2020年2月19日水曜日

伊勢参宮名所図会 巻之四 鸚鵡石

鸚鵡石  宮川の上 一之瀬谷 中村という所にあり
 宮川の上の渡し場より 三里さかのぼれば川口といって人家もあり この所 西は大杉谷 野尻 御瀬川より流れ来たり 東は駒ケ野川 一之瀬よりの落合なり 是より駒ケ野へ三里 鸚鵡石まですべて八里といえども山路難所にして春の一日も暮れに及べり 但し舟にて往来すればその労なし また 下りには急流なれば最も早く絶景いわんかたなし 別して駒ケ野より上は巌聳ち(そばだち)なかんずく中村の南 能見坂という所は 無双の勝景にして松島劣らじという その南に慥柄(たしがら)阿蘇などという村邑数多ありて常に往来繁く 山田の市中へ魚荷の出ること昼夜絶えず 山中ながら魚鼈(ぎょべつ)に乏しからずなり 又旧蹟あれどもこれを略す

石は山の半腹に偃然たり その高さ十余丈ばかりにて青黒なり その右手百間もあるべき所氈などしき その岩の上にいて物言い或いは弦歌鼓吹の音にも石中にものありて答うるごとし この奇石 千年伝播やや広くなりて桑原官長義卿の噂によりて詩記等を院の叡覧に入る時 霊元帝画師山本宗仙に仰せて屏風に描かせしめ その記を書付たりと云々 東涯随筆
〇漢名 是を響石といいて彼の国にももてあそぶ事とぞ
 近頃 磯部村に同石あれとも是にはおとれり


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川口は宮川と、支流の一之瀬川が合流するところです。宮川は上流の大杉谷より三瀬川など幾つかの集落を経て流れてきます。(野尻という地名は不明です) 川口から一之瀬川をさかのぼっていくと、駒ケ野を経て、一之瀬、南中村に至ります。
今なら、桜の渡し跡から南中村まで車でおよそ30分、そこから1キロ足らずの山道で鸚鵡岩です。当時は、八里、春なら日も暮れてしまう距離だったようです。
当時、駒ケ野から宮川河口の大湊まで、鵜飼船と呼ばれる船が物資や人を運んでいました。伊勢参宮名所図会では、駒ケ野まで、この船で行くことを勧めています。特に川下りは急流で早いし、景色もすばらしいと言っています。船は、郷土史草50号の写真によると長さ8間、15mほど、救命衣もない時代で、何て恐ろしいことかと思います。駒ケ野から上流は岩が多く船では行けないため、南中村までは歩かねばなりません。



鸚鵡石とは別に、南中村から南へは能見坂とよばれる険しい山路になります。屏風のようにつらなった山をこえると、沖は熊野灘に続く美しい海が見えたはずです。リアス式海岸で、複雑に入り組んだ半島や島々が、松島にも劣らないという絶景を作り出していたのでしょう
能見坂峠を越えると、志摩の海岸です。海で獲れた魚は、昼夜を問わず、徒歩で能見坂を超え、駒ケ野から船で伊勢の山田へ運ばれていたそうです。

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慥柄、阿曽という村々は、現在は南伊勢町に含まれます。新野見坂トンネルが開通して車で容易に行けるようになり、峠からの絶景を見るということは、なくなってしまったようです。しかし今も、この海辺の地域は本当に風光明媚で美しいところです。釣り人以外は訪れる人も少なく、手つかずの自然が残されています。



慥柄 中の磯展望台から道方、道行竃方面
道行竃


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鸚鵡石は巨大な岩で、高さ30メートル幅60メートルほどだそうです。地面に垂直に立ち、真下に行って触ることができます。かたり場といわれる岩があって、(百間も離れていないと思います。多分、数十mくらいです)その岩の上で何かを言うと、それが反響して聞こえてくる、というものです。江戸時代の儒学者伊藤東涯がここを訪れて詩を詠んでいますが、それが霊元上皇の知られる所となり、画師に屏風絵を書かせて、東涯が文を添えたということです。多くの文人がここを訪れているそうです。







