2016年2月14日日曜日

其の5 大世古の千手観音 風宮の十三仏石塔 宇治橋供養塔 寿厳院と寂照寺

其の5 大世古の千手観音 風宮の十三仏石塔 宇治橋供養塔 寿厳院と寂照寺

2月7日

    自宅 、、、、、大世古墓地( 大世古の千手観音 福島正頼の墓 ) 、、、、、、  

    寿厳院( 身代わり地蔵 眠り地蔵 経ヶ峰の曼陀羅石 )、、、、、、
    
    寂照寺 (山門 金毘羅堂 観音堂 ) 、、、、、、 

    おかげ横丁 ( ウドちゃんの色紙展、海老丸で昼食 ) 、、、、、、、 

    今北山墓地 ( 宇治橋供養塔 風宮の十三仏石塔 ) 、、、、、、 自宅


今日は自転車で出発します。 おかげ横丁でウドちゃんの色紙展が開催されているそうなので、見に行くことにしました。ついでに、行きは古市を通って寿厳院と寂照寺に、帰りは今北山墓地によって幾つかの市の指定文化財になっている石塔を探してみようと思いました。伊勢に25年暮らしていますが、いずれの場所も初めてです(おかげ横丁以外)。夫は生まれも育ちも伊勢なのに知らないそうです。 内宮方面に向かう前に、先日探してもわからなかった大世古墓地の千手観音をもう一度探しに行くことにしました。今度は知っている人から場所を聞いたので、見つかるはずです。



西側の無縁仏の墓標群の中に立っていました。
30センチほどの小さな石ですが腕が42本ほられているそうです。
年代は不明ですが、時代を超えても安らぎを求める人の心は同じでしょう。



福島正頼(自然石)と息子二人の墓


福島正頼は、福島正則の弟でした。兄の正則は賤ヶ岳の七槍といわれた有名な武将だったそうです。正頼も関ヶ原の戦いで戦功をあげましたが、その後、領地没収、閉門蟄居を命じられ、伊勢山田に移り住んだそうです。ここで2男1女を育て、18年後に亡くなっています。その7年後に、息子二人はなんと喧嘩で命を落とすことになってしまいます。(山田散策より)

大世古の墓地に彼らの墓があります。
若くして亡くなった息子は哀れとしか言えないのですが、正頼はどうだったでしょう。若いころは戦で手柄をたて、その後は家族を伴い、貧しくても伊勢で平和に暮したのだと、私は思いたいです。




寿厳院
1615年開基、小田橋を渡って古市の坂を登り始める所の右手にあり、尾上町バス停のちょうど前に大きな石柱が建っていて寺の入り口とわかります。住宅地のなかにありますが、周囲に森が残されてなかなか良い感じでした。中に入ると、新しい本堂があり、周辺には古い幾つかのお堂が建っています。また大きな宝篋印塔があり、境内の隅には幾つかの古い石碑が倒れて転がっていました。それらの石碑には、文字が刻まれているものもあり、いったいどんな言われのあるものなのか、好奇心はわきますが、知る手だてがないのが残念です。

( 後で検索して俳人三浦樗良の句碑もあったそうです。確認してなかったので、また訪れようと思います )

ここには、身代わり地蔵 眠り地蔵 経ヶ峰の曼陀羅石があるそうです。

身代わり地蔵は光背の刻銘より、1640年の作で、もともと清雲院にあったそうですが、清雲院が衰退移転したのちの大正9年に寿厳院に移されたそうです。1670年に山田の大火があり、清雲院も灰燼に帰し、このとき身代わり地蔵も激しい火勢に包まれたと思われます。損傷の激しいのはそんな経緯によるものかもわかりません。今、身代わり地蔵は、どんな病気も身代わりになってくれるというありがたいお地蔵さんとして信仰を集めています。身代わりになった病気の部分がはげ落ちるのだそうです。
眠り地蔵も同じく清雲院のものであったとされているそうですが、寿厳院に移される前は間の山の参道沿いに建っていたそうです。刻銘はありませんが、山田三方会合記録より室町時代からあったようで、昔から不眠症に霊験あらたかだそうです。
経ヶ峰は、間の山の西にあった標高60メーター程の山で、山頂には12基の曼陀羅石がならんでいたといいます。明治時代に東京の豪商 原六郎に買収されて持ち去られ、唯一残っているのが、ここの曼陀羅石だそうです。( 伊勢山田散策より )


寿厳院の山門 静かな森の中を行く
お顔が見えない身代わり地蔵
全身の修復跡が痛ましい。お顔ものっぺらぼうだそうです。


眠り地蔵 祠がこわれています!


