2013年2月21日木曜日

京路山と八禰宜山

京路山    414.8 m
八禰宜山  420 m

伊勢神宮から高麗広を通り,剣峠を越えて五ヶ所浦にいく自動車道があります.サニーロードができて,この道を通る車はほとんどいなくなったようです.11日にmyラクティスで通りましたが,出会ったのはクロネコヤマトのトラックと,剣峠の見物をしていたプリウスのたった2台でした.特に内宮から剣峠に向う道は細くてカーブのきつい大変な山道です.昔はバスが通っていたというのが信じられません.剣峠には小さな駐車場があって,モニュメントが建っています.五ヶ所方面を展望することもできます.


myラクティス


剣峠からの展望




この剣峠から五ヶ所方面に向って,左に京路山,右に八禰宜山の登山道が伸びています.剣峠で標高330mありますので,京路山は1時間たらず,八禰宜山は20分程で頂上に着くことができます.いずれの山も自動車道から尾根に上がるまでは,登りがきついのですが,尾根道になると快適に歩く事ができます.考えてみれば,峠道が二つに分けた山ですが,もとは尾根続きの山です.いずれも椿の大木の森で,よく似た雰囲気です.始めに京路山の山頂をめざして,歩きました.神宮林の境界石が尾根に点在しています.いくつかの岩場のピークを越えて行くところは,鷲嶺を思い出します.真冬なのに,常緑樹の葉は緑が濃く,強い風が吹いていたのですが,風音ばかりで,冷たい風にあたることはありませんでした。木々の葉が風を防いでいるようです.京路山の頂上は小さな広場になっていて,すばらしい展望でした.志摩のスペイン村から英虞湾,五ヶ所浦まで,180度以上を見渡すことができます....と,ここで,猟犬の吠える声が山の中腹あたりから聞こえたかと思うと銃声が2発響きました.神宮林との境界であっても狩猟をしているようです.狩猟期間は3月15日までです.一生懸命生きている動物を殺すのは可哀相な感じがします.害獣の駆除とか,生息数の調節の必要性とか,もちろん理解できますが,狩猟を趣味や楽しみとしている方もいらっしゃるでしょう.私だって牛や豚や魚を食べて生きているけれど,止めてほしいと思わずにいられません.

八禰宜山は短い分だけ,傾斜はきつかったかも知れません.頂上の展望はやはり,すばらしいものです.こちらは主に五ヶ所浦方面を見渡すことができます.頂上の少し下にベンチがあって,ここにすわると,ベンチがほんのりと暖かく感じられました.お日様にあたためられたのでしょう.やれやれと,いつまでも座っていたいような感じがしました.でも耳をすましても,鳥の声は聞こえませんでした.森が凍っている.猟のせいなのかなあ.


京路山口 南勢テクテク会のプレートがあって安心です.

椿の森
京路山 広場もあります ちょっとこわい



八禰宜山


帰りは,あの狭い峠道を戻るのは気が進まず,五ヶ所まで降りていって(こちら側は普通のよい道路です),サニーロードで伊勢に戻りました.蛇足ですが,五ヶ所側のサニーロードの起点にはサークルKがあって便利です.



2013年2月16日土曜日

長谷の城山 291m 2月10日

近長谷寺の十一面観音立像 と 普賢寺の普賢菩薩坐像

伊勢市とその西方の山,という本を見ながら,幾つかの伊勢の山をめぐっていると,だんだん全ての山を制覇したいという気持ちになってきました.連休の初日,大変な風邪で体調がやっと戻りかけてきたところでしたが,あまりの好天気についつい近場と思い出かけてしまいました.たまたま偶然にも両仏像の解説を聞くという機会に恵まれて,思わぬ仏像鑑賞の小旅行となりました.