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磯部の山にも鸚鵡石があります。こちらは、岩のふもと近くの語り場で話すと、反響し
て、離れている聞き場にいる人に聞こえるというものです。山の頂上から鸚鵡岩の上に上がれます。ここからの景色は、初夏ということもあって本当にきれいでした。
もちろん優劣はなくて、どちらも素晴らしいです。

磯部 鸚鵡石

鸚鵡石からの展望

2020年2月16日日曜日

伊勢参宮名所図会 巻之四 藤波里 御牧の小野 岩出里

藤波里(ふじなみのさと)
或記いはく 是は宮川ちかき沢地村の北に沢地の浅間という森あり その森の西の方 宮川の間に藤波家の屋敷跡あり その所を言うなり

内宮祠官新名所の歌合    藤波の里という題に
幾千代を松にちぎりて藤波の里の主も春を経ぬらん   荒木田長興
と詠ぜしも藤波家を祝しての挨拶と聞こえたり 判者権大納言藤原為世卿の判詞に里の主荒涼なりと 云々    右 勢陽雑記


御牧の小野(みまきのおの)
新名所歌合  春深きみまきの小野の浅茅生に松原こめてかかる藤波  荒木田成言
或記いはく この名所を藤波近郷の者に尋ねしに老いたる一両輩の言いしは藤波の里の川向かい宮川の端なる野を言い伝えたり 往昔 市守長者が旧跡という所 御牧の小野たりと答え侍りぬ云々  岩手の里のつづきなり

岩手里(いわでのさと)宮川舟わたしより 一里ばかり上なり 昔祭主の居給いし所にて古歌あり 古事諸々あり


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藤波の里は 桜の渡しから4キロほど上流、現在は佐八(そうち)と呼ばれるところの川岸にあったと思われます。神宮の祭主をつとめた大中臣氏は当初京都から赴任していましたが、平安時代の中頃からこの地や対岸の岩出周辺に屋敷を構え、地名を家名にして土着するようになったそうです。宮川が織りなす風雅な景観から藤波の里、岩出の里と呼ばれ、また強大な力を有した祭主の豪華な屋敷では歌合せ会が催され、その様子が、内宮祠官新名所絵歌合 に描かれています。(重要文化財 神宮徴古館蔵)およそ400年隆盛を極めますが、南北朝時代の混乱と国司北畠氏の台頭により、神宮祭主の権力は弱まり衰退していきます。 

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藤波の里は宮川によって形成された河岸段丘の台地の上にあるため、水害を受けることが少なかったと思われます。古くから人が住んでいたようで、縄文時代の石器が多数出土しており、佐八藤波遺跡として発掘調査されています。石器とともに。古墳時代の佐八藤波古墳群、平安末期頃の建物跡などが確認されています。現在は、神宮の苗園、畑となっていて、案内板が佐八小学校の敷地内に立っているだけです。昔をしのばせるものとしては、森というほどのものはありませんが、佐八の浅間さんの小さな社が近くにあります。御川神事の天忍穂海人を祀る宮本神社もこの近くにあります。畑の奥の茂みの中に、川に向かって小さな道があったので、辿っていくと、斜面をおりて、宮川の河原に出ることができます。ここから上流は河岸段丘が形成されていて、堤防がありません。人の手がはいっていない、昔の宮川の(もしくはそれに近い)風景が眼前に広がっています。