経が峯の曼陀羅石。無縁仏の墓標の中に挟まっていました。表側は見ることができません。



寂照寺
寂照寺は間の山の坂を登りきったところで、麻吉旅館の傍にあります。
1677年、千姫の菩提を弔うために創建され、江戸時代、画僧月僊によって再興されたそうです。
国指定の登録有形文化財として山門、観音堂、金毘羅堂があります。

手入れの行き届いた明るい境内です。
月僊の描いた絵図や経堂、本尊のお岩観音など、いつかは見てみたいものだと思います。

寂照寺 山門


寂照寺 金毘羅堂

金毘羅堂の天井には龍の絵が見えました

寂照寺 観音堂

月僊像

今北山墓地に 市指定有形文化財の石碑を訪ねました

宇治橋供養塔 
1580年の宇治橋竣工の際、宇治橋の傍らに建立されたもの。このとき1500人の僧侶が法華経二万部を修誦したといわれます。

戦国時代の動乱や宇治山田合戦の戦乱によって神宮も荒廃し、100年以上も遷宮は途絶えていました。洪水によりたびたび流失する宇治橋を再建し、遷宮の実現に貢献したのは、慶光院の代々の尼僧たちでした。彼女たちは足利幕府の許しを得て諸国をひろく周り、勧進によって資金を集め、四世慶光院周養のときに、ついに1580年の宇治橋竣工、1585年に両宮の遷宮を成し遂げたということです。内宮の遷宮は実に123年ぶりで、以後は現代にいたるまで、絶えることなく続いているそうです。( 伊勢山田散策より )

このときの宇治橋の竣工は、両宮遷宮を目前に控えた特別なものだったのでしょう。この供養塔は 今北山墓地の慶光院家の墓所の一角に建っています。ただ、慶光院尼僧歴代の墓所は他にあるそうです。

宇治橋供養塔



風宮十三仏石塔
風宮家の墓所に立っています。風宮家初代は 観阿弥上人で、勧進によって風宮橋を建て、1498年の刻銘とともに擬宝珠に名がきざまれています。風宮家も代々、風宮橋を守るため、諸国を勧進してまわったようです。この石碑には 上に逆修ときざまれ、右に為十方旦那、左に風宮妙生上人(四代風宮)、下に建立者と思われ道観と妙経の名があります。おそらくは、五十鈴橋供養に先立って、寄付をしてくれた旦那方、師である妙生上人、そして自らの逆修を
を祈願して建てたものと考えられるそうです。( 伊勢山田散策より )

風宮十三仏石塔




    

2016年2月12日金曜日

其の4 大湊の大仏様

其の4 大湊の大仏様

2月4日

自宅 。。。。。 勢田川沿い堤防 。。。。。。 勢田川防潮水門 。。。。。。 北向き地蔵

。。。。。。 大仏様 (大湊墓地) 。。。。。。 臥龍梅公園 。。。。。。船江庚申さん。。。。。自宅


今日は前にもふれた大湊の大仏様を見に行くことにしました。自宅から往復8キロ弱のところですが、勢田川に沿って水門まで行ってしまったので、たいへんな大回りで12キロ近くになってしまいました。船江の有連橋付近から水門まで、のどかなお散歩&ジョギングコースです。


勢田川は水質汚染が問題になっていますが、伊勢市の下水道普及により水質は急速に改善されてきました。


勢田川防潮水門

水門付近から一色大橋をのぞむ

途中まったく偶然に見つけた北向き地蔵。竹ヶ鼻の23号線沿いにあります。
毎年ひとつ願い事を叶えてくれるそうです。ラッキー!

大湊墓地   墓地の入り口にはいつも6体のお地蔵様がいます。

大湊墓地に大仏様がいます。東と西の端に一体ずつ向き合って座って、墓地を見守っているようです。
大きさは座高170センチ、蓮台を加えると3メーター以上ということです。(山田散策より)

西の阿弥陀如来


東の釈迦如来

参考までに大世古の阿弥陀如来座像(前掲) たしかに良く似ています

臥龍梅公園
臥龍梅公園は、とても小さな梅園です。花はまだですが、早咲き?の数本だけ咲いていました。
道端に、いくつかの庚申堂がありました。 おそらく各町にあるのだと思います。お供えもしてあり、今の時代も大切にされているのがわかります。
庚申さんというのは、結局良く理解できないでいるのですが、 健康や長寿、幸福などを守ってくれる神様なのだろうと思っています。神道や仏教でも取り入れられているけど、本来はどちらでもなく、教義や修行もいらない、まさに庶民の神様なのでしょう。恐ろしい様相の青面金剛は災いを払いのける逞しい神様に見えます。