長谷の集落までは,夫の運転で行きました.どの道をどう通ったのかは,恥ずかしながら記憶にありません.途中おきん茶屋の角を曲がったということは知っています.
長谷の集落に着くと観音の里と書いた大きな看板があります.この向かいが公民館になっていて,駐車場に車を置く事ができます.もう少し先までいくと,お寺の駐車場があるようですが,昔からの参道を登るなら,ここに車を置いたほうがよいと思われます.看板の裏の道を登っていくとすぐに,参道を示す石碑が建っていて,ここから右に曲がって登っていきます.コンクリートで舗装してある道ですが,なかなかの急な坂道です.寺まで,0.8キロ,途中に庚申塚や山の神,地蔵塚などの案内板があり,あと00mと書いてあるのを見て励まされながら,やっと境内に到着します.

このお寺は丹生山近長谷寺といい,885年に建立されたということです.本尊の十一面観音像は,6.6mという大きな仏像で,奈良の長谷寺,鎌倉の長谷寺とともに日本三観音のひとつとして有名なそうです.日本三観音とは三体の仏像を一本の樟から造ったものと伝えられているそうです.ちなみに奈良や鎌倉は「はせでら」と読みますがここは「ちょうこくじ」と読みます.近とは,伊勢神宮の近くという意味で,後の時代に改称されたそうです.また,本堂は洪水のため喪失され,元禄時代の再建で,創建当時のものはご本尊のみということです.
境内には本堂と庫裏が建っています.2月18日は例大祭で終日開帳されるそうですが,通常は拝観料200円かかります.しかも係りのおばさん2人は,地元の方で日曜日しかいらっしゃらないそうですから,平日に行っても,拝観することはできないようです!!私たちが拝観をお願いすると,パンフレットをわたしてくれて,堂内にはいる木戸をあけてくれました.ちょうど来週がその例大祭で,その準備のために,若い和尚さんがいらして仏具を磨いていました.私たちがはいると,手をとめてお寺の歴史や仏像などの説明をして下さいました.18日には,12時と3時に餅撒きがあるとか,護摩を焚いて行者の方がみえるとか.そして,なんとなんと,ご本尊を安置してある部屋の裏の扉を開けて,厨子の中,まさに観音様の足元に入れていただき,大きな観音様を下から見上げて拝ませて戴きました.


観音様は平安時代のもので,長い年月のため,黒ずんだ色をしていますが,近くで見ると木目が見られます.目は半開きで白くくっきりと塗られていて,また装飾品や錫杖,蓮華や水瓶などは,にぶく金色に輝き,観音様の大きさもあるのですが,全体に男性的で力強い印象がします.多分心にやましい事があると,この観音様の前では 空恐ろしくなるのではないでしょうか.

近長谷寺のある山は 長谷の城山と呼ばれ,南北朝時代には城があったそうです.頂上へは 寺の裏手から約10分ほど登ると着きます.道は整備されているのですが,頂上の広場は荒れ放題で,ベンチやテーブル,吸殻入れまであるのに,伸びた草や枯れススキに埋もれている状態でした.お寺の和尚さんもここ10年位は頂上へは行っていないと,おっしゃっていました.


和尚さんが教えてくださったので,車で数分のところにある普賢寺まで行ってみる事にしました.ご本尊の普賢菩薩坐像は旧国宝で現在は国指定重要文化財になっています.前もって連絡しておかなければ通常は拝観はできないようなのですが,たまたま別のお客様がいて,先代のご住職の奥様と思しき方が,快く招き入れてくださいました.本当にありがとうございました.また,このお寺にもいわゆる長谷型といわれる十一面観音像もあります.
ご本尊の普賢菩薩坐像は平安初期の特徴を備えると言う事ですが,年代等は不詳のようです.平安時代からこの地区でも多くの密教系の寺院があったそうですが,織田信長の焼き討ちにあってほとんどが焼失,この仏像のみが,民家にあって難を逃れ残ったということでした.この普賢菩薩坐像の特徴は姿の美しさにあると思います.装飾性に富んだ髪型と流れるような垂髪,ふくよかなで穏やかな表情,肉付きのよい肩とひきしまった胴体,リアリティのある存在感.印象はまさに優しい慈愛に満ちたという表現がふさわしい御仏像でした.近長谷寺の十一面観音像とは随分異なるように思います.やはり,普賢菩薩像の方が,後の時代につくられたものなのでしょうか.