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御牧の小野について
御牧とは牧場のこと。奈良時代に天皇の勅使により開発された牧場で軍馬等の供給が目的だったそうです。主に東国におかれましたが、献上された馬を飼育するために、畿内にも近都牧が置かれていたそうです。延期式巻48に、国飼の軍馬数、伊勢国10疋と記されているそうです。ここに、そうした朝廷の牧場があったのかもしれません。
また、玉木町史 金子延夫著によると、御牧とは神宮の神馬放牧地であると書いてあります。田丸領名所調帳に「藤波の里の川向、宮川の端なる野を言い伝えたり」「岩出の渡し場から二三町西の長者山のあたり」とあります。神馬の放牧が目的なら神宮のある宮川の東、軍馬の放牧なら朝廷側の西に作るでしょうから、やはり始まりは、軍馬のための近都牧だったのかなと、勝手に考えます。
市守長者の旧跡とは長者が淵のことと思われます。「経塚のある瀬の山が宮川にせまるところ、岩手の南に深い淵がある」と玉木町史にありますが、はっきりとした場所はわかりません。いずれにせよ、御牧の里は、江戸時代でさえ言い伝えだけが残っている所なので、今は何もないのでしょう。ちなみに、現在は内宮外宮それぞれに境内に馬場があって、神馬はそこで飼われています。

(付足)神鳳鈔という神宮領地を書いた書物があります。そこに御厨、御薗、神田などとならんで御牧の言葉が見えます。たしかに伊勢では、同じ御牧という言葉でも、朝廷の牧場を考えなくてもいいようです。でも神馬の放牧地としても、どうやって馬を神宮のある東岸に渡らせたのか不思議です。佐八御牧という牧があったようです(角川日本地名大辞典旧地名編より)。でもここは若菜を備進する所だったそうです。御牧といっても馬はいなかったのかもしれないと思います。


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市守長者の民話  あらすじ
宮川で魚を取って暮らしていたおじいさんが、ある日、川底に黒いうるしあぶらが たくさんたまっているのを見つけました。うるしあぶらはとても貴重なものだったので、それを町で売るとたくさんの小判を手に入れることができました。おじいさんは、たちまち大金持ちになって贅沢な暮らしをするようになりました。そして、うるしあぶらを他の村人に取られたくないと思いました。おじいさんは大蛇の作り物を川の中において、村人に大蛇がいるから川に近づくなと嘘を言いました。そして、一人でこっそり、うるしあぶらを取りに行くと、作り物の大蛇は本当の大蛇になって、おじいさんをひとのみにしてしまいました。 おわり  玉城町の民話より

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荒木田氏は内宮神官、明治まで世襲しました。
外宮は度会氏が世襲。

2020年2月6日木曜日

伊勢参宮名所図会 巻之四 宮川





宮川 山田の入口なり 是より外宮北御門まで三十町 
一名 度会川(わたらいがわ)豊宮川(とよみやがわ)斉宮川(いつきのみやがわ)
                  源は和州 添下郡大(そふのしもこおりのおお)
台原 巴が淵やその他谷々より落ちて二見大湊に至る
里俗の書に
 北熊野 西は宮川 東風吹けば 吉野の川にまさるなり

渡し船は昼夜を分かたず 満水の時も両宮のうちより人を出し参詣人を渡さしむ
御遷宮の御時は舟橋をかくる
勅使参向の時ここに禊あり 又いにしえ三祭礼の前月  禰宜の大祓もここに勤仕す 諸国より参詣人 この川に浴して身を清むるもこれにならえり

新古今
 契りありて けふ宮川の ゆふかづら 永き世まても かけて頼まん   定家
新拾遺
 御禊する 豊宮川の 敷浪の 数より君を なほ祈るかな  朝勝


💬 宮川東岸の絵の次のページをめくると 宮川の紹介です。
名前の由来は、外宮である豊受大神宮の禊川であったことから豊宮川と呼ばれ、豊は略されて、現在は宮川となったようです。水源は大台ケ原です。上記では 和州(大和国)添下郡とありますが、大和国の北の地域をさすようなので、ちょっと違うかもしれません。

