御贄棚 おむべだな 北御門口の東 豊川の岸にあり 隣郷より献ずる魚鳥野菜などをこの棚に供え置けり 又 長官家へ献ずる御贄も数多あり 是上古の御厨御園のかたち残れり 御贄(おんべ)とは御むへなり むへとは神に供うる食類をいう 又朝廷より世々の御陵へ歳暮の献物を荷前という 延喜式に荷前を初穂とよむ 故に神に献ずるものを初穂いう 穀食は天下最上の宝なればこれを第一とす よってその年の新米をもって両宮に献ずるを新嘗会という 又 神嘗の祭ともいう 9月16日 17日
万葉 東路の荷前の箱の荷の緒にもいもが心にのりにけるかな 禅師
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北御門口の東 豊川の岸 は 現在は、森の中、もしくは齋館の塀の中で、立ち入ることができません。
荷前とは、諸国から朝廷に奉る貢物のうち、その年の最初の分を、陰暦12月に伊勢神宮や諸方の神や天皇陵墓に献進した儀式、または献上の品物をいうそうです。この儀式は平安末期には廃れていったそうです。また初穂とは、もともとは文字通り、神に献上するために抜かれた、その年の最初の稲の穂を意味していたそうですが、後に拡大され、その年初めて収穫された濃作物、海産物などの神に供えるものを初穂というようになったそうです。そうすると神に供える荷前と初穂はほぼ同じ意味と思われます。さらに神に供える金銭についても初穂と呼ばれるようなり、現代も初穂料という言葉が使われています。
さて、荷前という行事も言葉も、今は残っていませんが、その年最初の稲穂を神様にお供えするお祭は神嘗祭といい、現代も神宮で最も重要な行事として行われています。旧暦9月に行われていましたが、明治になって太陽暦が採用され、9月は収穫が不安定のため10月に行われるようになったそうです。新嘗祭は、1か月遅れて天皇が新穀を食する宮中の行事で、明治までは神宮では行っていなかったそうです。伊勢参宮名所図会で、神嘗祭と新嘗祭の区別がないのは、そのためかと思います。
ちなみに神嘗祭も新嘗祭も明治では国民の休日だったそうです。今では新嘗祭のみが勤労感謝の日として休日に残っています。本来なら、豊な秋の実りを天照大神に感謝する日であったのが、実際に働いた労働者に感謝する日に置き換えられたということでしょうか。でも、なぜ勤労感謝の日が11月23日なのか、今まで疑問でしたが、理解できました。
余談 伊勢おおまつりは、神嘗祭にあわせて10月に開催されます。
御贄棚は、もはや存在しないようですが、外宮奉納と奉納市というのが、商工会議所主催で年4回行われます。昨年11月で第33回ということで歴史は古くありません。全国から申し込みのあった食品関連の品を外宮に奉納、北御門広場で販売しています。進化した御贄棚みたいです。あくまで商工会議所主催で神宮の行事ではありません。
北御門橋 きたみかどのはし 豊川に架かれる橋なり 豊川の橋ともいう この橋の前にて下乗し弓矢刀槍の兵具 仏舎利仏経等を帯して入るを禁制す この橋は京師室町山村某の寄付なり 田地を添えて年々の収納を積み置き造替修補の為に設く この橋を渡れば外宮の宮中なり
是より外宮宮中
丸榊 まるさかき 小宮の東にあり 小宮を一の宮という 最初の社ゆえなり 丸榊とは宮中のあらはに見えけるを覆わん為に 結べるの丸ければ 丸榊とはいうなり
北御門社 きたみかどのやしろ 小宮の西にあり 所祭一座 若雷命(わかいかづちのみこと)なり これを北御門の神という 御鎮座の始め 天の八重雲を靡かして 御垣として遷幸の間 囲み奉りし神なり 加茂と同名なれど同神にあらず
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神道と仏教の関係は、なかなか難しくて複雑そうです。にわか勉強ではついていけないけれど、基本的に神道は仏教を排除する姿勢であるのに対し、仏教は本地垂迹の考えがあり、伊勢神宮を参拝する僧侶も多かったようです。参拝といっても神前で参ることは許されず特別に僧尼拝所を設けられたりしていました。北御門橋もここから外宮域とあって、仏舎利、経典等をもって入ることは禁止されていたようです。
濱口主一さんの「伊勢山田散策 ふるさと再発見」の本に書かれていますが、北御門橋の欄干の擬宝珠には、橋とその維持費を寄贈した京室町の山村吉右衛門尉忠直という人の名が刻まれています。忠直という人は、赤ん坊の頃に龍大夫家門前に捨てられていた捨て子だったそうですが、心ある人の恵を得て成長して富を築き一家を成したといいます。その神恩に報いるため、1664年に御門橋を架橋してその維持費を、1675年には一の鳥居口の橋を架橋してその維持費を寄付したそうです。
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小宮、丸榊、北御門社は、今は見あたりません。
勢陽五十鈴遺響によると、小宮は北御門社の拝所だったそうです。北御門社は明治5年に箕曲中松原神社に合祀されたそうです。
北御門橋 擬宝珠の銘 |
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