、内宮は生馬、外宮は木馬と書かれていました。(木馬だけ?)


御厩

北御門付近の駐車場の奥に馬場があり、御厩に馬がいることはめったにありません。一の付く日の朝(一日、十一日、二十一日)に神馬見参がありますので、見に行くと神馬に会えます。

2018年4月 内宮 神馬見参



2021年1月26日火曜日

伊勢参宮名所図会 巻の四 国見社 禰宜宿館 北鳥居 子良館 忌火屋殿 木柴垣 廰舎 御酒殿 御調倉 御器倉

 



国見社 くにみのやしろ 北御門社の前 横道に入って右にあり 祭神一座 彦国見加岐建与束命(ひこくにみかきたてよつかのみこと)にて外宮摂社十六社のうちなり 天日別命(あめのひわけのみこと)の子 伊勢国造(いせくにつこ)の神なり このほとり沼木郷という 度会国見社という

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火除け橋を渡ってもまなく右に道があります。うっそうとした森の中を200mほど進むと、度会国御神社があります。地元の度会の国の守護神をまつったものです。天日別命は、世襲神主であった度会氏の祖神です。神武天皇の東征の際に伊勢国を平定しました。その子が伊勢国造になったということです。
度會国御神社


禰宜宿館 北鳥居前 左の横道の末にあり 十員の禰宜齋戒参宿の所にして天下国家の御祈祷を取り行はるる 齋所とも齋館とも神館とも宿館ともいいて末社に准じ黒木の鳥居を立つ


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禰宜宿館は、今は齋館と呼ばれています。その位置は、おそらく今も名所図会の時代と同じで、表参道側の近くにあります。表参道火除け橋を渡ってすぐ右に清盛楠がありますが、その真後ろに齋館の門と塀があります。もちろん立ち入り禁止で門はピッタリしまっています。現在の齋館は、祭典に奉仕する神職が参籠し潔斎するための宿館だそうです。また皇族の御用に使われる行在所が奥に隣接しているということです。森に囲まれて見えませんが、かなり大きな建物が幾つか建っているようです。


北鳥居を過ぎた所の横道
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北鳥居手前の左の横道は今もあります。まっすぐに奥の建物に続いています。また 北鳥居を過ぎてからも左に横道があり、やはり奥の門のようなものに通じています。両方とも立ち入り禁止で、はっきり見えませんが、黒木の鳥居は無いようです。齋館の建物は幾つかありそうなので、両方とも齋館に通じているのかもしれません。北鳥居を過ぎてからの道は参道を横切って忌火屋殿の方向につながっています。外宮では毎日、日別朝夕大御饌祭が行われます。時間になると、神職の方が忌火屋殿に向かわれるそうですが、この道を通って行かれるのかもしれません。



北鳥居 きたのとりい 子良館の前にあり 又高宮の鳥居ともいえり 二名とも俗称なるべし およそ参詣の人は一鳥居より入るべきを便よければ是より入るなり

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1707年の伊勢参宮案内記によると、本来は一の鳥居から入って参詣すべきなのですが、便利なため、たくさんの人が北御門から参詣していたそうです。そのため、一、二の鳥居に準じてここにも鳥居を立てたそうです。また火除け橋を渡ってすぐ右にあった北御門社は、地元の人々が旅行に行く前に̚門出としてここに参拝する習慣があったそうで、外から来る人、出る人などで参拝者が多く、北御門口が賑わう一因になっていたそうです。





子良舘 こらがたち 子良とは朝夕の御饌を奉る童女の名なり 世に是をおこら子という 又 父を物忌の父という 延喜式にはおこら子を物忌と書けり その物忌の父も童女と共に御饌の事に預かれり 度會姓の人を選びてこの役を務めしむ 俗にこれを おくら子といい 又斎宮の御代わりなどいえる事は僻事(ひがごと)なり 〇毎日寅申両刻 両宮及び相殿へ御饌を供進す 是は天子より奉らせ給うの御饌なり おこら子は八、九才より参りて月経通ずるを任限として 其間 宮を出でず 正員の禰宜は祝詞をよみ おこ良子は陪仕し物忌の父は御饌をそなえはこぶなり 昔は内宮の神饌も外宮にて調へ 宇治へはこびたるに 道路穢れありし後は 一所に外宮の御饌殿にて奉ることなりと聞けり 