💬台原とは、大台ケ原のことと思われます。『吉野山独案内』(1671年)という本に、
大台ケ原に巴が淵というものがあって、吉野川 熊野川 宮川 三つの川の上流にあたる。周りのおいしげった藤の枝によって、西風が吹くと水は東へ流され宮川へ、東風が吹くと吉野川へ、北風が吹くと熊野川へ流れ出るとか と書かれているそうです。巴が淵がただ一つの水源というのは、あり得ないのですが、面白い風景だなぁと思います。

💬渡し場は大混雑だったようです。この渡し船は 大神宮の御馳走船といわれ、無料で、昼夜の別なく運行されていたそうです。

💬 和歌
新古今和歌集 
 前世からの宿縁があって、今日宮川(外宮)を参拝できました。髪にかけてあるゆうかずらのように、末永いご加護をお願いします。     藤原定家
  百人一首 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くやもしほの身もこがれつつ

新後拾遺和歌集
  度会 朝勝    南北朝時代 外宮禰宜



〇清盛堤  宮川の堤をいうなり いにしえは川幅広く故に この時の堤は今畑となりて字に残れり
元正天皇霊亀 清和貞観のころ 度々大風洪水せし事記録に見えたり  崇徳院大治3年勅して大宮三座および大河内神社、志登美神社を河水の守護と祀らせ給う このとき平清盛 命をこうむりて此の堤を築けり また弘治3年以来 度々洪水せり 近来には元文6年辛酉7月22日洪水数百丈 

💬
伊勢市HPより、宮川堤の歴史を調べると、最も古い洪水の記録は、717年(霊亀3年)8月16日の大風洪水のようです。清和天皇の貞観のころ、856年8月13日にも大風雨があり、その他幾度かの洪水の記録があります。1128年(大治3年)宮川堤の守護の功績により外宮摂社であった土社が、土宮として別宮に昇格したそうです。また、同じ年に外宮末社の志登美、大河内、打懸神社の祭神も宮川提の守護神として定められたようです。清盛が訪れたのは、もっと後で、1161年から65年にかけて勅使として参詣、惨状を聞いて堤防の改修に力を尽くし、此の堤を清盛堤と呼んだと言い伝えられているそうです。清盛提は江戸時代すでに取り崩されて畑になっているようですが、お伊勢さん検定のテキストによると、大間国生神社の後ろにある高まりは清盛提の名残と伝えられているそうです。



〇御川祭  毎年5月3日 これを鮎取りの神事という  
鎮座本記に渡相(わたらい)河原に 天忍穂海人(あまのおしほみと)という人 年魚(あゆ)を取りて神饌に蓄うとあり 今もその末の掃守氏(かもりうじ)の人あみを以って年魚取の式あり その詞 云わく
 みとの神の孫 櫛八たまの神を かしはでとして あまのみあえ奉る時 ほぎ申していはく 中略 たぐ縄のちひろの縄うちはへつり あまの くちひろのをひれのすずき さわさわと引きよせあげて さきたけのとををにあまる きなくひ 奉る  右古事記

坂士佛参詣記に けふ宮川舟橋をわたりゆかんと小俣田という里の北なる原をわけて 彼の川に至れば  掃守氏の人船を渡して離宮院の前に留め 夫れより参詣しけるこそ 彼の掃守は天忍海人命の末として そのかみ5月のはじめのころ年魚をとりて備えたる例と  下略

💬
御川神事は今は行われていません。宮川提公園散策マップに御川神事場跡が載っていますが、実際は草に覆われた堤防の斜面で何もありません。

天忍穂海人を祀る佐八の宮本神社の由緒によると、この地にいた漁夫に 宮川の鮎を御饌にして奉献せよ、という天照大神の勅令が下り、漁夫は漁をして鮎を奉献しました。その功により、天皇より天忍穂海人の名を賜ったということです。これが御川神事の始まりで、天忍穂海人の末裔とされる掃守氏が御川神事を継承していったようです。御川神事跡の近くにある浅間提の松井社境内に『掃守社舊蹟』の石碑が立っています。掃守社(祭神 天忍漁人命)がここにあって、明治に上社に合祀されたと記されています。
「天忍穂海人の末裔は掃守氏」というのは、雄略天皇の時代に天忍人命が宮廷の掃除の事を監したので掃守の姓を与えられたという逸話と似ていると思いました。掃うという言葉が、年魚取神事とどう関係するのか、よくわかりません。川守職というのが あったそうですが、いつしか川守が掃守にかわってしまったのでしょうか。

