其の3 外宮周辺 御師遺構と萬金丹、阿弥陀坐像といろいろ
1月31日 日曜日 自転車で出発
自宅、、、、、
御師三日市兵部邸の土塀(市役所駐車場)、、、、、
御師上部越中邸跡(地方裁判所)
。。。。。。外宮駐車場に自転車を置いて。。。。。。 大神宮前駅跡地 。。。。小西萬金丹 。。
。。。。。。
御師福島みさき大夫邸跡 。。。。。。。烏帽子世古 。。。。。。
御師丸岡宗大夫邸
。。。。。。大世古。。。。。
御師龍大夫邸跡(大豊和紙工業 伊勢和紙館) 。。。。。。常明寺
。。。。。。神路通り。。。。。。
御師東大夫邸 門と蔵 。。。。。蔵deパスタでランチ休憩 。。。。
自転車回収、、、、、、
天神が丘墓地 (阿弥陀坐像 荒木田家墓碑 度会家墓碑)、、、、、、、
大世古墓地(阿弥陀坐像) 、、、、、、、大世古の浅間神社、、、、、、自宅
昼前から午後いっぱいで、いろいろまわりました。良い運動になりました。
今日の目的は
御師遺構と、天神が岡と大世古墓地の
阿弥陀坐像を見に行くことでした。
御師とは
平安時代後期頃から生まれ、江戸時代に最盛期をむかえたそうです。もともと神宮は天皇以外からの私幣禁断(お供えなどの禁止)でしたが、、人々は御師に依頼して神楽を奉献し祈祷を行うようになりました。 初期の御師は神宮の権禰宜で、度会(外宮の権禰宜)、荒木田(内宮の権禰宜)の姓をもつ者が多く、また権禰宜になると五位の位を授かったため、大夫と称したそうです。時代がくだると御師株が売買され、他の神官や商人なども御師となり、江戸時代、宇治に271家、山田に615家の御師がいたといわれています。
禁裏御師に藤波神主、桧垣神主、足利将軍家に藤波神主、織田信長に福井大夫、豊臣秀吉に上部大夫、徳川将軍家に山本大夫、春木大夫が担当していました。また御師は全国に檀家をもち、檀家が伊勢参宮の際は、松阪や小俣のあたりまで送迎し、御師邸に宿泊させ、神楽をあげ、酒や馳走でもてなし、伊勢の両宮参拝や名所旧跡、古市などを案内したそうです。御師は毎年、神宮の御祓大麻を、伊勢暦などの土産とともに全国各地の檀家に配り、お伊勢参りの普及に大きな働きをしたといわれます。
しかし明治4年 1871年、御師制度は政府によって禁止され、御師たちは職を失うことになります。現在、広大な御師邸や関係資料がほとんど残っていないのは、困窮した御師たちが財産の切り売りをしたためであるといいます。また、現在、祈祷や大麻の作成配布等は、神宮が直接行っています。 (お伊勢さんテキストより)
実際には戦争で焼失してしまった御師邸もあるようで、本宅が現存するのは 山田では烏帽子世古にある丸岡宗大夫邸のみだそうです。でもここは、人が住んでいるので、中を拝見することはできません。外から門と塀が見られるだけです。
また伊勢和紙は職を失った御師が始めたそうで、大豊和紙工業株式会社が、旧御師邸跡にあるのも納得がいきます。ここに、伊勢和紙館があるのですが、残念ながら日曜日は閉館のため、またの機会に見学したいと思います。
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御師三日市兵部邸の土塀(市役所駐車場) |
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御師上部越中邸跡 地方裁判所の敷地の一角です |
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御師丸岡宗大夫邸
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御師東大夫邸 門と蔵 |
御師福島みさき大夫邸跡 と 御師龍大夫邸跡 は 案内柱だけなので写真は省略します
伊勢電気鉄道 大神宮前 駅跡地
外宮北御門から数百mの道路沿いに看板が建っています。ここにかつて駅があったそうです。伊勢電気鉄道の前身は明治44年創立、桑名からここ大神宮前まで開通したのが昭和5年、一世を風靡したものの、その後経営に行き詰って参宮急行電鉄に吸収され、昭和17年に江戸橋以南は廃線となったそうです。松阪から小俣あたりまでの旧国道23号線はかつて線路の通っていた敷地だそうです。伊勢では宮川右岸近くの論出交差点から図書館前を通ってNTTにいたる道がそれで、秋葉トンネルや天神丘トンネルは列車が走っていたということになります。
看板の後ろに説明が載っています。参宮急行電鉄は大阪電気鉄道が伊勢を目指して新設した鉄道で、昭和6年に現在の宇治山田駅が完成して大阪伊勢間が開通、伊勢電と競合していた訳です。また当時、参宮線(亀山から鳥羽)も開通しており、伊勢には3つの鉄道があったということになります。
参宮急行電鉄は大阪電気鉄道とともに、のちの近鉄となり、参宮線は国鉄を経てJR参宮線となります。参宮線は戦前は幹線同等に扱われて東京や大阪から直通列車もあったというから驚きです。今の寂れようはどうしたのでしょう。
伊勢電は廃線になりましたが江戸橋以北は、近鉄線として残っています。
小西萬金丹
萬金丹には四つの流れがあったそうですが、現在のこっているのは小西萬金丹と野間製薬の朝熊岳萬金丹の二つのみだそうです。もともとは胃腸薬のようです。
昔の薬舗を残しているのは小西萬金丹だけだそうです。(山田散策より)
どこかで手に入れて、飲んでみたいです。。
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小西萬金丹 大きな風格のある建物です |
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小西萬金丹 店内? 営業中という看板が下げてありましたが、誰もいないので買い難い。 |
蔵deパスタは、味噌・醤油醸造元の糀屋が営業するパスタ屋さんです。大正時代の元大豆蔵を改装したレトロな雰囲気のレストランで、ランチセットがパスタとサラダとコーヒーで880円と、とてもお得で、おいしいです!
