2021年2月4日木曜日

伊勢参宮名所図会 巻の四 上御井社 藤岡山 藤社 国見社旧地 御厩 

上御井社(かみのみいのやしろ) 御炊屋殿より百二十丈西 藤岡山の麓にあり この御井 天長井(あまのながい)とも天真名井(あまのまない)とも 忍穂井(おしほい)とも おも井ともいう 水の上に社ありて其の戸を開いて水を汲む 所祭天村雲神(あまのむらくものかみ) 大神宮の御供に用いる事往昔よりその例たがわず また炊洗には忌火屋殿の水を用ゆ 霊水を汲んで持ち来る日 百二十丈の間は無言にして高貴の人に逢うとも辞譲せざる例なり 是は昔 天村雲命 天村雲命は外宮祀官祖神 神皇産霊命七世孫一名天二上命とも後小橋命ともいう 天上より下りし不増不減の水なり 日向高千穂の峰より丹後の真名井原に移し鎮め その後この藤岡山に移し鎮め給いしとなん 藻塩草 夜話草
この奥に池三つあり 手水場の源なるよし 一つは将監殿の池 一つは比丘尼池 一つは御池という
夫木 君が代は濁りもあらじ高くらや麓に澄める忍穂井の水 度會仲房
風雅集 世々を歴(へ)て汲むともつきじ久方の天より移すをしほ井の水 度會延誠

藤岡山 御井の社の上の山 俗におもい山という も井とは水の古語なり 故に主水をモンドとよむのも是なり
神祇百首 花咲けば真名井の水をむすぶとて藤岡山にあからめなせそ 度會元長

💬
度會元長は伊勢の祠官 神祇百首和歌によると 歌の始めに「藤花」という言葉があり。また、水をむすぶとは、手のひらを合わせて水を掬うこと。あからめなせそとは、よそ見をするなという意味らしいです。
藤の花が咲いているので、真名井の水を掬うにも、美しい藤岡山に気を取られてよそ見をしないように。という意味でしょうか。真名井の水が上御井であれば、神聖な水なので手で掬うことはあり得ません。水を汲むという事でよいのでしょうか、違う意味があるのかもしれません。いずれにせよ、溢れるように咲く藤の花の美しさを感じます。

💬
上御井社は、今は一般人は立ち入ることができません。地図で位置を確認すると、たしかに忌火屋殿の西、300メートル程の所にあります。忌火屋殿も昔から位置は変わっていないという事になります。藤岡山は、地図でその名を探すことはできませんでした。上御井社の後ろの山ということから、推測するしかありません。高倉山の北西の50メートルに満たないなだらかな峰かと思います。頂上付近に行く道はあるようですが、もちろん立ち入り禁止です。
💬
上御井社の祭神は現在は上御井鎮守神で、井戸がご神体だそうです。天村雲命とは異なります。天村雲命は、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊の御供として高天原から降りてきた神です。地上の水が荒れていたため、もう一度天上にあがり、天の忍石の長井の水を与えられ、帰参し高千穂の忍穂井に移したということです。水は、後に丹波の比治の真奈井に移され、豊受大神の鎮座に伴って伊勢の外宮の御井に移されたということです。したがって、御井の水は天から賜った聖水であり、永久に尽きることがないそうです。
比治の真奈井とは古来から豊受大神が祀られていた所です。高千穂には天の真名井という泉があります。丹波(現在は丹後)の真名井神社にも真名井という泉があります。いずれの泉も藤岡山という山の麓にあったそうです。日向高千穂旧蹟勝地案内という書物には、天村雲命が「天真名井の水を汲み取り奉りて高千穂の藤岡山に安置し給う 後に丹後の真名井原、伊勢に移さる 皆藤岡山と称す」と書かれています。真名井神社も伊勢も、この高千穂の藤岡山にちなんで付近の山を藤岡山と呼んだのでしょう。
真名井神社は創建は神代の時代といいます。古くは匏宮(よさのみや)といい、豊受大神が鎮座していた所だそうです。伊勢神宮へ遷座された後は、籠神社の奥宮として今も豊受大神をお祀りしています。丹波の比治の真奈井については、他にも数か所の候補地がありますが、他の神社では天女伝説があって天女を豊受大神の化身としているのに、真名井神社では天女伝説はないようです。また真名井神社では藤の花と豊受大神は関係があるようなのですが、外宮ではそのようなことは聞いたことがありません。
伊勢の藤岡山は立ち入り禁止なのでわかりませんが、手前の大津神社の辺りでは、森が深く楠の大木が日を遮り、藤が繁るような所ではないのが残念です。