古事記の一節は
(大国主命の国譲りの条件として出雲に神殿を築いたときの場面)
水戸の神の孫の櫛八玉の神を料理人として(大国主命に)御饗を奉るとき、(櫛八玉の神が)祝辞を申して言うに、、、長いたぐ縄を延ばして海人が釣る、口の広い尾びれの張ったスズキをさわさわと引き上げて 折敷もたわむほどたくさんの高貴な魚の御饗を奉ります、、、
という内容です。御川神事と重なるところも多いかな。


💬
宮川は古くは洪水のたびに流れが変わったといわれています。離宮院跡のある台地のすそも、古くは川岸だったそうです。(玉木町史より)



2020年1月28日火曜日

伊勢参宮名所図会 巻之四 宮川東岸




宮川東岸  豊宮川とも云う

 風雅集
    君が代の しるしとこれも 宮川の 岸の杉むら 色もかはらず
                                後京極
 
 土祖神
     


💬 
 和歌 は 風雅集 賀 2218番 
 君が代の 永遠に変わらぬしるしと、これも見ることだ。岸の杉の木々は常緑で色も変わらない。 
 これも「見る」と 宮川の「みや」を 掛けています
 
 九条良経 通称 後京極摂政 平安末期から鎌倉時代の公卿・歌人 
   百人一首 きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣片敷 ひとりかも寝む

💬
宮川東岸 右岸 
 宮川は、氾濫を繰り返す「暴れ川」であったため、橋を架けることができず、伊勢にはいるためには、渡し舟で渡らなければなりませんでした。宮川には 上の渡し、下の渡し、磯の渡しという3つの渡し場があったそうです。伊勢街道を通ってきた人々は下の渡しを利用しました。下の渡しは、江戸時代より桜が多く植えられ、桜の渡しと呼ばれていました。この絵は、伊勢に入ってくる人々、帰っていく人々、迎え入れる人や茶店などで賑わう、桜の渡し場の風景と思われます。
 (磯の渡しの下流には 上条の渡しがあり、また、岩手にも渡し場があったそうで、参詣人が利用した3つの渡し場以外にも、たくさんの渡し場があったようです)
 
土祖神 
 道祖神のことでしょうか。今は見あたらないようです。
 大土乃御祖神(土の宮)ということもあるでしょうか
 玉城町史 金子延夫著 では 祭神は道祖神といわれているが堤防の守護神で、虫歯で痛む人達は有尓郷のほうろく(土器)をそなえて拝むと治るのでホウロク社と俗称したと、書かれています。
付足 角川地名辞典より 歯痛に霊験あらたかな山の神で明治42年今社に合祀されたとあります。

 桜の渡し跡は、宮川堤河川公園の下流のはずれの外にあり、まさに宮川橋の橋脚がたっているところと思われます。宮川堤改修工事で公園を広げ、このあたりは水辺の広場がつくられる予定らしいですが遅々として進まず、今も工事中で近寄りがたい荒れ地となっています。
それでも、新しい案内板が立っていました。


こちらは安藤広重の絵です。参宮名所図会の挿絵にも、この絵にも、画面の中央に棒堤が描かれています。これは江戸時代につくられた突出堤で(洪水の時に水の流れを変えて本堤を守るものだそうです)今も現存しています。土祖神(道祖神?)が見つかったら、そこに桜の渡しがあった証になるかと思ったのですが、残念ながら見つけられませんでした。ただ棒堤の終わり辺りに楠があるようで、そこかもしれないと推測しました。前述したように付近は荒れ地で入れないため、工事が終わるのを待ちます。