ここで休憩をしたら、次はなんと墓地探検です。
私が伊勢に来て、初めいろいろ驚いたことがありましたが、そのうちの一つは墓地です。墓地と言うと東京近郊の八柱霊園くらいしか知らなかったので、伊勢の墓地を見て驚きました。まず、あまりに身近にあります。当たり前のように町の中にあります。昔は集落のはずれにあったのかもしれませんが、市街地化してしまったのでしょう。それから、各町にあるのではないかと思うくらいあちこちにあります。そうした墓地の中にはとても広いものがあります。丘の斜面一杯に墓石がならび、しかも途方もなく古いものが真新しい墓と混在しています。石器時代からずっと人が住んでいた土地だから、お墓も歴史があるのは当然ですが、苔蒸して埋もれかけた墓碑、様々な石碑、仏像、無縁仏になった墓碑をつみあげたピラミッドなどを見ると、墓地はまさに遺跡と言ってもいいのではないかと思われます。
江戸時代元禄のころ、大湊の山中道喜という人が江戸の名石工に大仏を2体つくらせて大湊の墓地に据えたそうです。そのとき、同時に3体の阿弥陀坐像もつくらせ、天神、走下、船江の墓地に置いたと言われています。天神が岡墓地の北の入り口の祠の中と、大世古の墓地の入り口には、今も、その仏像が座っているそうです。残念ながら船江の墓地にはそれらしきものはありません。
(山田散策より) (走下の墓地は明治に大世古に移転されたそうです)
天神が岡墓地は天神丘トンネルの手前で、自転車で行けばすぐ近くです。地図で見る限り、天神が岡墓地もかなり広く、道路で南北に分断されています。(例の伊勢電跡の道路です。)
墓地の北側部分の外れの角に行きましたが、仏像らしきものは見つからず、見上げれば墓地は真上の丘の上まで広がっています。頂上付近の西の角に特別に大きな五輪塔がそびえて見えます。たしか地図では、もっと北の部分が広かったので、きっと丘を超えた向こうにも入り口があるだろうと思って、丘を登って墓地敷地内から北の入り口を探すことにしました。頂上に上がると視界に、伊勢市を一望できるすばらしい眺めが飛び込んできました。そして、北にのびる細い通路を見つけ、その通路が下にむかって見えなくなる所の両側に祠がふたつありました。ドキドキしながら、近づいていくと ひとつはお地蔵様、そしてもう一つはあの阿弥陀様に違いありませんでした。こちらの入り口はまっすぐ登ってくる階段になっています。やれやれと上がってくる人々を、やさしく見守り続けてきたのでしょう。
たくさんの墓碑の中、立派な墓碑と五輪塔複数が並んでいる所があり、一つは荒木田氏、一つは度会氏の一族の墓と思われました。
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天神が丘墓地の北の入り口はこんな階段でした。 |
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逆光でうまく撮れません。石段を上がったところで、祠の中に阿弥陀さんが座っています。 |
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頂上の真ん中付近に荒木田姓の墓石と五輪塔が並んでいました。 |
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頂上の西の崖の上には、ひときわ大きな五輪塔があります。度会四門橋村正修氏のもの。
他にも度会姓の墓石、五輪塔が並んでいます。 |
大世古墓地の阿弥陀様。
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大世古墓地の阿弥陀坐像 |
大世古の浅間神社
自然石に大日如来と刻まれた石がご神体で二つあります。本地垂迹説では浅間大菩薩は大日如来そのものだそうです。この付近の町村では明治の合祀政策の影響で浅間神社はほとんど残っていないそうですが、廃仏毀釈の中、この石碑は取り残されていたと思われ、大正の時代に疫病が流布した際に、お祭りされるようになったということです。(山田散策より)
祠の中の石はよく見えませんが、山田散策の本には写真が載っています。祠はないようでした。その写真をみると、宮川の大日権現の石塔に似ているのです。大世古の石塔には年代1703年と1713年と彫られているそうなので、宮川のものは孫右衛門の時代から100年後とすると1730年位でつくられた時代も近いと思われます。その頃の慣習というか、流行りか、もしくは同じ目的で作られたものなのかもしれない、、、と勝手に推測しながら終わります。
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大世古の浅間神社。ご神体の石は祠の中に左右一つずつ。 |