2016年5月2日月曜日

其の12 横輪・矢持を歩く 飯盛寺と兜岩水神

伊勢神宮の南西に位置する横輪、矢持のあたりは、一宇郷谷と呼ばれていました。壇ノ浦の戦いで敗れた平家の落人が隠れ住んだと言われ、それにまつわる様々な言い伝えが残されています。鷲嶺の山の深い森には落ち武者の亡霊の伝説がありますが、実際に訪れてみると、春は桜、夏はホタルと、自然豊かで美しい、のどかな山里です。

 

今日の目的は、山田散策の本に載っている飯盛寺と兜岩水神です。

現在の飯盛寺は南勢町の切原にありますが、かつては五か所浦と内宮の中間地の山中にあって参拝者も多く栄えていた大きな寺院だったそうです。今日、訪れたのはその寺院跡で、本堂跡に八大竜王が祀られているため、地図には八大竜王と記されています。

飯盛寺は、神宮の裏鬼門を守る寺として聖徳太子が興したと言うことです。また疱瘡の守り札の霊験あらたかで信仰を集め、五か所からの海産物を伊勢に運ぶ中継地としても賑わっていたそうです。しかし、明治になって廃仏毀釈運動のなかで衰退し、暴風雨による本堂倒壊にあって、廃寺となったそうです。

飯盛寺跡に行くには、一宇郷谷の最も奥、床の木(いすのき)から、道が途切れる直前に林道にはいり急な坂を登って行きます。途中で林道から分かれますが、赤や黄色のテープが巻いてあるので、まよわずに進めます。伊勢の山は椿の森が多く、赤い花があちらこちらに見えるので、黄色いテープの方が目だって助かります。

飯盛寺跡は今でも信者の人達によって手入れされているのか、まだ新しい石碑が幾つも建っています。八大竜王の社もしっかりと閉じられて中を窺うことはできません。かつては立派な庭園になっていたのか、弁才天の池があり、その水は驚くほど透明でした。池の端に、石を積み上げて囲ってある泉と思しき所があり、水神明王という石柱が建っていました。近づくと石壁から蛙が泉に飛び込んで水音が響き、いきなりで驚かされましたが、一瞬の出来事で、後はいくら探しても蛙の姿は見つからずじまいでした。

飯盛寺跡


八大竜王の祠


弁才天池 透明で美しい 


床の木までの戻りは、浅間神社の前を通る別の道を通りました。小さな浅間神社のお社ですが、その前の階段の傷みと傾斜がなかなかでした。こちらの道を通ると、少し手前の床の木の集落に戻ります。分岐点に一本の桜の木があり、その根本にお地蔵さんが立っています。舟形の光背に右いいもり道と書いてあるのが読めます。床の木から五か所までの道は、飯盛寺を経由して切原峠に至り五か所に行く道と、寺を通らずに切原峠に至り五か所に行く道と二つあったようです。




右いいもり道と読めます。




兜岩水神は、矢持下村から、鷲嶺に向かう道に曲がり、直後に左折して、しばらくは横輪川の右岸に沿うように歩きます。過去に2,3回 兜岩水神を探したことがありますが、何の案内もなく見つからずじまいでした。今回もまたあきらめかけたところでしたが、地元の方に訪ねたところ、快く案内して下さいました。道はしだいに山の中腹に向かいます。川とは離れますが、どんどん進むと、鳥居があってその向こうに注連縄の張られた大きな岩が見えてきます。

山田散策の本によると、兜岩水神は、下村の古い家柄の某家が代々守り祀っているそうです。その家には長男にのみ言い伝える一人口伝の言い伝えがあったそうですが、主が戦死したため、口伝を継ぐことができなくなってしまったそうです。ただ、兜岩水神は水天宮であると伝えられているそうです。


案内してくれた方によると、毎月5日はお祭りの日だそうです。水天宮の例大祭は5月5日、縁日は毎月5日ということで、たしかに一致しています。 水天宮は幼くして亡くなった安徳天皇の霊をなぐさめるものです。兜岩水神を代々守っている某家は、もしかもしたら平氏の末裔なのでしょうか。

森閑とした山の中腹にある兜岩水神


2016年4月17日日曜日

其の11 伊勢の桜桜桜

宮川堤の桜並木
宮川堤公園の右岸一帯の堤防上にソメイヨシノなどの桜が植えられ、桜の名所になっています。
さくら名所100選にも選ばれました。宮川の渡し船の着くあたりに桜を植えたのが始まりといわれ、桜の渡しと呼ばれるようになりました。最近は二千本あるそうです。   お伊勢さんテキストより

