2016年5月19日木曜日

洞川温泉と御手洗渓谷 女人結界門 観音峰

4月29日、30日と一泊で 洞川温泉に行ってきました。

洞川温泉は奈良県吉野郡天川村にあります。紀伊半島のちょうど真ん中あたりで、吉野山の南に位置します。吉野から熊野大社を結ぶ大峰奥駈道は、紀伊半島の深い山々を越えていく修験者の修行の道であり、世界遺産に登録されています。特に霊峯と呼ばれる大峯山「山上ヶ岳」は今もなお女人禁制を貫き、全国より修験者が訪れる道場となっています。洞川温泉は山上ヶ岳の登山口近くにある温泉街です。

朝 8時過ぎに車で伊勢を出て、11時半頃に天川川合に着きました。山奥深い温泉と思っていましたが、意外に賑やかな町でした。

観光案内所に寄って、散策地図をもらいました。バスで来た場合は、ここから御手洗渓谷を経て洞川温泉に入るハイキングコースを歩いていけばよいようですが、自家用車の場合はどこを歩いたらよいのか、案内所の人に聞いてみました。すると天川村役場の駐車場に車を置いて、みたらい遊歩道を歩き、光の滝辺りまで行って戻ってくればよいということでした。地図には絶景ポイントがかいてあるので、見どころはちゃんと見て来れそうです。





天川村は高地なので、桜も遅いようで、思わず満開の桜に遭遇しました。
村役場の 駐車場からみたらい遊歩道まで15分位ですが、途中で吊り橋があったので、写真撮ったり、渡ってみたりとしました。実はここから吊り橋はたくさんあったのですが、一つ目は珍しくて、つい時間をつぶしてしまいました。人数制限5人の、小さな吊り橋です。




みたらい遊歩道入り口付近にも駐車場がありましたが、村役場の方は無料です。
さていよいよ遊歩道にはいります。始めは、うっそうとした森に囲まれた細い道でした。足元が湿ってすべりそうでしたが、すぐに明るい歩きやすい道にでます。左手は巨大な白い岩が入り組んだ河原で、その岩の間を澄んだ水の天ノ川が流れていきます。なかなか快適な道で、どんどん歩いていきます。







やがて急な坂道が少しあって、いわゆる御手洗渓谷と呼ばれる所に着きます。ここまで、ほとんど人に会いませんでしたが、ここは駐車場があって、直接来る人が多いようで、結構たくさんの人で賑わっていました。階段を上り、長いコンクリートの橋と吊り橋を渡ると、目の前にみたらいの滝が見えてきます。滝の上には岩でできた天然の大広場があります。遊歩道からその広場に入って行くことができます。広場の先は岩肌の斜面になっていて、水は幾つもの小さな滝をつくりながら流れ落ちてきます。そして平らな場所にくると大きな深い池をつくり、ここからはゆったりと少しずつ流れ、広場の端で滝となって消えていきます。人々はこの平らな場所に立って、岩場の斜面に向きあったり、広い池の澄んだ底を眺めたり、振り返って崖に消える水の流れを見たりしています。爽快な景色です。自分も滝を流れる水の分子になったようです。










光の滝までは脇の道を少し登ってすぐでした。ここに古いベンチとテーブルがあったので、滝の音を聞きながらお昼と休憩をしました。


光の滝

ベンチから山を見る

ここまでゆっくり眺めて堪能して約2時間位でしたが、帰りはさっさと歩いて40分くらいで 駐車場に戻りました。更に洞川温泉までは車で15分程でしたので、旅館に荷物を置いて、また温泉周囲の散策に出かけました。


旅館を出て、八幡宮、面不動鍾乳洞 自然研究路一部 かりがね橋 竜泉寺 八大竜王堂  エコミュージアムセンター とまわって約1時間半程でした。自然研究路はかりがね橋を渡って展望台に行き、さらに川に沿って温泉街から東にある、大峰山登山口まで続いているようですが、ほんの一部しか歩きませんでした。夕方になりそうだったことと、寒かったことと、夫が吊り橋が怖くて渡れなかったためです。

面不動鍾乳洞のある岡から洞川温泉を見る

面不動鍾乳洞

ミニモノレール

吊り橋

竜泉寺

竜泉寺境内にはたくさんの大峯山登山碑が並ぶ


洞川温泉の観光ポスターはいつも提灯がたくさん灯った温泉街の夜景です。道の両側に並んだ旅館街の家並みは古い日本の風情を漂わせています。軒に提灯が並んでつけられていて、夜に散策できたらさぞ素敵だろうと思いましたが、とにかく寒かったんです。お天気はよいのですが、全国的に寒波で北海道で雪などというニュースもありました。ここも、標高820メートル程ということで、夕方になるにつれてどんどん気温が下がってきました。夕方の散歩にはダウンジャケット着用で出かけましたし、温泉にはいって暖まっても夜に外に出たいとは全然思いませんでした。