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子良(こら)とは、本文にあるように、朝夕の神饌を奉る童女のことだそうです。はじめは物忌と呼ばれていました。平安初期の止由気宮儀式帳によると、五つの物忌(大物忌 御炊物忌 御塩焼物忌など)があったそうで、それぞれに神事を介助する物忌の父がいました。このように複数の職掌があったため、物忌を、物忌の子等と呼び、やがて子良と呼ぶようにになったということです。子良は禰宜の子女から選ばれ、神に最も近く侍り仕えたため、穢れのない清浄無垢な心身でなくてはなりませんでした。子良は子良館で齋居し、また生活を介助する御母良なども子良館にいたそうです。江戸時代になると子良館の規模はしだいに縮小し、五つあった物忌は大物忌(大子良子 おこらこ)だけになったそうです。
子良は明治の神宮制度の改正によって廃止され、子良館も残っていません。しかし現代でも、式年遷宮の諸祭の中で、土地に関する祭の際には神職の子の中から物忌が撰ばれて奉仕するということです。
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現在では、北鳥居の手前に御厩があり、御厩横から板塀が張られて忌火屋殿まで囲ってあり立ち入り禁止です。かつて子良館のあった所は板塀の中です。


忌火屋殿 いんやどの 子良館の南にあり 
朝夕の御供を炊き(かしき)鑽火(きりび)してこれを調進する故に忌火屋殿という 一殿を分かちて西の間を炊く屋殿(かしきやどの)といい 東の間を御臼屋殿(みうすやどの)という 時として神供に餅を搗く事あり 是も今の餅にはあらず はたき粉をかためたるものなり 杵は用ゆれども槌磨の類は用いず太古の風なり この殿に錐火の具あり 石 鉄の類を用いず 檜の盤 山琵琶の木を以って摺り合わせ火を求むるなり 其形 古朴にして稀なる具なり 

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鑚火とは古代から行われた発火法の一つだそうです。火鑽杵と火鑽臼を使って摩擦によって発火させる方法で、神聖な火を得る方法として今で神社もなどで行われているそうです。外宮でも毎日、忌火屋殿において鑽火をして神饌を準備しているそうです。火打石と火打ち鉄を打って火花を散らし清め祓いとする切り火は簡略した形のものだそうです。
また、鑽火でおこした火を忌火といいます。清浄な火という意味だそうです。
忌とは、いまわしいもの、縁起のわるいもの、避けるべきものというイメージがありますが、少し違う意味もありそうです。穢れのない清らかなもの、それゆえ畏れ多く避けるべきものという意味もあるでしょうか。物忌も、穢れのない清浄無垢な童女をさしています。

御酒殿(奥)と忌火屋殿(右)



木柴垣 こしばがき 忌火屋殿の南 参宮道の右にあり この御垣に付きて朝廷を遥かに拝せらるるともいい 又神事に禰宜の列を整えるところ故に 列所(れつしょ)ともいうとぞ

廰舎 ちょうしゃ 子良館西南にあり 禰宜 物忌父等 この舎に集まり 諸神事執り行う所にして 廰は政所(まんどころ)とよみて政治を執り行う屋なり 是より下す文を廰宣という 神領郡県 祠官職掌人等を下知する所なり