大湊の庚申堂の青面金剛 6手剣人型というらしい。
月と太陽 邪鬼 鶏 猿 髪をつかまれているのは女性だそうです。
大湊 屋根には猿と桃の実!
神社の庚申堂

臥龍梅公園近くの庚申堂 伊勢市御薗町新開
大正元年建立とありました。芸術的な感じです。

船江の庚申堂 大きな佇まい 宝篋印塔には猿と桃が彫られています。
屋根にも猿がいます。

扁額には道饗社とあります。道祖神でもあるのです。

祠の中の青面金剛 恐ろしいけど綺麗。
やっぱり女性がいる (ショケラ)というらしい。
手前は見ざる聞かざる言わざるの三猿みたいです。


2016年2月7日日曜日

其の3 外宮周辺

其の3 外宮周辺 御師遺構と萬金丹、阿弥陀坐像といろいろ

1月31日 日曜日 自転車で出発

自宅、、、、、御師三日市兵部邸の土塀(市役所駐車場)、、、、、御師上部越中邸跡(地方裁判所)

。。。。。。外宮駐車場に自転車を置いて。。。。。。 大神宮前駅跡地 。。。。小西萬金丹 。。

。。。。。。御師福島みさき大夫邸跡 。。。。。。。烏帽子世古 。。。。。。御師丸岡宗大夫邸

。。。。。。大世古。。。。。御師龍大夫邸跡(大豊和紙工業 伊勢和紙館) 。。。。。。常明寺

。。。。。。神路通り。。。。。。御師東大夫邸 門と蔵 。。。。。蔵deパスタでランチ休憩 。。。。

自転車回収、、、、、、天神が丘墓地 (阿弥陀坐像 荒木田家墓碑 度会家墓碑)、、、、、、、

大世古墓地(阿弥陀坐像) 、、、、、、、大世古の浅間神社、、、、、、自宅


昼前から午後いっぱいで、いろいろまわりました。良い運動になりました。
今日の目的は御師遺構と、天神が岡と大世古墓地の阿弥陀坐像を見に行くことでした。

御師とは
平安時代後期頃から生まれ、江戸時代に最盛期をむかえたそうです。もともと神宮は天皇以外からの私幣禁断(お供えなどの禁止)でしたが、、人々は御師に依頼して神楽を奉献し祈祷を行うようになりました。 初期の御師は神宮の権禰宜で、度会(外宮の権禰宜)、荒木田(内宮の権禰宜)の姓をもつ者が多く、また権禰宜になると五位の位を授かったため、大夫と称したそうです。時代がくだると御師株が売買され、他の神官や商人なども御師となり、江戸時代、宇治に271家、山田に615家の御師がいたといわれています。
禁裏御師に藤波神主、桧垣神主、足利将軍家に藤波神主、織田信長に福井大夫、豊臣秀吉に上部大夫、徳川将軍家に山本大夫、春木大夫が担当していました。また御師は全国に檀家をもち、檀家が伊勢参宮の際は、松阪や小俣のあたりまで送迎し、御師邸に宿泊させ、神楽をあげ、酒や馳走でもてなし、伊勢の両宮参拝や名所旧跡、古市などを案内したそうです。御師は毎年、神宮の御祓大麻を、伊勢暦などの土産とともに全国各地の檀家に配り、お伊勢参りの普及に大きな働きをしたといわれます。
しかし明治4年 1871年、御師制度は政府によって禁止され、御師たちは職を失うことになります。現在、広大な御師邸や関係資料がほとんど残っていないのは、困窮した御師たちが財産の切り売りをしたためであるといいます。また、現在、祈祷や大麻の作成配布等は、神宮が直接行っています。 (お伊勢さんテキストより)

実際には戦争で焼失してしまった御師邸もあるようで、本宅が現存するのは 山田では烏帽子世古にある丸岡宗大夫邸のみだそうです。でもここは、人が住んでいるので、中を拝見することはできません。外から門と塀が見られるだけです。
また伊勢和紙は職を失った御師が始めたそうで、大豊和紙工業株式会社が、旧御師邸跡にあるのも納得がいきます。ここに、伊勢和紙館があるのですが、残念ながら日曜日は閉館のため、またの機会に見学したいと思います。


御師三日市兵部邸の土塀(市役所駐車場)

御師上部越中邸跡 地方裁判所の敷地の一角です


御師丸岡宗大夫邸 

御師東大夫邸 門と蔵
 御師福島みさき大夫邸跡 と 御師龍大夫邸跡 は 案内柱だけなので写真は省略します


伊勢電気鉄道 大神宮前 駅跡地

外宮北御門から数百mの道路沿いに看板が建っています。ここにかつて駅があったそうです。伊勢電気鉄道の前身は明治44年創立、桑名からここ大神宮前まで開通したのが昭和5年、一世を風靡したものの、その後経営に行き詰って参宮急行電鉄に吸収され、昭和17年に江戸橋以南は廃線となったそうです。松阪から小俣あたりまでの旧国道23号線はかつて線路の通っていた敷地だそうです。伊勢では宮川右岸近くの論出交差点から図書館前を通ってNTTにいたる道がそれで、秋葉トンネルや天神丘トンネルは列車が走っていたということになります。
看板の後ろに説明が載っています。参宮急行電鉄は大阪電気鉄道が伊勢を目指して新設した鉄道で、昭和6年に現在の宇治山田駅が完成して大阪伊勢間が開通、伊勢電と競合していた訳です。また当時、参宮線(亀山から鳥羽)も開通しており、伊勢には3つの鉄道があったということになります。
参宮急行電鉄は大阪電気鉄道とともに、のちの近鉄となり、参宮線は国鉄を経てJR参宮線となります。参宮線は戦前は幹線同等に扱われて東京や大阪から直通列車もあったというから驚きです。今の寂れようはどうしたのでしょう。
伊勢電は廃線になりましたが江戸橋以北は、近鉄線として残っています。