宿は久保治旅館。中は改装したばかりのようで新しくとてもきれいでした。夕食は、名水ごろごろ水でつくられた豆腐を使用した湯豆腐会席で、とても美味でした。お腹もいっぱいになりました。温泉はさほど大きくありませんでした。旅館街の中の温泉なので、露天風呂は、隣との境を目隠しした塀で囲まれていて、自然の中でというわけではありませんでした。でもお肌はツルツルになりました。温泉街のはずれに公共の日帰り入浴場があったので、暖かい季節なら、そこの方が広くてよかったかも知れません。お土産が何が良いですか、と聞いたら 陀羅尼介というお返事でしたが、それ以外は無いようです。


翌日は、昨日まわれなかった、ごろごろ水、母公堂、大峰大橋の女人結界門を、車で見て回りました。旅館街の道をまっすぐ進むと家並みが急に途絶えます。いきなり深い山のなかを入ったような景色になりますが、観光ポイントの周辺になると、管理棟や駐車場があって賑わっています。ただ、大峰大橋の女人結界門のあたりは独特な雰囲気を漂わせていました。大峰山の登山口にあたります。橋を渡ると大きな山門があって、たくさんの登山修行供養塔と刻まれた石塔が立ち並び、その先に女人結界門があります。結界門をくぐった向こうは、薄暗い山の中で、白い道がゆったりとなだらかに登って行くのが見えます。何か、別の世界に見えます。


大峯大橋 大峰山登山道入り口

橋をわたると門をくぐると、登山供養塔が並ぶ

女人結界門

この辺はたくさんの駐車場があり、どうやら、山上ヶ岳やそれに連なる山々への登山者が利用するようです。洞川温泉は、登山者の前泊地にもなっていて、全国から講という組織をつくった人々が修行のため大峰山山上ヶ岳登山にやって来て、洞川温泉に泊まるようです。


その後、観音峰ハイキングコースで展望台まで、登ってみました。登り口には広い駐車場とトイレ休憩所があって、ここに車を置いて出発します。展望台までは約1時間30分位で、標高差約400メートル、この辺りでは、もっとも手軽に登山が楽しめるコースのようです。登山する予定は無かったのですが、それほど険しい所もなく、大丈夫でした。奥吉野の深い山々に触れることができて良かったと思います。途中に南北朝の物語を解説する石板が設置されていて勉強しながらハイキングができます。そうです、吉野天川は修験者の修業場であると同時に、南朝の舞台となった歴史ある村なのでした。
観音峰ハイキング道

展望台




昼過ぎになって天川川合にもどり、天川大弁財天社に寄って、帰りました。
昼食をとるのに、良さそうな店があまりなく、天川村ふれあい直売所で名水コーヒーと「いもぼた」なるものを食べました。店も小さくて素朴ですが、おじさんおばさん達がとても親切で、「いもぼた」も とても美味でした。ご飯とジャガイモを一緒に炊いて、塩で味付けして丸めて焼いたものだそうです。

帰宅して、思うことですが、御手洗渓谷もとてもよかったし、洞川温泉もよかったです。夏に温泉入った後、夕涼みしながら散歩してみたいと思います。また、山上ヶ岳の独特な雰囲気も、ここならではでしょうし、登山にも 挑戦してみたいと思います。また、来てみたいところです。


2016年5月3日火曜日

其の14 古市から朝熊山へ。。。旧岳道

朝熊山は神宮の鬼門を守る霊山である。「お伊勢参らば朝熊をかけよ朝熊かけねば片詣り」と伊勢音頭に歌われ、参宮客で賑わった。  お伊勢さんテキストより

伊勢山田散策の本によると、伊勢市内には千日参り塔が現在15基ほど確認されているそうです。その多くは神宮もしくは朝熊山の金剛證寺を参拝の対象に千日お参りをしたというものだそうです。

さて、伊勢山田散策の本によると、四宮河原の西入という人の千日参り塔が4基あるということです(1650年から1663年)。1基めは千日参り、2基めは三千日参り、3基めは五千日参り、4基めは六千日参りと刻まれているそうです。単純に計算すると、6000回お参りするには、16年間、毎日参拝しなくてはなりません。しかも六千日供養塔には参拝三宮六千日結願供養と刻まれているので、この人は両宮と朝熊山を往復して六千回も参拝したということになります。両宮と朝熊山を往復すると約25キロの距離があります。当時は代参を業とする行者もいたらしいので、そうした人の協力もあったに違いないと推測されています。いずれにしても、いったいどんな願いがあって、そんなことを思い立ったのでしょう。