伊勢の桜の名所といえば、ここが有名です。シーズンになるとたくさんの人が訪れます。テキ屋さんの屋台もたくさん並び、ゴミなども落ちていてちょっと嫌だなと思った年もありますが、今年の心境としては、まあいいかな。屋台での買い食いを楽しみにやってくる人たちもたくさんいるし、それも日本の文化かな。また、今年はごみが少なくてきれいでした。宮川堤公園は広くて、突き出し堤などで起伏に富んでいるので、少し離れるとテキ屋さんの列も見えなくなり、静かに景観を楽しむこともできます。





お伊勢さんテキストにとりあげられている桜では、他に離宮院公園の寒緋桜、豊宮崎文庫跡地のお屋根桜、横輪町地域で育てている横輪桜があります。


離宮院公園の寒緋桜はたった1本しかないようです。2月から3月の寒い時期に咲きますが、梅林の中にあって、梅と見間違えてしまいます。下向きに咲く、珍しい桜です。






お屋根桜は市の指定天然記念物です。豊宮崎文庫創設のとき、創設者の家の屋根に生えた苗を移植したとも、外宮古殿の屋根に生えた桜とも言われているそうです。ヤマザクラの新種だそうです。  お伊勢さんテキストより  
年に数日、桜の季節、特別に旧豊宮崎文庫敷地が公開されます。今年初めて、行ってみました。無知な私は、豊宮崎文庫の屋根から桜が生えているのかと思っていましたが、建物は何も残っていません。外宮の森を背景にソメイヨシノとともに白い花を咲かせている数本のヤマザクラの古木を見ることができます。




横輪桜は横輪の地域のみに咲く桜です。そこは賑やかな市街地からは一線を画した、深い山々にかこまれた隠れ里です。壇ノ浦の戦いで敗れた平氏の落人の伝説があります。横輪桜は、150年程前、桂林寺の境内に咲いていた桜を村人たちが自宅に植えて増やしたものと言われています。ソメイヨシノより数日遅れて咲きます。ピンク色が濃い大きな花びらが特徴で、とてもきれいな花です。房のようになって咲くので、遠くから見ると八重桜のように見えます。横輪桜の美しさはその花ひとつひとつのみならず、山里のひなびた風景の中にあって、いっそう引き立つようです。








ここからは、今までに見聞きした桜の美しい場所を挙げてみたいと思います。

尾崎咢堂記念館 宮川堤公園の対岸にあります。歩道がありますので、宮川堤の桜を見に行ったついでに、度会橋を渡って歩いて行くことができます。尾崎咢堂といえば日本の議会政治の発展に尽力した政治家です。父親の仕事の都合で少年のころ伊勢に転居して数年間、豊宮崎文庫で英語の勉強をしていたそうです。記念館は尾崎邸跡に建てられました。また、尾崎咢堂は友好のしるしとして、アメリカのワシントンD.C.に桜の苗木四千本を贈った人でもあります。アメリカの桜並木はいまでも有名な名所になっているそうです。その関係か、記念館の庭にも桜の木が多く植えられています。目の前の桜、川のむこうの宮川堤の桜などを眺めていると、アメリカの桜並木にまで想像が膨らみます。


     

 



内宮周辺です。宇治橋周辺にも桜が植えられています。内宮の深い緑の森に桜の花が映えてとても美しかった記憶があります。また五十鈴川堤にもたくさんの桜が植えられています。3月31日の晦日寄せに行った時、すし久の2階でお茶をのみながらライトアップされた夜桜を見ました。おはらい町は夜間にはほとんど人通りがなくなりますので、非常に静かで神秘的な雰囲気でした。

海の蝶 二見池の浦にあるホテルです。もともと風光明美な素晴らしい景色が楽しめるホテルです。数年前、宿泊客でもないのに、ずうずうしく桜を見せてくださいとお願いしたら、ホテルのロビーから中庭に案内してくださいました。そこは高台になっていましたが、海岸まで、眼下に一面に満開の桜が広がっていました。息をのむほどの美しさでした。毎年、桜の季節になると、一度は宿泊したいと思いつつ、ついに実現せず今日にいたっています。ここのホテルの敷地内にも寒緋桜があるそうです。また機会があれば見に行きたいと思います。