 

帰りは更に足を伸ばして,てんけい公園に寄ってみました.新しい公園なのだと思います.広い池と芝の広場があり,凧揚げの家族やウォーキングを楽しむご夫婦など,なかなか良い公園でした.多気町もまだまだ,いろいろ行ってみたい所があります.少しずつまわりたいと思います.

2013年2月13日水曜日

国束山 413.8m  1月27日

国束山へは,アスピア玉城の横の道を,伊勢自動車道の方向へどんどん行きます.高架をくぐって池の横を通り過ぎて,道はしだいに細くなり,うっそうとした林の中を通りぬけ,まもなく国束山の登り口の駐車場に着きます.弘法温泉の名の由来となった弘法石が祀ってあります.木の覆いかぶさる薄暗い駐車場はあまりよい雰囲気ではありません.国束山の頂上付近には,国束寺という寺の跡が残っているそうです.国束寺の開祖は聖徳太子と伝えられ,平安時代から室町時代まで,密教の修行の寺として栄えたそうですが,織田信長の伊勢攻めの際に焼かれ,後に,江戸時代に一度再興されますが,次第に衰退し,昭和28年に麓の平生の地に移転されたそうです.かつてこの道は参道だったのでしょう.登り口は広い舗装された道路でまっすぐに登っていきます.

伊勢はすごいなあと思います.歴史的な人物の関わった話があちこちにたくさんあるのですから.

登り始めてすぐ,左に分岐する山道があります.こちらが,旧道コースにあたるようです.まっすぐ行くと,鳴子山に寄ってから行く百瀬川コースです.今日は,初めてなので,幾分近いと思われる旧道コースをとりました.山道は始めは急でしたが,「これより10町」とかかれたお地蔵様のある角まで来ると,なだらかになってきました.さらに岩屋窟に通じると思われる分岐を過ぎると,空気が冷たく感じられてきました.昼なのに霜柱の氷が道のあちこちに溶けずに残っていて,踏むとぱりぱりとした感触が伝わってきます.従是西南禁殺生とかかれた石が埋もれかかってあります.道は次第にまっすぐに広くなって,何かの礎石のようなものが,両側に並び,程なく昔の境内と思われる広場に到着しました.約40分の行程です.境内は木が切られて明るい雰囲気でした.古い石灯篭や小さな祠があり,今も新しい絵馬をかけられるようになっていました.建物の跡ははっきりとわかりますが,瓦礫が散乱してそこに雑草が茂っているという感じです.建物は朽ちてしまった訳ではなく,大阪の四天王寺や麓の新しい境内に移築されたそうです.頂上へは,この大きな建物の跡を踏み越えて奥へと登っていきます.八幡社,白山社,夜奈塚などの碑が立っています.頂上まで約5分程でした.展望はほとんどありません.


境内に続く古い参道
旧境内

旧境内


国束山は不思議な所です.旧境内に,廃寺の寂しさはなくて,明るい休憩所のようです.
例えば,梅香寺には 古いくずれかけた墓碑なども残っていたのですが,ここには,そのようなものは見当たりません.きちんと移転されたのでしょう.そしてここに建っていた建物も新しい境内に移築されているそうなのです.ここには何も残されていない,そんな印象の所でした.

2013年1月7日月曜日

大晦日の伊勢神宮お礼参り 2013元旦は朝熊山


大晦日は夜9時半頃から内宮に向かい,お礼参りに行きました.10時から交通規制が始まります.その前に,いつもの裏道を通って五十鈴公園に車を置こうとしたのですが,御側橋がなんと通行証がないと通れず,ガードマンに止められてしまいました.方向転換せざるを得ず,河川敷きにおりて車の向きを変えようとした所,そこが関係者用の駐車場でがらがらだったため,そのまま車を置いていくことにしました.まだ年明けには2時間程もありますが,おはらい町は,さすがに大勢の参拝客で賑わっていました.宇治橋を渡ると大きなかがり火が目を引きます.どんど焼きと言うそうです.火の粉が高く舞い上がり頭の上に落ちてきます.人々が丸く囲んで暖まっています.内宮の境内にはいると空気は冷たく凍えてしまう程ですが,小さなどんど焼きの火があちこちに焚かれているので,それほど寒いと思わずにすみました.