小西萬金丹
萬金丹には四つの流れがあったそうですが、現在のこっているのは小西萬金丹と野間製薬の朝熊岳萬金丹の二つのみだそうです。もともとは胃腸薬のようです。
昔の薬舗を残しているのは小西萬金丹だけだそうです。(山田散策より)

どこかで手に入れて、飲んでみたいです。。

小西萬金丹 大きな風格のある建物です

小西萬金丹 店内? 営業中という看板が下げてありましたが、誰もいないので買い難い。



蔵deパスタは、味噌・醤油醸造元の糀屋が営業するパスタ屋さんです。大正時代の元大豆蔵を改装したレトロな雰囲気のレストランで、ランチセットがパスタとサラダとコーヒーで880円と、とてもお得で、おいしいです!
ここで休憩をしたら、次はなんと墓地探検です。

私が伊勢に来て、初めいろいろ驚いたことがありましたが、そのうちの一つは墓地です。墓地と言うと東京近郊の八柱霊園くらいしか知らなかったので、伊勢の墓地を見て驚きました。まず、あまりに身近にあります。当たり前のように町の中にあります。昔は集落のはずれにあったのかもしれませんが、市街地化してしまったのでしょう。それから、各町にあるのではないかと思うくらいあちこちにあります。そうした墓地の中にはとても広いものがあります。丘の斜面一杯に墓石がならび、しかも途方もなく古いものが真新しい墓と混在しています。石器時代からずっと人が住んでいた土地だから、お墓も歴史があるのは当然ですが、苔蒸して埋もれかけた墓碑、様々な石碑、仏像、無縁仏になった墓碑をつみあげたピラミッドなどを見ると、墓地はまさに遺跡と言ってもいいのではないかと思われます。

江戸時代元禄のころ、大湊の山中道喜という人が江戸の名石工に大仏を2体つくらせて大湊の墓地に据えたそうです。そのとき、同時に3体の阿弥陀坐像もつくらせ、天神、走下、船江の墓地に置いたと言われています。天神が岡墓地の北の入り口の祠の中と、大世古の墓地の入り口には、今も、その仏像が座っているそうです。残念ながら船江の墓地にはそれらしきものはありません。 
(山田散策より) (走下の墓地は明治に大世古に移転されたそうです)

天神が岡墓地は天神丘トンネルの手前で、自転車で行けばすぐ近くです。地図で見る限り、天神が岡墓地もかなり広く、道路で南北に分断されています。(例の伊勢電跡の道路です。)
墓地の北側部分の外れの角に行きましたが、仏像らしきものは見つからず、見上げれば墓地は真上の丘の上まで広がっています。頂上付近の西の角に特別に大きな五輪塔がそびえて見えます。たしか地図では、もっと北の部分が広かったので、きっと丘を超えた向こうにも入り口があるだろうと思って、丘を登って墓地敷地内から北の入り口を探すことにしました。頂上に上がると視界に、伊勢市を一望できるすばらしい眺めが飛び込んできました。そして、北にのびる細い通路を見つけ、その通路が下にむかって見えなくなる所の両側に祠がふたつありました。ドキドキしながら、近づいていくと ひとつはお地蔵様、そしてもう一つはあの阿弥陀様に違いありませんでした。こちらの入り口はまっすぐ登ってくる階段になっています。やれやれと上がってくる人々を、やさしく見守り続けてきたのでしょう。

たくさんの墓碑の中、立派な墓碑と五輪塔複数が並んでいる所があり、一つは荒木田氏、一つは度会氏の一族の墓と思われました。

天神が丘墓地の北の入り口はこんな階段でした。

逆光でうまく撮れません。石段を上がったところで、祠の中に阿弥陀さんが座っています。

頂上の真ん中付近に荒木田姓の墓石と五輪塔が並んでいました。

頂上の西の崖の上には、ひときわ大きな五輪塔があります。度会四門橋村正修氏のもの。
他にも度会姓の墓石、五輪塔が並んでいます。


大世古墓地の阿弥陀様。

大世古墓地の阿弥陀坐像 


大世古の浅間神社

自然石に大日如来と刻まれた石がご神体で二つあります。本地垂迹説では浅間大菩薩は大日如来そのものだそうです。この付近の町村では明治の合祀政策の影響で浅間神社はほとんど残っていないそうですが、廃仏毀釈の中、この石碑は取り残されていたと思われ、大正の時代に疫病が流布した際に、お祭りされるようになったということです。(山田散策より)