御酒殿 子良と廰舎との間にあり 御酒を納め奉る殿なり この所に豊宇賀能賣神(とようがのめのかみ)を祀る この神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)と同体にして 又は大宣津比賣(みけつひめ)とも 亦 保食(うけもち)の神とも申すなり 酒を上代にては キといえり 故に神酒(みき)という 又黒米にて造りたる悪敷酒を黒キという 又よき酒を白キという 今はこの故事すたれて常の酒に胡麻を加えてこれを黒キという 上代は今の清酒はなくして みな濁酒なり さてまた 酒を みわ ともいいて 万葉に味酒のみわと読めり 故に三輪は酒の神にせしにや 今酒屋の門に杉を標とする事その縁なるべし 〇大和あすかに石制の酒船という物あり これについて思うに 今世に岩船と名付ける物みな この類にやあらん
 万葉 味酒の三輪の祝が山てらす秋の紅葉のちりまくおしも  長屋王
 同十九 天地と久しきまでに万代をつかえまつらん黒酒白酒を 智奴王 

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御酒殿は忌火屋殿の囲いの奥にあるため、現在は近くで見ることはできません。写真のように、忌火屋殿の向こうに屋根がみえるだけです。写真で、屋根の上に金色に光っているものが見えますが、これは後ろの森の木の幹が日光に当たって、光っているように見えているだけです。なにか神々しいものに見えてしまいます。
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御酒殿は外宮と内宮にあります。いずれもお祀りをしているのは御酒殿神(みさかどののかみ)だそうです。本文の豊宇賀能賣神は豊受大神のことと思われますので、酒殿で祭るのは少しおかしいという気もします。御酒殿神について調べても酒殿の守護神という事だけで、詳しくわかりません。豊宇賀能賣神について調べてみると、豊受大神を古来から祀っていた丹後には天女の羽衣伝説があって、その天女、もしくはその娘が豊宇賀能賣神として祀られているということです。羽衣を隠されて村にとどまることになった天女は酒造りの名人で、その酒は万病に効くと言われ、機織りや稲作も始め、村をみるみる豊かにしたということです。天女であった豊宇賀能賣神を祭っている神社は幾つかありますが、それらの神社では、豊受大神と同一と考え、天女は豊受大神の化身であるとしているようです。また、天酒大明神といわれることもあるそうです。また丹後の籠神社所蔵の古い文献に「伊勢の酒殿明神は丹後国より勧請す」という記録があり、豊宇賀能賣神が御酒殿の守護神として迎えられたという可能性は十分あると思います。その際、豊受大神と同一の神であるか否かは、考えても意味のないことかもしれません。御酒殿神をきっかけに、豊受大神のことをいろいろ調べてとても興味深く感じいりました。今まで正直なところ、豊受大神が女神であることさえ知りませんでした。
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以前は御酒殿で酒を造っていたそうですが、近年では忌火屋殿で造られ、神宮の三節祭(神嘗祭と6月と12月の月次祭)で神前に供える酒を、一時的に御酒殿に納めてから献上するということです。
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酒は現代では、白酒、黒酒、醴酒、清酒の4種。白酒は神田の米に忌麹、御井から汲んだ御料水だけで作られ、黒酒は白酒に薬草の炭で黒く着色したものだそうです。醴酒は米と麹で即席につくる一夜酒と呼ばれるもので、粥に近く、これを土器にしゃもじで盛ることが、酒盛りの語源と言われています。清酒は全国からの寄贈によるものだそうです。酒は米からつくられるものなので、神に酒を供えることは米を料理して供えることと全く同じ事ということです。(お伊勢さん検定 テキストより)
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万葉集から 
 うまさけを三輪のはふりが山照らす秋の紅葉のちりまく惜しも
  味酒は三輪に懸かる枕詞 祝は「はふり」神官の意味
  三輪の神官が守る三輪山を照らす秋の紅葉が散るのは惜しいことだなあ 
同じく万葉集から 
 天地(あめつち)の久しきまでに万代(よろずよ)をつかえまつらん黒酒白酒を
  天地とともに万代までお仕えいたしましょう 黒酒、白酒を捧げて