宇治浦田駐車場。内宮の市営駐車場です。以前、伊勢の桜はどこがきれいですか、と聞かれて思わず市営駐車場と言ってしまったことがあります。本当にきれいなんです。駐車場の工事で随分切られてしまいましたが、また持ち直してきたようです。特にお勧めなのが、桜吹雪の季節です。アスファルトなので、地面に落ちた花びらは湿ることなく軽々と風に舞い上がります。運転していても見とれてしまわないように注意しなくてはなりません。

音無し山の桜 音無し山は夫婦岩のすぐそばです。サークルKの向かいに無料の音無し山駐車場があり、ここの駐車場から登ります。わずか120メートルほどの山で、15分位で展望台につきます。寄り道程度の距離ですが、鳥羽湾が一望できる、驚くほど素晴らしい景色をみることができます。途中に橋があり、東屋などもあります。私が行った時は、桜があるとは知りませんでした。やはり山の深い森に囲まれて、とてもきれいな花でした。散りかけのころで、花びらがはらはらと散っていたような気がします。最近は少し有名になったようなので、訪れる人も増えたのだと思います。

2016年4月12日火曜日

其の10 宇治山田陵墓参考地

宇治山田陵墓参考地というものを、全く知りませんでした。
たまたま目にした伊勢市のウォーキングコースにのっていました。

陵墓参考地とは宮内庁が皇族の陵墓と認めたもので、被葬者の特定ができていないものをいうそうです。宇治山田陵墓参考地の被葬者は倭姫と推定されているそうです。
倭姫といえば、天照大神の御杖代として諸国を回り、神託により伊勢に皇大神宮を創建したとされる人で、垂仁天皇の皇女、初代の斎宮と言われます。

場所はちょうど隠岡遺跡と日蓮の誓いの井戸の間くらいで、其の1 で書いたコースに付け足すべきところで、今まで素通りしていました。御幸道路から、古市の黒石という料亭に向かって上がって行く坂の左手にあります金刀比羅神社の参道の入り口に倭姫命御陵という石柱が建っています。内宮と外宮の中間で、間の山といわれた所で、尾上御陵とも呼ばれているようです。





倭姫命御陵は階段を少し上がると参拝をする小さなスペースがありますが、コンクリートと鉄の格子で閉ざされて中にはいることはできません。宮内庁とかいた立て札がありますが、文字が薄れていてよく読めません。木が茂っていてよくわかりませんが、左手に丸く地面が盛り上がっている所があるようです。せいぜい数メートルぐらいの大きさでしょうか、柵で囲まれている敷地にしても数十メートル四方くらいです。あの倭姫命宮に比べると、小さくて質素なのに驚きます。古墳時代よりも昔の時代ですから、大きな墓はつくらなかったのかもしれませんし、また、つくられた当初、どれほどの規模であったかは、わかりません。でも倭姫は初代の斎王ともいわれますので、神々に仕える身であり、倭姫自身を神として崇めることは、きっと当時は、なかったのだろうと想像しました。しかし2000年の時を超えて、その功績は今も語り継がれ、また生き続けていると思うと、まさに神のような不思議な力やおおらかさを感じてしまいます。


ここは常明寺跡でもあるということで、たしかに日蓮上人の誓いの井戸から、直線距離にしたら100メートルもないかもしれません。ということは、長い間、倭姫命御陵は常明寺敷地内にあったのでしょうか。神仏習合だからよかったのでしょうか。



さて参道をすすむと、金刀比羅神社の境内です。たくさんの木の鳥居がならんでいる中をくぐります。

こんなにたくさんの鳥居です


横に芝生の広場が見えてきました



本堂は素朴です



横は芝生の広場でトキワマンサクの花が満開です。道路からすぐはいっただけなのに、静かで風情のある、すてきな所でした。





2016年3月15日火曜日

其の9 金メダルロード 

其の9  金メダルロード

アテネ五輪女子マラソンで金メダルを獲得した野口みずきさんは、伊勢市出身です。宇治山田商業高校時代の練習コースは 「野口みずきの金メダルコース」 と呼ばれています。倉田山公園に記念碑が建てられて、ここからスタートしてぐるっと一周 2.6キロのコースです。





付近には中学校や高校が多いので、ずっと以前から、部活の学生さんがたくさん走っているコースです。伊勢市はジョギングコースとして整備しましたと言っていましたが、スタート地点に記念碑を建てたのと、歩道に距離を書いた黄色い丸プレートを数百メートルおきに埋め込んだだけです。こんな言い方をすると、不満げに聞こえると思いますが、大半が一般道で、国道では歩道が狭く、それ以外のところでは歩道が傷んででこぼこになっている所がたくさんあります。こんな状態では名前が泣きます。で、「市民の声」に整備のお願いを投稿してみました。