祠の中の石はよく見えませんが、山田散策の本には写真が載っています。祠はないようでした。その写真をみると、宮川の大日権現の石塔に似ているのです。大世古の石塔には年代1703年と1713年と彫られているそうなので、宮川のものは孫右衛門の時代から100年後とすると1730年位でつくられた時代も近いと思われます。その頃の慣習というか、流行りか、もしくは同じ目的で作られたものなのかもしれない、、、と勝手に推測しながら終わります。

大世古の浅間神社。ご神体の石は祠の中に左右一つずつ。

2016年2月2日火曜日

其の2 宮川堤 中央構造線

其の2 宮川堤 中央構造線

  度会橋側の駐車場。。。。。孫右衛門堤。。。。。。中央構造線看板と平岩露頭。。。。。折り返し

 。。。。。楠大明神。。。。。大日権現社。。。。。。度会橋側の駐車場


いつもの宮川堤のランニングコースです。 
度会橋より上流の右岸は、車の進入禁止の広い道が約3.5キロ続いています。犬の散歩やウォーキングをする人、ジョギングをする人など、けっこう人がいますので、一人でも大丈夫です。広々としたすばらしい景色が堪能できるお勧めの散歩 or ジョギングスポットです。



宮川は、大台ケ原山系を源流として伊勢市の西部から北部に流れ伊勢湾に注ぐ、三重県最長の川です。一級河川の全国水質ランキングで平成3年に初めて第1位となり、その後も常に上位を占めています。しかし、豊富な水量をほこるこの川は江戸時代以前は治水対策が行き届かず、たびたび堤防が決壊し、田畑を流し、人々を苦しめていたということです。
それを見かねた松井孫右衛門という人物は自ら申し出て人柱になった、という伝承があります。(お伊勢さんテキストより)

度会橋から約300m上流のところに、孫右衛門堤があり、祠のなかに孫右衛門の胸像とおもわれる石像が祀られています。






そこからさらに700m程下流に、「この付近を日本最大の断層、中央構造線が通っています」という看板があります。
その後ろの川床には白っぽい岩場があります。看板によるとこれを平岩露頭とよぶそうです。この岩は領家変成帯の上に堆積した高倉層 (??チンプンカンプンですが) のものだそうです。看板によると 中央構造線は外宮や市役所の真下を通っているそうです。

そもそも中央構造線って何でしょう。何回調べても聞いても、どうも立体的なイメージが苦手でピンとこないのですが。形成されたのは約1億年前で日本最大の断層ということです。人工衛星などから写真をとると、四国から紀伊半島の地形が亀裂のように窪んでいることがはっきりとわかるそうです。
大まかに言うと、日本列島が誕生したころ、大陸プレートの下に海洋プレートがもぐりこんでいく二つのプレートの境界で、大陸側と海側では異なるタイプの変性岩がつくられたそうです。(大陸側では、高温低圧型変成をうけて領家変成帯、海側では低温高圧型変成をうけて三波川変成帯を形成) これらは本来離れて存在していましたが、断層のずれの活動により接するようになり、これを中央構造線というそうです。したがって中央構造線より北の地域では領家変成帯、南の地域では三波川変成帯の岩石が見られるそうです。宮川付近では 中央構造線そのものを見ることはできませんが、ここでは領家変成帯の上に堆積した高倉層の岩石(平岩)が見られます。また、二見の夫婦岩は三波川変成帯の岩石だそうです。松阪の粥見では断層活動により変成した岩石マイロナイト(中央構造線が近くを通っていることを示す)、月出では中央構造線そのものの露頭を見ることができるそうです。
看板には活断層ではないと書いてありましたが、Wikipedia では 一部活断層とありました。
神宮って安定した土地にあるのかと思っていました。



宮川には小さな支流がいくつかあり、それぞれに水門がつけられています。数年前の上流の豪雨で宮川の水量が増した時、水が支流に逆流して、その支流流域だけが浸水したことがありました。
そんな水門のどれかをめやすにして 適当なところで折り返し、今度は度会橋の下流に向かって走って行きます。

度会橋から、ほんの200m足らずの下流側に、堤防の上に楠大明神、川側の堤防の下に小さな大日権現社があります。
 
楠大明神の楠はもとは町の境界に植えられていたので境楠とか、さかさまに植えたように見えるので、逆楠(さかくす)とか呼ばれているそうです。でも、どうして大明神になったのかは、わかりませんでした。