御調倉 みつきくら 廰舎の西にあり 是は御政印を初め所々より奉る調物を収る倉なり 御政印は銅印にして朝廷より下し給える璽なり 大宮司と両神宮家に伝えて大宮司家に有るは齋衡三年 内宮は天平十一年 外宮は貞観五年 禁裏にて鋳させ 是を給わりしなり 両神宮奏聞の解状に是を押す例なりとぞ

御器倉 みけくら 御調倉の南にあり調進する御膳の土器その他年中祭りに用うるの御土器(おんかわらけ)宇爾の郷より奉るを納る倉なり 是を宇爾土器(うにかわらけ)という 〇宇爾は多気郡離宮旧地西にあり 御饌土器皆この所より奉る 日用の土器は若干なり

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廰舎という建物は今は見あたりません。内宮の神宮司庁にて、神宮の祭事や事務すべてが執り行われているそうです。木柴垣もありません。子良館もありません。御調倉も御器倉もない、と思います。パンフレットや案内図で確認できるのは、忌火屋殿と御酒殿だけです。この辺りの一角は塀で囲まれていて、しかも立ち入り禁止で、奥は見えません。一部の地図では、忌火屋殿、御酒殿の周囲に小さな建物のしるしがみえるので、もしかもしたらあるのかもしれません。御器倉はあって当然という気もします。忌火屋殿の中にふくまれているのかもしれません。
外宮は昔から変わっていないようで、案外変わっているようです。この辺りの建物で制度的に不要なものは無くなっていますし、北御門社も跡かたもなく森になっています。あとで出てくる五丈殿や九丈殿、御厩は場所が変わっています。おそらく明治になって、お守りやお札を売ったり祈祷したりするようになり、神楽殿を建てたためと思われます。藤社もなくなって大津神社が造られています。上御井社や藤岡山は名所と書いてあるので、行ってみることができたと思われます。更に江戸時代、本殿のまわりには四十末社巡拝があり、高倉山に登って天の岩戸の見学もできたようです。江戸時代の外宮に行ってみたいと思ってしまいます。

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今も神宮土器調整所は明和町蓑村(かつて有爾郷とよばれていました)にあります。うにとは土器をあらわす「はに」がなまったものと考えられており、古くから土器をつくる人が多く住み、大量の土器を伊勢神宮へ奉納してきたそうです。付近の発掘調査で奈良時代の窯が数多く発見され、水池土器制作遺跡として国の史跡に指定されています。
また奉納する土器とは別に一般に使用する土器も制作販売され、それらの土器は東海地方を中心に、千葉県でも見つかっているそうです。(けっして若干ではなかったようです)生産は太平洋戦争頃まで続き、ほうろくと呼ばれるフライパンのようなものだったそうです。
ここで、ほうろくさんを思い出しました。桜の渡し付近に、ほうろくを供えると歯痛をなおしてくれる神様がいらっしゃいました。

明和町蓑村 土器調整所 県道37号線沿いにあります

門の板張りの間から写真。奥の塀の向こうに煙突のついた建物が見えます




水池土器制作遺跡公園

公園内 土器焼成壙壙跡







2021年1月6日水曜日

伊勢参宮名所図会 古本屋さんで購入 蔀関月さん

 少し前になりますが、今年の夏の前だと思います、古本屋さんで伊勢参宮名所図会の書籍を購入しました。原画版本ではなくて、活字で印刷されています。大正8年に発行された校訂本の複製のようで、昭和62年に印刷発行と書いてあります。伊勢参宮名所図会5巻と付録、拾遺を含めて1冊になっています。挿絵はそのままですが、本文は変体仮名を使用していないので、読みやすくなっています。私は変体仮名を覚えたいという理由から、kindle本の原画版本で読み始めましたが、読めなくて行き詰ったときには参照させて頂いています。それで何とか、読み進められるのです。非常に役に立っています。