コースは 倉田山から野球場スタジアムの外側を回って国道におり、左折します。左手に二つ池の東池を見ながら国道を走り、黒瀬交差点を左折、宇治山田商業高校の前を通り、二つ池の西池を通り過ぎて、倉田山公園に戻ります。全体に緩やかな下りで爽快、最後にツケがたまった分まとめて登る感じで、脚が棒になってゴールします。

倉田山公園から見下ろす西池

国道23号から 東池


二つ池の言われはよく知りません。昔ここには龍が住んでいたそうです。今は冬にはたくさんのカモがいます。

今回、車は500メートルくらい離れた伊勢市生涯教育センターの駐車場におきました。駐車場の裏にも、ため池と小さな山があります。まったく偶然に、この山に階段を発見しました。さっそくのぼってみると神社を発見!黒瀬の八幡宮というらしいです。
ネットで調べるとこの神社の説明は橘社という二見街道に面した神社にあるらしいので、次回はそこに行ってみます。

ちょっと立派な生涯教育センター

小さな山の森の中に神社がありました。

2016年3月7日月曜日

其の8 宮川の堤

其の8 宮川の堤について

宮川は延長およそ91㎞におよぶ三重県最長の河川です。

源は日本有数の多雨地帯である大台ケ原山系で、古来から、洪水を繰り返す暴れ川でした。豊臣秀吉や山田奉行所などが治水工事を行い、氾濫の数は減少していきましたが、水に流されない橋がかけられたのは明治になってからです。
戦後、宮川総合開発事業により、1957年に宮川ダム、1966年に三瀬ダムが建設されてからは洪水は激減しましたが、平成16年の台風21号の増水では支流の横輪川が氾濫し、伊勢市内で203棟の床上浸水の被害がでています。このため、同年宮川堤の改修事業が着手され、平成23年に度会橋から上流3キロに渡って(旧柳の渡し付近まで)堤防の改修が終了。平成26年4月より、度会橋から下流に約1キロ、宮川橋付近(旧桜の渡し)までの堤防改修が始まり、現在ほぼ完成しておりますが、今だ工事は続いている状態です。




宮川の治水が難しかった理由には、二つの側面があったそうです。

ひとつは 地形の問題。 宮川の 流路は91キロで、宮川と同じ大台ケ原を水源とする紀ノ川は136km、熊野川は183kmと比較すると、宮川の勾配が急で、川の流れが速くなります。さらに宮川が伊勢平野に出る岩出町の川床の標高は4,5mと平野に出てから急に勾配は緩くなっています。このため、大量の降雨があった場合、急峻な谷間を高速で流れてきた河水は平野に出た途端に流路から溢れ出て、洪水が発生しやすくなります。(農業農村整備情報総合センター,2015)。

もともと宮川の下流は右岸側で、広大なデルタ地帯を形成していたそうです。下の図のように、宮川流域というより、もはや中州に人々が暮らしていたという状況だったと思われます。

                   宮川下流々跡図 (神宮文庫蔵諸古文書による)

もうひとつは 人的な要因です。
宮側右岸は荘園時代から神宮領として神宮の支配する地域でした。江戸時代になると山田奉行所がおかれて治水工事が行われてきましたが、神宮は、宮川の治水は幕府にまかせ、自ら行うということはなかったようです。また、宮川左岸の大半は紀州徳川藩の飛び地でした。紀州藩は高度な水利技術をもっていたということですが、左右岸の支配者が違うために、大がかりな治水工事が行われることはなかったのです。

また洪水の話ではありませんが、伊勢平野の宮川左岸の地域、玉城 五桂、明和町は洪積台地の上にあり、宮川の川床よりも標高が高く、宮川の水を農業に利用することができなかったそうです。外城田川などのいくつかの細い川はあっても日照りが続くと枯れてしまうため、この地域ではたくさんのため池が作られてきました。しかし、農民の水をめぐる苦難の歴史も悲惨なものがあったということです。


戦後、昭和25年に公布された国土開発法に基づき、豊富な宮川の水量を利用した、治水、かんがい、発電を含んだ、宮川総合開発事業がまとめられ、同年宮川ダムが着工されます。この事業が完成するまでに実に30年かかっているのですが、その結果、洪水被害は激減し、伊勢平野は三重県有数の豊かな穀倉地帯となりました。

