2016年3月7日月曜日

其の8 宮川の堤

其の8 宮川の堤について

宮川は延長およそ91㎞におよぶ三重県最長の河川です。

源は日本有数の多雨地帯である大台ケ原山系で、古来から、洪水を繰り返す暴れ川でした。豊臣秀吉や山田奉行所などが治水工事を行い、氾濫の数は減少していきましたが、水に流されない橋がかけられたのは明治になってからです。
戦後、宮川総合開発事業により、1957年に宮川ダム、1966年に三瀬ダムが建設されてからは洪水は激減しましたが、平成16年の台風21号の増水では支流の横輪川が氾濫し、伊勢市内で203棟の床上浸水の被害がでています。このため、同年宮川堤の改修事業が着手され、平成23年に度会橋から上流3キロに渡って(旧柳の渡し付近まで)堤防の改修が終了。平成26年4月より、度会橋から下流に約1キロ、宮川橋付近(旧桜の渡し)までの堤防改修が始まり、現在ほぼ完成しておりますが、今だ工事は続いている状態です。




宮川の治水が難しかった理由には、二つの側面があったそうです。

ひとつは 地形の問題。 宮川の 流路は91キロで、宮川と同じ大台ケ原を水源とする紀ノ川は136km、熊野川は183kmと比較すると、宮川の勾配が急で、川の流れが速くなります。さらに宮川が伊勢平野に出る岩出町の川床の標高は4,5mと平野に出てから急に勾配は緩くなっています。このため、大量の降雨があった場合、急峻な谷間を高速で流れてきた河水は平野に出た途端に流路から溢れ出て、洪水が発生しやすくなります。(農業農村整備情報総合センター,2015)。

もともと宮川の下流は右岸側で、広大なデルタ地帯を形成していたそうです。下の図のように、宮川流域というより、もはや中州に人々が暮らしていたという状況だったと思われます。

                   宮川下流々跡図 (神宮文庫蔵諸古文書による)

もうひとつは 人的な要因です。
宮側右岸は荘園時代から神宮領として神宮の支配する地域でした。江戸時代になると山田奉行所がおかれて治水工事が行われてきましたが、神宮は、宮川の治水は幕府にまかせ、自ら行うということはなかったようです。また、宮川左岸の大半は紀州徳川藩の飛び地でした。紀州藩は高度な水利技術をもっていたということですが、左右岸の支配者が違うために、大がかりな治水工事が行われることはなかったのです。

また洪水の話ではありませんが、伊勢平野の宮川左岸の地域、玉城 五桂、明和町は洪積台地の上にあり、宮川の川床よりも標高が高く、宮川の水を農業に利用することができなかったそうです。外城田川などのいくつかの細い川はあっても日照りが続くと枯れてしまうため、この地域ではたくさんのため池が作られてきました。しかし、農民の水をめぐる苦難の歴史も悲惨なものがあったということです。


戦後、昭和25年に公布された国土開発法に基づき、豊富な宮川の水量を利用した、治水、かんがい、発電を含んだ、宮川総合開発事業がまとめられ、同年宮川ダムが着工されます。この事業が完成するまでに実に30年かかっているのですが、その結果、洪水被害は激減し、伊勢平野は三重県有数の豊かな穀倉地帯となりました。

今見ることのできる、緑豊かな田園風景と美しい宮川の流れは、たくさんの先人達の苦難の末に成し遂げられたものだということを忘れないでいきたいものです。




さて現在進行中の宮川堤の改修工事により、草が茂り、桜の古木が連なっていた以前の宮川堤から、とても明るい近代的な公園に様変わりしています。どちらが良いというものではなく、やがてこの堤防も時を重ね、歴史的なものとなっていくのでしょう。桜は変わらず美しく、江戸時代につくられた突出し堤も保存されているので、素晴らしいと思います。


突出し堤というのは右岸だけに見られます。川の流れに突き出すようにつくられた堤防で、水の流れを変えて、本堤を守ろうとするものらしいです。



松井孫右衛門堤も突出し堤で、浅間堤(1748延享5年)とも呼ばれるようです。孫右衛門社はもとは浅間神社につくられたのでしょうか。今は境内に稲荷神社と掃守社舊蹟という石碑があるだけです。浅間堤は堤改修工事の際に新しい堤防が交差して二分されていますが、全容はよくわかります。
その他の突出し堤は度会橋の下流で、駿河堤(1685貞享2年)、周坊堤(1702元禄15年)、棒堤(1742寛保2年)の3つがあります。それぞれ遊歩道でつながっていて、桜の下に起伏を与え面白い感じになっています。


浅間堤

駿河堤 正面に宮川 本邸は右側



0 件のコメント:

コメントを投稿