この4基の千日参り塔を訪ねてみたいと思いました。これらは、古市から久世戸、楠部、朝熊町を経て金剛證寺に至る岳道沿いにあると書かれています。朝熊町から金剛證寺への道は最も一般的な朝熊岳道でよいと思うのですが、古市から朝熊町につながる岳道というのは初耳でした。

伊勢山田散策の本にある文章は、以下の通りです。

 1番目の塔は久世戸町の坂を横断した伊勢自動車道の南側下にある。

 2番目は朝熊町地内宇治岳道の。。。

 3番目は同じく朝熊町の朝熊岳道にあって。。。

 4番目は楠部町若の山西山麓の旧岳道沿いにあり、。。。


2基めは宇治岳道、3基めは朝熊岳道沿いにあるようなので、朝熊山を登らなくてはなりません。これらは次回にするとして、問題は1基めと4基めです。察するに、古市から久世戸、楠部、朝熊町につながる旧岳道沿いにたてられているに違いありません。
これで、古市から朝熊山への旧岳道を探す! というミッションにすっかりはまってしまいました。

ネットで検索しても出てきませんが、現在地図と古地図を何回も眺めてみました。伊勢ジャスコの先に楠部交差点があり、ここから神宮神田の前を通って朝熊へ抜ける道(県道37号)は以前から知っていました。おそらくこれが旧岳道に相当するのだろうと思われます。その手前の久世戸町あたりで、伊勢自動車道を横断している道は2本しかありません。1本は新興住宅地につながっているので、多分新しい道です。そうするともう1本の方になります。とりあえず、夫と現地に行ってみることにしました。
この道は伊勢自動車道の下をくぐって交差していました。右手に本誓寺があり、左は空き地ですが、雑草が茂っていて入ることができません。ここにあったら絶望的と思いながら遠巻きに左の空地に沿って歩くと、数十メートル行ったところで、伊勢自動車道路のほうへ伸びる細い道を見つけました。たどって行くと誰も使っていない伊勢病院職員用の寂れた駐車場があり、何とその入り口に自然石でできた千日参り塔がありました!! ついに発見です。逆に、千日参り塔があるので、この道こそ古市から楠部町をむすぶ旧岳道に違いありません。、道は、その先もくねくねと曲がっていって伊勢自動車道の側道にぶつかると行き止まりになっていました。小さな休憩所の様なスペースが作られてベンチが置いてあります。つまり、旧岳道は伊勢自動車道によって分断されて、つながっていなかったのです。


伊勢病院職員駐車場とありますが、空っぽです。
こんなところに人知れず、立っています。 
366年前は人の行交う賑やかな場所だったのでしょう。

大きく竹かんむりに山の一文字 
存在しない文字。岳を洒落て記したとか。

塔の前の道 くねった道は昔の街道

行き止まりになってしまいます。

さっきの立体交差に戻って伊勢自動車道の反対側に出てみると、立体交差からの道は、急な坂をカーブしながら上っていって古市の方向へ伸びています。さっきの道の途切れた辺りのこちら側には坂道から側道へ降りる小さな階段がありました。もし伊勢自動車道が無かったら、この坂道を下りてきて階段を通り、すんなりと千日参り塔の前の道に行けた事でしょう。この坂道も旧岳道に違いありません。古い街道はくねくねと曲がっているので、なんとなく、それとわかるようになりました。この道をどんどん登っていくと、倭姫宮から上がってくる道と交差して、最後は古市の街道に出ます。ここが、朝熊岳道の本当の始点に違いありません。何か目印と思いましたが何も見つかりません。後ろを振り返って、通りがかりの人に岳道のことを聞いてみようと思ったその瞬間、おお、看板がありました!


反対側の階段


古市の曲がり角の看板


朝熊岳道は朝熊町のふれあい広場駐車場が起点と思い込んでいましたが、当然昔は違ったはずでした。本当の朝熊岳道は古市から始まっていたのです。



4番目の塔についてですが、楠部町の若の山という山も初耳でした。地図には載っていません。楠部町若の山で検索すると、老人保健施設山咲苑の住所にこの地名がありました。たしかに山咲苑は小高いところに建っています。この小さな山?を若の山というのかも知れません。県道37号線からは少しはずれますが、たしかにこの山の西側山麓に道があります。この道路沿いをGoogle street view で探すと、なんと4番目の塔を見つけることができました。