今見ることのできる、緑豊かな田園風景と美しい宮川の流れは、たくさんの先人達の苦難の末に成し遂げられたものだということを忘れないでいきたいものです。




さて現在進行中の宮川堤の改修工事により、草が茂り、桜の古木が連なっていた以前の宮川堤から、とても明るい近代的な公園に様変わりしています。どちらが良いというものではなく、やがてこの堤防も時を重ね、歴史的なものとなっていくのでしょう。桜は変わらず美しく、江戸時代につくられた突出し堤も保存されているので、素晴らしいと思います。


突出し堤というのは右岸だけに見られます。川の流れに突き出すようにつくられた堤防で、水の流れを変えて、本堤を守ろうとするものらしいです。



松井孫右衛門堤も突出し堤で、浅間堤(1748延享5年)とも呼ばれるようです。孫右衛門社はもとは浅間神社につくられたのでしょうか。今は境内に稲荷神社と掃守社舊蹟という石碑があるだけです。浅間堤は堤改修工事の際に新しい堤防が交差して二分されていますが、全容はよくわかります。
その他の突出し堤は度会橋の下流で、駿河堤(1685貞享2年)、周坊堤(1702元禄15年)、棒堤(1742寛保2年)の3つがあります。それぞれ遊歩道でつながっていて、桜の下に起伏を与え面白い感じになっています。


浅間堤

駿河堤 正面に宮川 本邸は右側



2016年3月5日土曜日

其の7 宮川の渡し

 
昔、宮川には橋が架かっておらず、人々は柳の渡し、桜の渡し、磯の渡しなどのどれかを船で渡らねばならなかった。川が増水すれば川止となり、難儀をすることが多かったため、「お伊勢さんほど大社はないがなぜに宮川橋がない」と歌われたほどである。明治30年に参宮鉄道が開通し、明治44年に度会橋、大正8年には宮川橋が開通し、宮川の渡しも姿を消した そうです。      (お伊勢さん テキストブックより)

ということで、今日は宮川を度会橋付近から下流に向かって、宮川の渡しの跡をさがして行くことにしました。    


2月28日(日曜日)  出発は昼過ぎ、度会橋の東詰駐車場に車を置いて、ジョギングで。



度会橋 駐車場。。。。。。。 神宮御用材貯木池の跡 石碑 。。。。。。。。 桜の渡し 案内板 


。。。。。。。 高向堤防完成記念碑 。。。。。。。 ラブリバー公園 。。。。。。 


磯の渡し広場( 御頭神事禊斎の場、磯の渡し案内板、浅間神社高向富士講遥拝所 ) 。。。


折り返し。。。。。。度会橋 駐車場 。。。。。。。孫右衛門堤付近 




まず、いつもの駐車場に車を置いて出発です。堤防の上では見落としてしまうかもと、なるべく河川敷付近を走ろうと降りて行くと、まさに1分で神宮御用材貯木池の跡という石碑の前に来ます

後ろは河川敷の広場です

どうやらここに、昔、池があったそうです。新しい神宮を建てるための御用材は木曽の山から船で大湊に運ばれ、内宮用は五十鈴川を上り鹿海まで、外宮用は宮川を上り度会橋まで運ばれたということです。ここの貯木池に一時おいて、ここから外宮まではお木曳き車にのせて町中練り歩きながら納められたということです。ここから外宮まで、約2キロくらいだと思います。
                                        
平成25年の遷宮の際のお木曳きでは、度会橋をはさんだ上流側からスタートしましたので、材木も上流側に貯めておくところが作られていたと思われます。

さてここから宮川堤公園の遊歩道を数百メートルも下ったところで、さっそく桜の渡しの案内板を見つけることができました。ちょっと読みにくいのですが、ちょうど現在の宮川橋が架かっているところだったようです。


コンクリートのスロープがあって橋脚の下まで行けます。公園のはずれに位置して、今もなにやら船着き場になっているようですが、荒れていて基本的には立ち入り禁止のようです。ただ今後、桜の渡し跡も公園の一部として改修整備する計画があるようです。(さすがに橋の真下は危険だからこの近くということになるのでしょうが)


さらに下流に向かいますが、公園を出て一般道路になります。JRの架線の下をくぐると、やや川から離れますが、見晴らしのよい堤防の上の道を走ります。歩道がなくて少し危ない道だったのですが、去年、下に新しい道路ができて車の通行がかなり減りました。ここに大きな石碑があり、高向堤防完成と大正8年という文字が読み取れます。