💬
外宮の其の二の図絵(後出)で見えますが、手水場は昔は本殿の前にあり、御池から繋がっていたようです。あとの二つの池は図会には描かれていません。現在、外宮の周りには堀のように池が幾つか連なっていますが、水の流れは昔と違っているようです。正殿の南の池の水は残念ながら澱んでいます。
将監殿とは、牛鬼退治をした薗田将監のことでしょうか。薗田家は代々将監殿といったそうなので、違う将監殿かもしれませんが。比丘尼池というのも、いわれのありそうな池の名です。今のところ謎です。(この文は令和3年8月に訂正しました)

〇藤社 石積みなり 社頭もなく祀る神もしれず この辺りに藤多ければ俗称なるべし
国見社旧地 藤社の東にありて式内なり 昔摂社再建の時いにしへの地と考え得ずしてここに建つといえども 元は藤社の石積みはこの国見の社の旧地なり

💬
坂社の拝殿 
藤社は現在、八日市場の坂社に合祀されています。伊勢市図書館発行の「ふるさとの風 ー山田産土八社 坂社ー」の中で藤社についての記載があります。それによると、藤社は度会国御神社の分社といわれ、同社の鎮守。祭神は同じ 彦国見賀岐建輿束命で、ご神体は黒石の霊石。かつて神宮境内にあり、社の前に大きな藤の木があったので、藤社と名付けられたそうです。明治6年に住民より産土神社としての社地設定・移転奉祀の願いが出され認められ、宮域から遷座しています。明治41年まで社殿がなく黒石が石段上に露座し
たものだったそうです。昭和20年に宮域整備によって坂社に合祀されたそうです。産土神社は古来から御神体として御頭(獅子の頭)をもっています。藤社の御頭は坂社に納められ、坂社は2個の御頭を所有し、2月11日の御頭神事に使われるそうです。私が見に行った時には一つの御頭だけでの獅子舞でした。

藤社が国見の旧地にあったというのは、分社だったからなのでしょうか。古来から御頭があったというのも不思議な気がします。どこに置いてあったのだろうと思います。


2017年2月11日 坂社 御頭神事
 重厚な獅子頭です





💬
国御神社の奥には大津神社が建っています。その先に上御井社があるはずですが、立ち入り禁止で進めません。大津神社は五十鈴川河口にあった大湊の港口の守護神(葦原神)でしたが、長い年月に所在が分からなくなっていて、明治6年、この地に再興されたそうです。藤社の地に再興されたのか、藤社は別にあったのか不明です。なぜ大湊の港の神様が、ここに再興されたのかという事もわかりません。



御厩(みむまや) 木柴垣東の道の左にあり昔は内外の御厩とて二所ありしなり 延喜の代には櫪飼(いたがい)御馬二匹と載せたり 又式には四所と見ゆれど今はこの御厩のみにて即ち内の御厩なるべし 今は木馬を据え置かる 〇服記道(ふっけみち) 御むまやのうしろにあり 服者及び僧尼山伏 法体の輩のかよう道なり

💬
櫪飼 板飼 板張りの厩で馬を飼育すること
服者 近親者が死んで喪に服している人
法体 僧侶の姿

💬
御厩は今は、北鳥居の右手前にあります。かつてあった所には神楽殿が建っています。服記道も残っていません。神馬は今は2頭います。江戸時代末に書かれた勢陽五十鈴遺響を見ていたら、内宮は生馬、外宮は木馬と書かれていました。(木馬だけ?)


御厩

北御門付近の駐車場の奥に馬場があり、御厩に馬がいることはめったにありません。一の付く日の朝(一日、十一日、二十一日)に神馬見参がありますので、見に行くと神馬に会えます。

2018年4月 内宮 神馬見参



0 件のコメント:

コメントを投稿