毎年の初詣は本殿の前の石段で長い事並んでいなくてはなりませんが,立ち止まることなく石段を上がり,無事に参拝する事ができました.

今年1年間,ありがとうございました.来年もどうか,皆,健康でつつがなく暮らせますように.

お守りも並ばずにすんなりと買う事ができました.混雑の嫌いな方には大晦日は,お勧めかもしれません.そして,いつもの甘酒授与もはじまっていて,暖かい甘酒を頂いて,ほっと一息つくことができます.帰りはおはらい町をぶらぶらと歩き,お土産に虎屋のういろうと赤福を買って駐車場に戻りました.


さて,元旦は天気も良くて,暖かい日でした.
初日の出を拝むのは 早起きしなくてはなりません.今日はゆっくり昼前から 朝熊山に登ってみることになりました.去年は あまり山に登りませんでした.今年は朝熊山をはじめとして,たくさんの伊勢の山に登ってみたいと思っています.朝熊山は最も一般的な朝熊岳道から,登りました.暖かいと言っても山頂付近になると,道の端に霜柱の氷が光っていました.岩にツララのように清水が凍っている所もありました.
八大竜王神社からは期待通りの絶景でした.日々感謝して,今年も頑張りましょう.


2012年12月1日土曜日

女鬼峠とイヌナシ

久しぶりになりました.
どこにも行ってない訳ではありませんが,なかなか余裕がなくてじっくり書けませんでした.

11月18日の日曜日,雨だと信じて寝坊をしていたら,出かけるのが遅くなってしまいました.雨はあがっていて,もう降る様子はありません.せっかくの日曜日なので,近場で探検できるところに行って見る事にしました.

女鬼峠は熊野古道の伊勢路の最初の峠です.熊野古道伊勢路は玉城町の田丸で伊勢街道から分岐して熊野に向かう道です.この伊勢路は,ツヅラト峠から南には数々の有名な峠道が続いていますが,その手前に,この女鬼峠と三瀬坂峠があります.世界遺産といっても,一体どこからなのでしょう.この二つの峠には,紀伊山地の深い山や,熊野灘を遥かに望む展望も無いので,遠くから訪ねて来る人には物足りない所かもしれませんが,ぜひ機会があれば立ち寄ってみてほしい所です.何で宣伝しているのか・・・



さて,私が女鬼峠に行きたかったのには理由があります.女鬼峠への道は栃ヶ池の畔から入って行きますが,この池が大変に風光明媚なのです.この池の近くに五桂池ふるさと村というリクレーション施設があります.ふるさと村は子供たちと一緒によく遊びに来た所ですが,栃ヶ池の横を車で通るたびに密かに憧れていたのです.でも,車を止めてぶらぶらと散策するには付近は寂しすぎて,変質者と思われても仕方ないような所なのです.女鬼峠に行くということで,この池の辺りを歩けるのはとても嬉しいことです.

ガイドブックをみると田丸駅から歩いて女鬼峠を通過,栃原駅まで18キロのコースが載っていますが,そんなに歩いている時間もありません.伊勢方面から自動車で五桂に向う途中,栃ヶ池にさしかかるとすぐ左手に女鬼峠の道路標識があるので,そこを左折します.カーブを過ぎると行き止まりになっているので,ここに車を置くことができます.女鬼峠へは更に左に歩道が続いています.はじめは竹薮の中,伊勢自動車道のガード下をくぐりぬけると,少しずつ登り坂になって,眼下に一面の柿畑が広がる見晴らしのよいところを通ります.柿畑の端にはいろいろな柑橘類の木が植えられていて,それぞれが黄色の実をつけています.この辺りは柿やみかんの栽培がさかんなのです.