比較的新しいので汚れもなく、大判なので挿絵も見やすくて鮮明です。9000円で購入しましたが(定価は12000円)、なかなか良い買い物をしたと嬉しく思っています。
 
本の始めに、校訂者の原田幹という人が例言と題して文章を書いています。その中で、著者 蔀関月(しとみかんげつ)について「書家、画法は月岡雪鼎にまなび一家をなし 筆致和漢を兼ね 頗る人物山水に長ず 著書は本書の他山海名産図会、東海道名所図会12冊 明石須磨名所図会5冊等ありき」と述べています。え、一人でそんなに書いたの⁈ と驚きましたが、調べてみると、山海名産図会や東海道名所図会では挿絵を描いたようです。東海道名所図会では30人の画家が分担して描いているそうですので、蔀関月の著作とは言い難いようです。

 蔀関月という人を検索してみると、大阪で活躍した浮世絵師とでてきます。人物画、山水画でも優れた作品を描き、大阪の久本寺には衾4面の障壁画があるそうです。本業は絵師なのです。さらに詩文書道にも堪能であったという事です。
 また伊勢参宮名所図会については、三重総合博物館のサイトで、「作者は明確ではありませんが、秋里籬島、蓁石田の著述、蔀関月、西村中和の作画と考えられています」とあります。蔀関月は挿絵だけで、記述はしていない可能性もあるようです。でも他では、例えば国立国会図書館デジタルでは、「著書 蔀関月(編・画) 秋里籬島(撰)」となっています。
 挿絵は蔀関月が描いたという事で間違いないようです。挿絵の中の文字と本文の文字は同じように見えるので、本文の文字も蔀関月が書いたかなと思います。そうだとしたら、自分の文章を思いのままにすらすら書いた、というのが自然に思えます。伊勢参宮名所図会の本文は整然と美しく書かれているのではなくて、字が大きかったり小さかったり、ゆったり書いたりびっしり書いたり、一行の文章の途中に二行の説明が挟み込まれていたり、〇や▲などの印もあるし、誌面が視覚的にも面白いのです。読み手を楽しませる書き方で、これは活字になってしまうと判らなくなってしまいます。文面も書き手の気持ちが伝わってくるような面白い所が随所にあります。本の向こうに誰かがいて、色々話してくれているような感じです。その誰かとは蔀関月さんと勝手に妄想していました。
(実際まだ少ししか読んでないので、こんな感想は早すぎかもしれません)

上記の東海道名所図会を書いたのは、秋里籬島という人です。名所図会の先駆者で、他にも多くの名所図会を書いたそうです。俳人でもあり、画工をつれて各地を取材旅行したということです。


 



2021年1月3日日曜日

御贄棚 北御門橋 丸榊 北御門社

 御贄棚 おむべだな  北御門口の東 豊川の岸にあり 隣郷より献ずる魚鳥野菜などをこの棚に供え置けり 又 長官家へ献ずる御贄も数多あり 是上古の御厨御園のかたち残れり 御贄(おんべ)とは御むへなり むへとは神に供うる食類をいう 又朝廷より世々の御陵へ歳暮の献物を荷前という 延喜式に荷前を初穂とよむ 故に神に献ずるものを初穂いう 穀食は天下最上の宝なればこれを第一とす よってその年の新米をもって両宮に献ずるを新嘗会という 又 神嘗の祭ともいう 9月16日 17日

万葉 東路の荷前の箱の荷の緒にもいもが心にのりにけるかな   禅師

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北御門口の東 豊川の岸 は 現在は、森の中、もしくは齋館の塀の中で、立ち入ることができません。

荷前とは、諸国から朝廷に奉る貢物のうち、その年の最初の分を、陰暦12月に伊勢神宮や諸方の神や天皇陵墓に献進した儀式、または献上の品物をいうそうです。この儀式は平安末期には廃れていったそうです。また初穂とは、もともとは文字通り、神に献上するために抜かれた、その年の最初の稲の穂を意味していたそうですが、後に拡大され、その年初めて収穫された濃作物、海産物などの神に供えるものを初穂というようになったそうです。そうすると神に供える荷前と初穂はほぼ同じ意味と思われます。さらに神に供える金銭についても初穂と呼ばれるようなり、現代も初穂料という言葉が使われています。