ここでほぼ5キロ走ったのでランニングは終了しました。少し戻って堤防下に見えた大日権現社を見に行きました。

大日権現社には看板があって説明が書いてあるようなのですが、薄くなって読めません。他の人のブログから、「孫右衛門が人柱になって100年ほど、宮川は絶えず増水の危険にさらされていました。彦兵衛という町人が祈願を続けたところ天照大神が夢に現れて大日如来を権化としてお祭りせよというお告げがあり、ここに大日権化社が建てられました。」ということが書いてあるそうです。
そうすると江戸時代から、ここあるということになるのでしょうか。40センチくらいの石に大日権現と彫られています。見ただけでは分かりにくかったのですが、触ると良く文字がわかります。石塔は地面に置かれていて、その後ろに台座の様な窪みのある石が見えます。
ここからは勝手な推測です。この石碑は壊れているのかもしれません。ここは堤防の下なので、江戸時代からあるのなら、増水のときには何度も水に浸かったでしょう。よく流されなかったものだと感心してしまいます。それから、大世古の浅間神社の御神体の大日如来の石に似ていると思いました。何の関係もないのでしょうが、とても不思議な感じがします。
この不思議が、いつか納得できる日がくるといいなと思いつつ、本日は終わります。




2016年1月28日木曜日

2016 お伊勢さん検定をうけてみよう。 其の1 常明寺

1年間も停滞していたけれど、今年のプチ目標を見つけました。お伊勢さん検定。サミットにも影響されて、私も伊勢をきちんと紹介できる知識がほしいと思います。

週末の楽しみとして、伊勢の名所、史跡 文化財などを こつこつ回って訪ねて行きます。

参考本は、「検定お伊勢さん 公式デキストブック」 と、「伊勢山田散策 ふるさと再発見」 の2冊で、あとは、興味のおもむくままに。

其の1 2016年1月24日

 午前の部  自宅スタート。。。。。勢田川 ( 河崎まちなみ 川の駅 ) 。。。。。旧常明寺跡
          
       。。。。。。御幸道路 ( 葉山太夫邸門 福島みさき太夫邸門 )。。。。。。
     
        神宮文庫 (外観のみ)。。。。。隠ヶ岡遺跡。。。。。。自宅  
                                              

 午後の部 外宮。。。。。神路通り。。。。。。月夜見宮。。。。。。常明寺。。。。。外宮


午前の部は約7キロ ジョギングしながらで1時間 午後の部は1.5キロ 歩いて30分くらい。
ちょっと気をつけただけで、家の近くにこんなに見るべきものがあるとは、驚きです。ほんとうはまだまだあるのですが、少しずつ。

今日のメインテーマは常明寺でした。
伊勢山田散策の本の一番初めに取り上げられている、「日蓮自彫りの石題目」 に深く関係しているところです。

そこは私の不思議スポットの一つでもありました。いつものジョギングコースの道をはさんだ反対側にあり、、日蓮聖人大誓願之地と書かれた柱が立てられています。お寺の庭のようにきれいなのですが、お堂はなく、誓いの井戸なるものがあります。伊勢神宮と日蓮さん? ずっと違和感を感じていましたが、本を読んで、ああ、あれが旧常明寺跡なのだと納得がいきました。

旧常明寺は平安時代に建立され、明治維新後の廃仏毀釈によって廃寺となるまで、門前筋には多くの店が立ち並び、たいそう栄えていた寺だったようです。1252年、日蓮さんがここに参籠して境内の閼伽井で身を清め三大誓願をたて両宮へ百日詣でをしたといいます。また、このとき日蓮さん自ら石に題目「南無妙法蓮華経」を刻んだとされます。現在の常明寺は、明治27年に日蓮宗の信者たちによって別の場所に再建されたもので、石題目も現常明寺に安置されているそうです。
                                                (伊勢山田散策より)
神宮と仏教の関係
日本古来の神祇思想は仏教の伝来によって大きな影響をうけます。奈良時代には神仏習合の傾向が高まりますが、伊勢神宮ではこれを嫌い仏教にたいして忌み言葉なども使われていました。しかし平安中期には本地垂迹説が現れ、天照大神の本地仏を大日如来とする説も成立し、平安末期から鎌倉時代になると神宮でも造寺や納経供養などが行われるようになります。江戸時代には勧進聖や山伏なども活躍し寺院の創建が相次ぎ、数百の寺院が存在したそうです。明治の神仏分離令と廃仏毀釈策によって多くは廃寺に追い込まれ、十五ヵ寺までに減少しましたが、その後の再興もあり、現在は百ヵ寺以上あるということです。神仏分離令により、神宮への参道にあった寺は撤去され、宮川から五十鈴川の間の地域では仏式葬儀が禁止されたそうです。
                                    (お伊勢さん公式テキストブックより)