やがて案内板があって,本格的な山道にはいっていきます.森の中を緩やかに登りますが,雨あがりの空気は冷たくさわやかで,快適そのものです.峠といってもわずか標高130m程で,あっという間に到着していまいます.古い看板があって 的山や国束山にも繋がっているようでした.峠は整備されているとは言い難く,茶屋跡は枯れ木と芝が山積みになって立ち止まるスペースもありません.この直後に切り通しといわれる,両側を垂直に削った崖に挟まれた細い道を通り抜けると,観音堂がある小さな広場に出ます.お堂の中と外に2体,如意輪観音像が安置されています.驚いたことに,おにぎり程の平たい石の真ん中に穴をあけて針金を通したものをお供えしてありました.並んで南無阿弥陀仏と彫った石碑があり,梅香寺寅書とありました.あの連隋山の梅香寺でしょう.代々尼さんなのでしょうか.ここの付近にも多くの社寺があるのに,梅香寺は遠くです.大きなお寺だったのでしょうか.




切り通し

観音堂

石のお供え


この広場からわきに展望台への登り道があるので,行ってみました.この日,唯一息がきれた所でした.南の山肌から眺める形で,柳原の集落と茶畑,遠くには獅子が岳などの度会の山々がかすんで見えます.

ここから 柳原の集落へ下山する道は広くてよく整備された道でした.柳原は茶畑が多く,人家も点在して明るいのどかな雰囲気です.山間の多気とはかなり様子が違います.
さて,ここまでで,わずか1時間です.180度方向転換して,車まで戻ることにしました.


車まで戻って,更に曲がり角にあったお地蔵様を見に行こうとして歩いていった時,じめじめした沼のほとりに背の高い木が1本生えていていました.案内の看板が立っていて,説明によるとイヌナシという木で,珍しい木のようです.小さな梨にそっくりの,たくさんの実がなっていました.よくわかりませんが,実がかわいいので 写真にとりました.家に帰ってネットで調べたら,イヌナシの木は絶滅危惧種で,日本では愛知と三重のみに自生していて450本しかないというので,驚きです.生きた化石とも,また梨の原型ともいわれるそうですが,実はまずくて鳥も食べないそうです.試食しないでよかったと思います.




さて,女鬼峠の帰りには,ぜひ五桂池ふるさと村に寄りましょう.おばあちゃんの店で,新鮮な野菜が驚きの安さで売っています.動物園も今はどうなっているのかわかりませんが,子供たちと来た頃は手頃な広さで,しかもいろいろな動物達と触れ合える,とてもよい所でした.大きな人工の芝滑りの坂と驚異的に小さい観覧車があって,観覧車では一度乗ると,空いているのでもう1周行っていいよと,係りのおじさんがなかなか降ろしてくれなかったという,楽しい思い出があります.小さい子供がいたら,きっと楽しめると思います.また宣伝してしまいましたが・・・

2012年5月5日土曜日

五輪堂~羽をもつお地蔵様と八大龍神雨乞瀧~

度会町川口というところに,神宮のお萱場である五里山があります.今日は,五里山(別名を神ヶ岳というそうです)の登山口を確認するのが目的で,お萱場の麓の林道をおぐら橋まで車で行ってみることにしました.先日も息子に付き合ってもらって来たのですが,あまりの山の深さと林道の細さに心細くなって途中で引き返してしまったのです.

伊勢から県道22号線を一之瀬川に沿って走ると五里山の看板があります.ここを左に入ると正面にお萱場が見え,程なく林道の入り口になります.林道入り口の手前に 五輪堂500m← という看板があります.前から気になっていたので,ほんの寄り道のつもりで,まずそちらにむかいました.
五輪堂はお萱場に面した山を少し登ったところにあり,駐車場もありました.風情のある立派な石段の向こうにお堂が立っているのが見えます.案内板によると600年以上も昔に建立され,かつては7つの伽藍と鐘があったそうですが,今はお堂がたった一つ残っているだけです.とは言ってもお堂の軒下には,小さな椅子が並んで積まれ,敷地内には雨戸が閉められていましたが事務所のような建物もあって,地元の人々が今も信仰している様子が感じられました.






さて,お堂の横に少し高い場所があって,小さな石碑や墓碑,五輪塔が寄り集まっているところがあります.そこにやはり小さな祠があって中にお地蔵様が安置されていたのですが,そのお地蔵様には羽がありました!! しかも良く見ると何かの動物の上に立っていらっしゃいます.これはお地蔵様ではないのでしょうか?.ネットで調べてもよくわかりませんでした.??