宮川は暴れ川で治水にかなり苦労したということです。橋を架けられなかったのもそのせいです。この堤防もそうした宮川の氾濫を防ぐために大正時代に築かれたのでしょうか。ちょっと歴史を感じながらも道はまもなく二つに分かれて、堤防を下り、川に向かって伸びていきます。川の護岸と放置された自然林の茂みの合間を通る道で、普段は絶対に一人では行かない道ですが、今日は暖かくて人もぱらぱらと見かけるので、思い切って行ってみました。近鉄の高架線の下を抜けて、そのままラブリバー公園に続いていました。野鳥の声が響いて、のどかな道です。

ラブリバー公園に入ると探す間もなく「磯の渡し広場⇒」という看板が目にはいりました。
広場に着くと、高向社の御頭神事の関係者が禊をするという場所や、富士講遥拝所などがありました。神宮御膝元といえど、庚申講や富士講が今も息づいているのは何故なのでしょう。日本人には神仏習合も染み付いているし、無宗教といえども調子のよい神頼みの精神はどうなんでしょう。そういう私も間違いなくその精神で生きてきています。いずれよく考えてみます、でも今はいいや。

御頭神事の禊の場所


磯の渡し跡付近(豊浜大橋)

富士講遥拝所


さて磯の渡しは、色々位置を変えながら、豊浜大橋が完成した昭和27年まで、存在していたそうです。初めと話しが少し違うのですが、桜の渡しや柳の渡しが、遠くから伊勢詣でに来た人々が利用した、いわゆる伊勢街道の一部であったのに対して、こちらは地元の人々の生活道路の一部であったのかもしれません。

ここから宮川大橋の下まで行きました。この先堤防の上からは絶景が広がっているのに違いありませんが、久しぶりのジョギングに体力に自信がないため、折り返すことにしました。
まだ柳の渡しを見ていません。度会橋の上流に違いありませんので、そこまで行かなくてはなりません。ここまで、およそ3キロです。

度会橋東詰の駐車場で、宮川堤の案内板をチェックしました。浅間堤という言葉を発見しました。これについてはまた次回に書きたいと思います。
さて、今度はいつもの上流に向かって、河川敷近くを走ってみましたが、柳の渡しについては何も見つかりません。孫右衛門堤あたりであきらめてジョギング終了しました。腰をおろして川を眺めながら、ネットで調べるとなんと右岸には柳の渡しの跡は残されてないそうです。対岸の尾崎記念館の横に柳の渡しの案内板があるということでした。対岸には安全に走れる道はないので、(歩道のない場所ではジョギングしない主義です)、車で行ってみることにしました。
後で調べましたが、右岸の柳の渡し跡付近もやはり公園として整備していく計画があるようです。

対岸の尾崎記念館

右岸の柳の渡し跡付近(この辺のはず)

途中寄り道で、離宮院公園に行きました。寒緋桜が寒い季節に咲くときいたので、もしやと思って行きましたが、わかりませんでした。ここは斎王が神宮に赴くときに宿泊したという離宮院の跡地です。町の中にあるにもかかわらず、うす暗い、うっそうとした森があり、別世界のような趣があります。ここから桜の渡しは近く、斎王の一行は、川を渡れないときは離宮院にとどまり、よい日柄を選んで桜の渡しから川を渡り、神宮に赴いたのでしょう。また、一角に官舎神社という神社があります。

離宮院公園内の遺跡

ここは鳥居が白いのが印象的です。


狛犬が豪快で

なんかやさしい!



尾崎咢堂記念館 
というのが伊勢にあります。中に入ったことはありませんが、旧尾崎邸跡に建てられた白いしゃれた洋館です。度会橋の西詰から100メートル程で、宮川の左岸近くに建っています。ここの敷地内に柳の渡しの案内板があります。桜の渡しから数百メートルしか離れていないのですが、桜の渡し(下の渡し)は東海道から分岐した伊勢街道、柳の渡し(上の渡し)は上方からくる伊勢本街道や和歌山、熊野街道につづく渡しとして賑わい、筋向橋で二つの道筋は一つに合流して外宮に向かうというながれがわかりやすく書かれています。あいにく左岸の堤防の上は交通量が多くてしみじみと景色を眺めていることはできません。対岸ののどかな様子がなつかしい。

尾崎記念館にある柳の渡し案内板