💬
 現在も宮川堤はさくらの名所として有名です。宮川堤河川公園として整備され、つい最近改修工事がおわった堤防からの眺めは広々として爽快です。堤防と河川敷の間には、およそ700本のソメイヨシノが植わっています。以前は堤防の上も桜のトンネルがあったのですが、工事のため伐採されて若木が新しく植えられています。
ところで、桜の渡し場跡付近には、杉の木は一本もありません。和歌の詠まれた時代はおよそ千年も昔のことです。この時代から、宮川の堤は築いては流されの繰り返しでした。より大きな堤防を築き、桜を植え、すっかり様変わりしてしまったようです。それでもこの本が出版された200年前にも、付近に「杉むら」があったのでしょう。広々とした堤防の上の舗装された道が、かつて、うっそうとした杉の木で覆われていたことを想像すると、戻ってほしいような気もします。

桜の渡し場から2キロほど上流の対岸に、杉の林がありました。また、こちら側も更に1キロ程行くと、人家の庭に古い杉の木が数本残っていました。
   
対岸の杉 夕方ですみません

伊勢参宮名所図会 巻之四 読みます

伊勢参宮名所図会は、寛政9年(1797年)、江戸時代に刊行された伊勢参宮の案内書で、数ある案内記や道中記の中で最も詳しい決定版ともいえるものだそうです。5巻からなり、巻一巻二では、京都の三条大橋を起点に東海道・伊勢別街道を通って伊勢参宮街道との合流点(津市上浜町付近)まで、巻三では桑名から宮川手前の小俣まで、伊勢に向かう街道沿いの地誌、社寺、名所旧跡などが絵入りで紹介されています。巻四では宮川を渡り、外宮、五十鈴川まで、巻五では内宮、朝熊、二見、伊勢志摩が紹介されています。

現代の伊勢を、昔の伊勢と比べながら見直してみるのは、きっと楽しいし、新しい発見があるのではないかと、ワクワクします。古文書は全くの素人の私にとっては難解ですが、身近な伊勢から、すなわち巻四から、読んでいきたいと思います。

書籍は 国立図書館コレクション 伊勢参宮名所図会 5巻(4)Kindle本 として購入しました。
110円 です。

表紙は 灰色がかった薄青 なんという色でしょう 縹 っていう色に近いかな。
  二見の夫婦岩が描かれています。
表紙裏に 変体仮名で何か書いてあるけど、これは保留。きっと、いつか読める。
次は目次ならぬ目録で、3ページにわたって、およそ140余りの項目が列挙されてます。

ページ数は、キンドルで104ページ。内容としては100ページ弱でしょう。





2016年11月5日土曜日

船津行者山と「光の石」生活環境保全林遊歩道

船津行者山 309メートル

先日、友人と行くのに、半日で行けるハイキングコースを探していました。伊勢志摩国立公園の web site で「鳥羽のお出かけマップ」 というのがあって、あまり知らなかった鳥羽のハイキングコースが たくさん載っていました。



船津行者山というのは朝熊山の東に連なる山です。名前だけは知っていたので、行ってみることに。ところが、車を置く場所がわからないし、地図もきちんとしたものではないので、迷わず行けるかどうか心配でした。光の石遊歩道というのも、ネットで調べても情報がほとんどありません。それで下見ということで夫と行って来ました。


スタートは近鉄池の浦駅付近です。駅裏の道の路肩に少しスペースがあり、そこに車をおきました。そのまま駅裏の道をどんどん進みます。すると田んぼに沿う道にぶつかるので、右にまがります。田んぼは休耕地でススキ野原に変わっていました。