羽のあるお地蔵様(?)

石段を降りて帰りに瀧を探してみることにしました.八大龍神雨乞瀧50mという看板がありましたので,そちら方面に行くと,荒れ果てた急斜面を降りて行きます.道なき道をたどり,最後は用水路に沿って岩のくぼみに入っていくと,思わずあっと声が出てしまうほどの立派な大きな瀧に出会いました.2日前の大雨のせいで,いつもより水の量も大分多かったのでしょうが,水しぶきと水の音にしばし我を忘れてしまうほどでした.




お萱場 瀧付近から

ここからは,神ヶ岳の登山口をめざして林道に入ります

林道に沿って流れる五里川 大雨のあとなので水が豊か


林道から左に分岐するおぐら橋 自動車も通れる大きな橋でした.


2012年4月12日木曜日

蓮随山 と 旧梅香寺

標高108m
 4月8日日曜日 お花見に最高の日だったこの日,桜などは1本もない鼓が岳に登って来ました.でもせっかくなので,その前にちょっと花見に宮川堤に行こうと思っていました.それなのに,またぐずぐずしているうちに時間がなくなりました.それで宮川堤はやめて,蓮随山のふもとの枝垂れ桜を思い出して,行ってみることにしました.もう15年以上前に行ったきりです.古い廃寺の境内に,大木でしたが枯死寸前のように,枝先にわずかな花をつけているだけの桜があったはずです.今も生きて花を咲かせているものでしょうか.
 蓮随山というと,ふもとの人々が死に水を汲みにいくという井戸があり,途中の山道は昼でも薄暗く,古い石垣や墓碑が立ち並び,まさに異様な雰囲気につつまれた謎の山という印象があります.それでも,山道をぬけると三郷山の公園につながっていて,伊勢に来て初めて知った山だったこともあり,子供たちが小さい頃はよく行った思い出の山でもあります.(本当は観音様への参道であり,いけないことだったのでしょうが.)当時,この廃寺や名もしれない人々の墓などに,強く好奇心をそそられたのですが,何の手がかりもなく,ずっと心に残っていました.
 今回,久しぶりに訪れると,昔あったはずの崩れかけた山門はなく,荒れた境内の真ん中に立派な大きな石碑が建てられていました.かつての神秘さは失われてしまいましたが,その石碑には,この寺は梅香寺といい,1615年に徳川家康の側室のお梅の方の懇請によって蓮随上人が開山したこと,徳川の菩提寺として栄えたこと,明治45年に常盤町に移転されたため,ここは廃寺になったことなどが記されていました.それだけの手がかりがあると,今はインターネットでもう少し知ることができます.便利な時代になりました.

側室:お梅..1586~1647
(法名:蓮華院)
父:青木一矩
    1600(15才) 家康(59才)の側室となる、のち本多正純に譲られる
    1616(31才) 家康(75才)没
    1622(37才) 夫の本多正純、所領を没収され配流. 出家、駿府に移る
     1647(62才) 伊勢山田にて死去(9月11日)  
*家康の祖母・華陽院の縁戚であったことから、華陽院の姪という名目で15才の折り、奥勤めに上がりました。後に本多正純に譲られる。
本多正純は宇都宮釣天井事件により、将軍秀忠の勘気に触れ、宇都宮十五万石を没収され配流されました。これにより、お梅の方は出家。駿府、京都、伊勢山田と転々とし、伊勢山田にて死去。