さて、荷前という行事も言葉も、今は残っていませんが、その年最初の稲穂を神様にお供えするお祭は神嘗祭といい、現代も神宮で最も重要な行事として行われています。旧暦9月に行われていましたが、明治になって太陽暦が採用され、9月は収穫が不安定のため10月に行われるようになったそうです。新嘗祭は、1か月遅れて天皇が新穀を食する宮中の行事で、明治までは神宮では行っていなかったそうです。伊勢参宮名所図会で、神嘗祭と新嘗祭の区別がないのは、そのためかと思います。

ちなみに神嘗祭も新嘗祭も明治では国民の休日だったそうです。今では新嘗祭のみが勤労感謝の日として休日に残っています。本来なら、豊な秋の実りを天照大神に感謝する日であったのが、実際に働いた労働者に感謝する日に置き換えられたということでしょうか。でも、なぜ勤労感謝の日が11月23日なのか、今まで疑問でしたが、理解できました。

余談  伊勢おおまつりは、神嘗祭にあわせて10月に開催されます。
御贄棚は、もはや存在しないようですが、外宮奉納と奉納市というのが、商工会議所主催で年4回行われます。昨年11月で第33回ということで歴史は古くありません。全国から申し込みのあった食品関連の品を外宮に奉納、北御門広場で販売しています。進化した御贄棚みたいです。あくまで商工会議所主催で神宮の行事ではありません。



北御門橋 きたみかどのはし 豊川に架かれる橋なり 豊川の橋ともいう この橋の前にて下乗し弓矢刀槍の兵具 仏舎利仏経等を帯して入るを禁制す この橋は京師室町山村某の寄付なり 田地を添えて年々の収納を積み置き造替修補の為に設く この橋を渡れば外宮の宮中なり

是より外宮宮中

丸榊 まるさかき 小宮の東にあり 小宮を一の宮という 最初の社ゆえなり 丸榊とは宮中のあらはに見えけるを覆わん為に 結べるの丸ければ 丸榊とはいうなり 
 
北御門社 きたみかどのやしろ 小宮の西にあり 所祭一座 若雷命(わかいかづちのみこと)なり これを北御門の神という 御鎮座の始め 天の八重雲を靡かして 御垣として遷幸の間 囲み奉りし神なり 加茂と同名なれど同神にあらず


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神道と仏教の関係は、なかなか難しくて複雑そうです。にわか勉強ではついていけないけれど、基本的に神道は仏教を排除する姿勢であるのに対し、仏教は本地垂迹の考えがあり、伊勢神宮を参拝する僧侶も多かったようです。参拝といっても神前で参ることは許されず特別に僧尼拝所を設けられたりしていました。北御門橋もここから外宮域とあって、仏舎利、経典等をもって入ることは禁止されていたようです。

濱口主一さんの「伊勢山田散策 ふるさと再発見」の本に書かれていますが、北御門橋の欄干の擬宝珠には、橋とその維持費を寄贈した京室町の山村吉右衛門尉忠直という人の名が刻まれています。忠直という人は、赤ん坊の頃に龍大夫家門前に捨てられていた捨て子だったそうですが、心ある人の恵を得て成長して富を築き一家を成したといいます。その神恩に報いるため、1664年に御門橋を架橋してその維持費を、1675年には一の鳥居口の橋を架橋してその維持費を寄付したそうです。

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小宮、丸榊、北御門社は、今は見あたりません。
勢陽五十鈴遺響によると、小宮は北御門社の拝所だったそうです。北御門社は明治5年に箕曲中松原神社に合祀されたそうです。


北御門橋 擬宝珠の銘