お地蔵様が2か所にあります。二つ目のお地蔵様のところが朝熊岳の登山口になっていました。「鳥羽岳道」と書いてありました。鳥羽岳道は初めてなので、少しそそられましたが、通り過ぎます。道はだんだん山の中に入っていきます。
川沿いに進んでいくと道が二手に分かれています。山側の火の用心の赤い標識のある道を登っていきます。このまま行くと光の石遊歩道の案内板があるはずなのですが、それらしきものもなく、不安に思いながら更に進んでいくと、小さな坂を越えた向こうに茶色の案内板を発見しました。






明るいハイキングコースを想像していたのに、うっそうとした山の中で、めったに人が来ないようで道も、木の枝やがれき、ときには倒木もあって荒れていました。案内板をみると、道は幾つにも別れしていますが、どれを通っても同じところに行けるようです。小川を渡るときはしっかりとした橋があり、急な坂は階段になっていて、10年前はきっと素敵なハイキングコースだったのでしょう。でもあと10年もしたらこの道は藪に埋もれてしまいそうです。

でも綺麗

けっこう素敵


展望のよい所も


案内板を携帯の写真にとって、それを見ながら進んでいくと、鳥羽スカイラインにに出ました。わあと思うと反対側に遊歩道の続きが見えます。 車を置くスペースも少しあって、スカイラインを下りてきた人もちょっと休憩したり、ハイキングが楽しめるということです。道をわたって階段を登っていくと東屋にでます。web では ここは展望がよいと書いてありましたが、木が大きくなったようで、ほとんど何も見えません。でも休憩には良い所なので、ここでランチにしました。


それから道はほとんど平坦で再び鳥羽スカイラインにでます。光の石遊歩道はここが終点です。スカイラインの路肩が広場のようになっていて、解放感があります。ここにも同じ案内板が立っていました。スカイラインを走る車を見るとちょっと優越感を感じます。有料道路にただで入っている嬉しさか。。。



さて 行者山への 登山口は、スカイラインに沿って歩いて、2,30メートルというところでしょうか。同じ側です。イセのアオキさんのプレートがありましたので、すぐにわかりました。



少し登るとしっかりとした尾根道にぶつかります。ここを左(東)にまがります。途中でかなり傾斜がきつくてロープの張ってある場所がありましたが、そこをこえるとすぐに頂上で、三角点があります。

明るい尾根道を行きます

頂上プレートあり


役行者の祠



役行者の祠は少し先にあります。意外に大きく人が入ることができます。奥に役行者の像もあります。(こんなに痩せている行者様は初めてです。)


その祠の傍に元広場と思しき木の低い場所がありました。背伸びをすると何とか、鳥羽の青い海、緑の島、白い船が見えるのですが、やはり木が伸びてしまったようです。


更に行くと 鉄塔があり、船津の方へ降りて行けるのですが、今回は、ここまでで戻りました。


帰りは光の石遊歩道の横道に入って、芝生広場というところに行ってみました。でも半分は芝生、半分はイノシシが完璧に耕した跡でした。藪にのまれつつあり、展望もありません。

行きは不安に思いながら行ったのですが、帰りはあっという間に戻ってきました。麓の田んぼ道で一人会いましたが、それ以外は歩いている人は誰もいませんでした。でも鳥羽スカイラインに絡んでハイキングコースがあったなんて知りませんでした。整備をしてくれたら、結構いいコースで楽しいんじゃないかと思いました。

家に帰って地図を見たら、だいたい載っていました。最後のスカイラインから行者山頂上までは、地図にないので適当に書いてみました。


2016年11月1日火曜日

其の16 大湊めぐり

大湊めぐり



大湊は宮川と五十鈴川の合流する河口にある三角州の町です。古くから水路を利用した伊勢へ物流の拠点として、また宮川上流からの木材の入手が容易であったため造船の町として栄えていました。

