2016年11月1日火曜日

其の16 大湊めぐり

大湊めぐり



大湊は宮川と五十鈴川の合流する河口にある三角州の町です。古くから水路を利用した伊勢へ物流の拠点として、また宮川上流からの木材の入手が容易であったため造船の町として栄えていました。

 1338 北畠親房らが義良親王を奉じて、大湊から船団を整えて関東へ出帆
 1592 秀吉の朝鮮出兵のため九鬼氏が大湊で日本丸を建造

  など、歴史的にも有名であるといえると思います。

江戸時代には廻船問屋が自治を司り、造船に関連して家釘、船釘、錠などの鉄工業も盛んになりました。明治になるとたくさんの造船工を必要としたため、大湊町立造船徒弟学校(現在の県立伊勢工業高校)が設立されました。造船業は高度成長時代までは繁栄を続けましたが、その後倒産廃業が相次ぎ、以前ほどの繁栄はみられなくなってしまいました。


伊勢山田散策 ふるさと再発見 の本には 大湊の日保見山八幡宮という神社について書かれています。この神社の境内の前には弥栄の松(いやさかのまつ)と呼ばれる大きな松があります。案内板によると、樹齢400年、廻船問屋角谷七郎次郎秀持の庭にあったものが移植されたそうです。


ちなみに大湊の廻船問屋角谷七郎次郎秀持と言う人は、本能寺の変の際に堺を遊覧中だった徳川家康を助け、伊勢国から三河国へ逃れるための船を調達したそうです。以後徳川家の御用商人となり、子孫代々まで廻船自由の特権を与えられたそうです。



また神社の入り口には立派な木製の常夜燈が2基建っています。元は江戸時代の釘問屋の発起により全国の取引先から寄付を募り建立したものだそうです。懸魚や火袋の欄間には透かし彫りが施され豪華なつくりであったそうですが、風雨にさらされて傷み、平成24年に新しいものに置き換えられています。古い常夜燈は境内の倉庫に保管され、ガラス越しに見ることができますが、今回は夕方訪れたため、暗くてはっきりと見ることができませんでした。
境内には多くの石塔が建ち、伊勢で最古の記銘(寛永12年、1635年)のある石灯籠もあります。
これらは、それぞれ寄進されたものであり、かつての大湊の栄華を物語るものだそうです。


さて、まず車を日保見山神社のすぐ近くの防波堤の上に止めると、まず目にはいるのが 義良親王乗船地という石碑です。防波堤の上に建ち、後ろの松林の間から海が見えます。



近くの階段を下りると、鷲ヶ浜という広い海岸に出ます。背の低い硬い葉をもつ海浜植物に覆われた広い原野の先に波の打ち寄せる砂浜が見えます。鷲ヶ浜は約1キロにわたって東西に広がり、防波堤に沿って歩道が整備されています。海のむこうに鳥羽の島々や知多半島、渥美半島を望むことができます。



東にむいて進むと海に突き出た長い長い波除堤が見えてきます。ここで歩道は終わり、南平造船所とかいた巨大な建物があります。残念なことに建造中の船はありませんでした。



この辺りに阿場池跡というのがあるそうで(ネットで調べた情報 神宮の貯木池跡のこと)、しばらく適当に歩いて探し回りましたが見つかりませんでした。近くを通りかかった方に尋ねるとこの辺一帯がアバという所で、かつて神宮の貯木池があったということです。大湊小学校の敷地内に神社があり、その人の話によると、神様の土地を人が使うようになって不幸が続いたため、そこに神社を建てたというのです。行ってみると、大綿津見神社という小さな社と神宮貯木池跡という石碑がありました。阿場池跡というのは、この石碑のことでしょう。阿場は網場の間違いのようで、もともと材木を貯める池を網場というそうです。


「三重県案内」というgoogle書籍によると、大湊の東地区に網場とよばれる池があって、古くから神宮御用材の貯木場として使われていたそうです。木曽御料林より伐採した材木を桑名より廻漕し、一時ここに係留し、内宮御用材は五十鈴川、外宮は宮川に分け、遷宮の際に、それぞれ領地民のお木曳によって運ばれたそうです。網場池がいつまであったかはよくわかりませんが、今は埋められて大湊小学校と住宅地になり、石碑が残されているようです。

ここから日保見山神社までは200メートル程です。日保見山神社に戻って参拝して、帰ることにしました。今は夕方のうえに曇り空で写真がきれいに撮れませんでした。後日また 撮りに来るつもりです。



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