常明寺の歴史はまさに、伊勢における仏教寺院の歴史そのものです。神宮でも神仏習合がすすんでいた平安時代の創建で、外宮の神官である度会氏と深くかかわっていたそうです。日蓮さんの前にも1186年、東大寺の衆徒700名が神宮参拝をし、常明寺を訪れているそうです。若き日の日蓮さんがここにきて百日詣でをしたというのも、あり得ないことでもないように思えます。江戸時代には門前町が栄え、茶店やら遊郭が立ち並び賑わっていたといいますが、明治維新後は、取りつぶされて廃寺になってしまいます。しかし間もなく信者らによって別の地に再建されるのです。
今、旧常明寺は、敷地の一部と井戸が残され、三大誓願を伝える石碑や塔が立っているだけで、かつての面影はありません。

現在の常明寺は月夜見さんの近くにあります。境内に松尾芭蕉の句碑があるそうなので、思い切って敷地に入らせていただきましたが、よそのお宅のお庭にはいってしまったような感じで、句碑の写真を撮らせてもらってお参りだけして、そうそうに出てきました。三大誓願はお寺の塀の壁に掲げてあります。 
 
 我れ日本の柱とならむ 
 我れ日本の眼目とならむ 
 我れ日本の大船とならむ 
    等とちかいし 
    願やぶるべからず 

この誓願は好きです。希望と力強さを感じます。


                                            
                                                  
 
旧常明寺跡

旧常明寺跡 誓いの井戸


旧常明寺跡

葉山太夫邸門

福島みさき太夫邸門 (神宮文庫門)
神宮文庫

隠ヶ岡遺跡(弥生時代後期)

神路通り  月夜見宮と外宮を結ぶ道。
月夜見の神様が外宮に通う道で、中央は神様が通るから、人は端を歩かなくてはいけない。
神様はお宮の石垣の石を白馬に変えて乗って行くそうです。

現在の常明寺門


2014年10月14日火曜日

イギリスでシニア語学留学!!  Part Ⅰ

 ずっと前から、英語をしゃべれたら、どんなに素敵なことだろうかと憧れていました。いつかはマスターしたいと思いつつ日々の生活に忙殺され、気づけば、もう、「いつか」なんてない年齢になっていました。子供たちも成長して、仕事に専念できる時期にやっとなったというのに、やはり私は何か仕事以外の事で毎日が忙しい。
 前置きはさておき、そういう訳で、1年以上も前からAEONに通っているのですが、やはり言葉は言葉、ツールなんだから、実際に使わないと身につかないと実感してしまいました。でも、思いつきではなくて、留学は何年も前から考えていました。仕事があるから行けないのは当たり前なのですが、終わってからでは遅すぎる。これは私の生き方なんだからと、決断しました。それが、たったの1週間の留学です。
 56歳という年齢なので、若い人達と交じって過ごすのは余計な気を使うかもしれないと考えて、シニアコースを探しました。シニアクラスがあって、1週間という短期でもよいという条件で見つけたのは、イギリスのボーンマスにあるアングロコンチネンタルというスクールでした。旅行会社はJTBガイアです(何分にも初めてなので、斡旋会社がないと心配です)。それから、ホームステイにするか、B&Bにするか大問題でしたが、ホストファミリーは何かの時に味方になってくれるよ、という息子の助言でホームステイにしました。結果的にはホームステイだったからこそ、英語漬けになれました。学校では日本人がたくさんいて、日本語をしゃべってました。

下記の予定です。

 9月6成田発 同日ヒースロー着      9月14日ヒースロー発  15日成田着
 授業は 9月8日(月)から12日(金) 午前中のみ 
 水曜日の午後は半日遠足   土曜日は1日遠足
 木曜日の夜は教師達と食事会
 ホームステイ  
 
 
 私の行動記録
9月5日(金) 仕事。とにかく夕方7時までに伊勢を出発できれば、夜12時までには津田沼の実家に行けるので、かなり必死に仕事をしました。準備や何やらで寝不足、おまけに前日の4日に人間ドッグでバリウム飲んだせいでお腹の調子も悪い。体調は絶不調で夕飯のお弁当を買う気力もなく、頭痛と空腹を抱えて11時ころに実家に到着。 食べたら元気少し回復しましたが、緊張とか忘れるくらいに疲労していました。 夫と母に感謝。 