 1338 北畠親房らが義良親王を奉じて、大湊から船団を整えて関東へ出帆
 1592 秀吉の朝鮮出兵のため九鬼氏が大湊で日本丸を建造

  など、歴史的にも有名であるといえると思います。

江戸時代には廻船問屋が自治を司り、造船に関連して家釘、船釘、錠などの鉄工業も盛んになりました。明治になるとたくさんの造船工を必要としたため、大湊町立造船徒弟学校(現在の県立伊勢工業高校)が設立されました。造船業は高度成長時代までは繁栄を続けましたが、その後倒産廃業が相次ぎ、以前ほどの繁栄はみられなくなってしまいました。


伊勢山田散策 ふるさと再発見 の本には 大湊の日保見山八幡宮という神社について書かれています。この神社の境内の前には弥栄の松(いやさかのまつ)と呼ばれる大きな松があります。案内板によると、樹齢400年、廻船問屋角谷七郎次郎秀持の庭にあったものが移植されたそうです。


ちなみに大湊の廻船問屋角谷七郎次郎秀持と言う人は、本能寺の変の際に堺を遊覧中だった徳川家康を助け、伊勢国から三河国へ逃れるための船を調達したそうです。以後徳川家の御用商人となり、子孫代々まで廻船自由の特権を与えられたそうです。



また神社の入り口には立派な木製の常夜燈が2基建っています。元は江戸時代の釘問屋の発起により全国の取引先から寄付を募り建立したものだそうです。懸魚や火袋の欄間には透かし彫りが施され豪華なつくりであったそうですが、風雨にさらされて傷み、平成24年に新しいものに置き換えられています。古い常夜燈は境内の倉庫に保管され、ガラス越しに見ることができますが、今回は夕方訪れたため、暗くてはっきりと見ることができませんでした。
境内には多くの石塔が建ち、伊勢で最古の記銘(寛永12年、1635年)のある石灯籠もあります。
これらは、それぞれ寄進されたものであり、かつての大湊の栄華を物語るものだそうです。


さて、まず車を日保見山神社のすぐ近くの防波堤の上に止めると、まず目にはいるのが 義良親王乗船地という石碑です。防波堤の上に建ち、後ろの松林の間から海が見えます。



近くの階段を下りると、鷲ヶ浜という広い海岸に出ます。背の低い硬い葉をもつ海浜植物に覆われた広い原野の先に波の打ち寄せる砂浜が見えます。鷲ヶ浜は約1キロにわたって東西に広がり、防波堤に沿って歩道が整備されています。海のむこうに鳥羽の島々や知多半島、渥美半島を望むことができます。



東にむいて進むと海に突き出た長い長い波除堤が見えてきます。ここで歩道は終わり、南平造船所とかいた巨大な建物があります。残念なことに建造中の船はありませんでした。



この辺りに阿場池跡というのがあるそうで(ネットで調べた情報 神宮の貯木池跡のこと)、しばらく適当に歩いて探し回りましたが見つかりませんでした。近くを通りかかった方に尋ねるとこの辺一帯がアバという所で、かつて神宮の貯木池があったということです。大湊小学校の敷地内に神社があり、その人の話によると、神様の土地を人が使うようになって不幸が続いたため、そこに神社を建てたというのです。行ってみると、大綿津見神社という小さな社と神宮貯木池跡という石碑がありました。阿場池跡というのは、この石碑のことでしょう。阿場は網場の間違いのようで、もともと材木を貯める池を網場というそうです。


「三重県案内」というgoogle書籍によると、大湊の東地区に網場とよばれる池があって、古くから神宮御用材の貯木場として使われていたそうです。木曽御料林より伐採した材木を桑名より廻漕し、一時ここに係留し、内宮御用材は五十鈴川、外宮は宮川に分け、遷宮の際に、それぞれ領地民のお木曳によって運ばれたそうです。網場池がいつまであったかはよくわかりませんが、今は埋められて大湊小学校と住宅地になり、石碑が残されているようです。

ここから日保見山神社までは200メートル程です。日保見山神社に戻って参拝して、帰ることにしました。今は夕方のうえに曇り空で写真がきれいに撮れませんでした。後日また 撮りに来るつもりです。