 1615年という開山は徳川家康の没年より1年早く,またお梅の方は本多正純が失脚した1622年に出家したとあり,本当にお梅の方の懇請により開山されたのか,しかも,お梅の方にとっては縁もゆかりもない伊勢の土地で何の目的で寺を開山されたのか,疑問を感じてしまいます.一方,蓮随上人は伊勢の出身で,徳川家康と関係のあった幡随意上人の高弟であり,1611年の市姫の一周忌の際には徳川家康に呼ばれて千日念仏を行ったとあります.蓮随上人も徳川家と深い関係があったようです.蓮随上人が自分の故郷に寺を開山するのはごく普通にあり得ることでしょう.でも,徳川の菩提寺を建てようとして開山したのかと考えるとやはり疑問を感じます.家康は朝廷よりも優位に立とうしていたはずで,朝廷ゆかりの伊勢神宮の膝元,しかも外宮の近隣において徳川の菩提寺の建立を望むとは思えないからです.あまりにかけ離れた時代の事を,私が自分の常識などで推察するのは全く意味が無いとは思うものの,ついついと勝手な想像をしてしまいます.市姫の一周忌には徳川の側室としてお梅の方も臨席されていたのかもしれません.お梅の方と蓮随上人の接点もこうした中に自然とあったのでしょうか.いずれにしても,出家して梅香禅尼となったお梅の方が,あちこちを転々とした後,蓮随上人の開いた旧梅香寺にひっそりと住み,世を去っていったのは事実のようです.その墓碑も蓮随山内に残されているそうです.家康も亡く,夫も失脚して離れ,子もなく天涯孤独な梅香禅尼の生活は寂しいものだったのでしょうか.蓮随上人はお梅の方を匿って自分の故郷である伊勢に住まわせたのではないかという気がします.そう思うと,お梅の方は,豊かな自然と人の思いやりに包まれ,寂しさを癒されて静かに故人の冥福を祈ることができたのではないかと思えます.

さて大いに話は横道にそれましたが,旧梅香寺境内の案内をします.
伊勢市の図書館の裏の道を小川に沿ってずっとまっすぐ進みます.最後に空き地に出ます.昔は草ぼうぼうでしたが,今はきれいに刈られて売り地になっていました.ここの付近に車を止めて,今度は外宮の森のフェンスに沿って進みます.

外宮の森のフェンスにはこんな看板が!



広くて短い砂利道を過ぎると,山道が始まります.まっすぐ行くと井戸道という案内があって,霊水観音様まで登っていく事ができます.右手に古いなだらかな階段があり,ここが旧梅香寺の境内への入り口です.


 
分かれ道 左お水道  右旧梅香寺

梅香寺への階段

階段を登っていくと,明るい平地にでます.平地の真ん中に大きな石碑があります.その後ろに赤い布をかけたお地蔵様と 囲いの中の古木の幹が見えます.これが例の枝垂れ桜です.


石碑




桜の古木




上を見上げると,昔よりもさらに少ない枝を伸ばし,一つの枝先だけに花が咲いていました.枝垂れ桜には見えませんが,そばに倒れた看板があり,枝垂れ桜と書いてありました.無事でいてくれたね.久しぶり.ただ昔の不思議な雰囲気は石碑のせいで拭い取られてしまったようです.古い記憶をたどりながら,さらに道を進むと少し登って,古い墓石と真新しい墓石のある小さな墓地の横に出ました.そしてさらに行くと,井戸道と合流するようです.確か以前は崩れかけた石垣やもっと古い墓碑が並んでいる場所があった筈です.この先なのかも知れませんが,今日は時間がないので,これより奥には行きませんでした.平地にもどって,反対の奥を眺めると,掘っ立て小屋のような小さな建物が二つ,草の中に立っています.覗くとお地蔵様?と木彫りのほとんど朽ちている仏像?が一体ずつ雨をしのぐように安置されていました.それぞれにお水が備えられています.





足元を見ると沼のように水がたまっています.形をたどると,ひょうたん池のようで,くびれのところには石橋のように石がおいてあります.大きなみずたまりの向こうに壊れた石の塔のようなものがあり,字が刻まれています.寶篋印塔とかいてあります.これもまた好奇心をくすぐられてしまうものでした.調べたら,墓碑または供養のために建てる石塔で,五輪塔のようなものらしいのです.先端が完全に失われている状態です.一体誰が誰のために建てたのでしょうか.どうして壊れてしまったのでしょう.普通刻まれる文字は梵字だそうです.なぜ,わざわざ寶篋印塔などと書いたのでしょう.寶篋印塔は時代によって形が少しずつ違うそうで,どうもこれはやはり,江戸時代の始め頃のように思います.写真を見ると横面にも小さな文字が見えます.今度行ったら,これも見て来ようと思います.

水溜りに青空が映っています.