9月6日(土) 朝早く出発。昨日とは、うって変って気分爽快。京成で津田沼から成田空港へ。飛行機の座席指定をしておかなかったのが心配でしたが、幸い通路側がとれました。お煎餅とチョコ(明治のストロベリーチョコ これが一番好きなので)のお土産を買い、せっかくなのでカードのラウンジにも寄ってタダのコーヒー飲んで、いざ出発。ここまで来ると、居直るので、緊張もしません。機内で、はじめてゆっくりパンフレットを読んで、ヒースロー空港での段取りを確認できました。 
14時間ほどでヒースローに到着。 入国カードの書き方から入国審査、迎えの待ち合わせまで、パンフレットは本当に事細かに書いてあるので、ほとんどトラブルなく通過できました。車で1時間と少しで、ロンドンからボーンマスのホームステイ先まで、あっと言う間でした。
ボーンマスはとても美しい街で驚きました。広い道路の両脇に古い大きな街路樹がならび、豊かな緑に囲まれた赤いレンガの建物が点在しています。木がとても大きいので、歩道はまるで森の中の道のように、しっとりとしています。住宅地にはいると、広い敷地に花で窓を飾ったかわいい家が立ち並んでいました。ちょうど、マレーシアで行ったニザールさんの家のまわりと雰囲気がにていました。マレーシアはイギリスの植民地だったので、イギリス文化の影響が強いのでしょう。
ファミリーは奥さん54歳と娘さん23歳の二人暮らしでしたが、他に留学生が3人もいてびっくりしました。クレムは近くのボーンマス大学の留学生でスリランカから来たそうですが、英語堪能。あとの二人は語学留学でしたが、トルコから来た彼は半年、タイ人のジェミーは2年目ということで、やはりちゃんとしゃべっています。私は、なんとか自分のことは言えるにしても、他の人の言うことが聞き取れないので、会話ができません。悲しいかな、にこにこしているしか、ありません。でも、まあ初日はいいだろう!って自分を慰め。 部屋はすごく素敵で、ホームステイにもランクがあるそうで、ウォークinシャワーとトイレ付の個室でした。



9月7日 時差のせいで目覚めが早くて、ちょうどよい感じです。 窓から玄関先にとめてある車をみていると、何と車の下をリスが走って行くのです。今日はあれこれ考えていたけれど、奥さんと娘さんがボーンマスを案内してくださるというので、連れて行ってもらうことにしました。話をきいていると、どうも二人はキリマンジャロ登山を半年後に計画していて、ダイエット中とのこと。奥さんは今90kgで、たしかにかなり大柄、あと半年で20kg減らすつもりだそうです。それでウォーキングが日課らしい。。。チョコを買ってきて悪かったなあと思い。。。よく歩きに来るという川に沿った自然豊かな公園を、二人とゆっくりと歩いていきました。それから車に乗ってタウンセンターへ。そこにも大きな芝生の公園があり、ここの公園とさっきの公園はつながっているのよ、と奥さんは言っていました。芝生広場に舞台があって本物のオーケストラが演奏していました。ベンチにすわったり、たくさんの人達が聞いています。そこから少し進むと木の植え込みが増えてきて、鳩にまざってリス達が、落花生の餌を人からもらっています! 知らない人が私にも落花生をくれるので、差し出すとリスは用心深げに近づいてきて餌を手で掴んでそそっと帰って行きます。いつか岐阜の金華山に行きたいと思っていたけど、まさかここで、リスに餌を手渡しできるなんて! でも、私、たしかマレーシアでも知らない人から人参もらって猿にあげた気がします。こういうのって国際マナー?なんでしょうか。 それから道路をくぐって海岸へ。ボーンマスはイギリスの保養地のようなところで、ビーチにはたくさんの観光客がいて、飲食店が並んでいます。そのうちの1件でコーヒー、彼女らはダイエット中なのに、アイスクリームを食べ、何か話しているのですが、今ひとつ理解できません。成り行きにまかすと、それから、タウンセンターに戻って、クレムとバス停で落合ました。クレムは大学の友達のキキを連れていました。どういう話になっていたのか、ホストファミリーの二人はここで、グッバイと言って帰って行き、私は今度はクレムとキキと歩くことになりました。キキはナイジェリアから来たそうで、語学学校の留学生だそうです。まもなく帰国するので、家族のお土産を買いたいということで、クレムが案内しているらしいのです。でも、キキはどうも変わっている様子で、愛想が全くなくて、言葉がぶっきらぼうな感じです。(あくまで感じです。英語でぶっきらぼうって何って自分でもわかりません) とにかく安い物をさがしているようで、何軒かまわって羽飾りのついた鉛筆を買っていました。それから、絵が好きというので、ギャラリーを幾つか見て、映画館でアニメ映画のポスターにくぎ付けになって、そしてお腹がすいて最後はマックに入って休憩となりました。クレムは、キキの友達というより、キキが亡くなった友人の従妹なので面倒をみているという感じでした。キキは髪をびっしりと細かい三編で編んでいて、それは素敵でしたが、美容院で丸1日かかると聞いて、私もクレムもびっくりしてしまいました。キキをバス停まで送って私たちも別のバスで家に戻りました。一日で随分クレムと親しくなれたようです。とても親切にバスのウイークリーパスの買い方や、バスの降り方など教えてくれました。もちろんキキとも親しくなれました。彼女は素直で微笑ましいところがあります。
学校は明日からだというのに、この2日間の密度の濃いこと。こんなにたくさんの人達と出会ってしゃべって、もう満足してしまいました。








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