ここを旧岳道とすると、旧岳道は神宮神田のすぐ前は通らず、もっと五十鈴川よりを通っていたのかもしれません。たしかに神宮神田の前の道はまっすぐで、古い道ではないように思います。けれども、他に旧道らしき道も見当たりません。この辺りは五十鈴川と伊勢自動車道、神宮神田に囲まれた広々とした水田が広がり、まっすぐなあぜ道で仕切られています。伊勢自動車道路の工事によって周辺の昔の姿は失われたのかも知れません。また神宮神田も今よりもっと広かったのかもしれません。いずれにせよ、記念すべき六千日参り塔が建てられているので、ここは何らかの意味のある要所だったのでしょう。

五十鈴橋付近から見る若の山 左隅に山咲苑 右手は37号線

道路沿いにぽつんと立っています

奉参詣三宮六千日結願供養
読みにくいけれど刻記されています。

2016年5月2日月曜日

其の12 横輪・矢持を歩く 飯盛寺と兜岩水神

伊勢神宮の南西に位置する横輪、矢持のあたりは、一宇郷谷と呼ばれていました。壇ノ浦の戦いで敗れた平家の落人が隠れ住んだと言われ、それにまつわる様々な言い伝えが残されています。鷲嶺の山の深い森には落ち武者の亡霊の伝説がありますが、実際に訪れてみると、春は桜、夏はホタルと、自然豊かで美しい、のどかな山里です。

 

今日の目的は、山田散策の本に載っている飯盛寺と兜岩水神です。

現在の飯盛寺は南勢町の切原にありますが、かつては五か所浦と内宮の中間地の山中にあって参拝者も多く栄えていた大きな寺院だったそうです。今日、訪れたのはその寺院跡で、本堂跡に八大竜王が祀られているため、地図には八大竜王と記されています。

飯盛寺は、神宮の裏鬼門を守る寺として聖徳太子が興したと言うことです。また疱瘡の守り札の霊験あらたかで信仰を集め、五か所からの海産物を伊勢に運ぶ中継地としても賑わっていたそうです。しかし、明治になって廃仏毀釈運動のなかで衰退し、暴風雨による本堂倒壊にあって、廃寺となったそうです。

飯盛寺跡に行くには、一宇郷谷の最も奥、床の木(いすのき)から、道が途切れる直前に林道にはいり急な坂を登って行きます。途中で林道から分かれますが、赤や黄色のテープが巻いてあるので、まよわずに進めます。伊勢の山は椿の森が多く、赤い花があちらこちらに見えるので、黄色いテープの方が目だって助かります。

飯盛寺跡は今でも信者の人達によって手入れされているのか、まだ新しい石碑が幾つも建っています。八大竜王の社もしっかりと閉じられて中を窺うことはできません。かつては立派な庭園になっていたのか、弁才天の池があり、その水は驚くほど透明でした。池の端に、石を積み上げて囲ってある泉と思しき所があり、水神明王という石柱が建っていました。近づくと石壁から蛙が泉に飛び込んで水音が響き、いきなりで驚かされましたが、一瞬の出来事で、後はいくら探しても蛙の姿は見つからずじまいでした。

飯盛寺跡


八大竜王の祠


弁才天池 透明で美しい 


床の木までの戻りは、浅間神社の前を通る別の道を通りました。小さな浅間神社のお社ですが、その前の階段の傷みと傾斜がなかなかでした。こちらの道を通ると、少し手前の床の木の集落に戻ります。分岐点に一本の桜の木があり、その根本にお地蔵さんが立っています。舟形の光背に右いいもり道と書いてあるのが読めます。床の木から五か所までの道は、飯盛寺を経由して切原峠に至り五か所に行く道と、寺を通らずに切原峠に至り五か所に行く道と二つあったようです。




右いいもり道と読めます。




兜岩水神は、矢持下村から、鷲嶺に向かう道に曲がり、直後に左折して、しばらくは横輪川の右岸に沿うように歩きます。過去に2,3回 兜岩水神を探したことがありますが、何の案内もなく見つからずじまいでした。今回もまたあきらめかけたところでしたが、地元の方に訪ねたところ、快く案内して下さいました。道はしだいに山の中腹に向かいます。川とは離れますが、どんどん進むと、鳥居があってその向こうに注連縄の張られた大きな岩が見えてきます。

山田散策の本によると、兜岩水神は、下村の古い家柄の某家が代々守り祀っているそうです。その家には長男にのみ言い伝える一人口伝の言い伝えがあったそうですが、主が戦死したため、口伝を継ぐことができなくなってしまったそうです。ただ、兜岩水神は水天宮であると伝えられているそうです。


案内してくれた方によると、毎月5日はお祭りの日だそうです。水天宮の例大祭は5月5日、縁日は毎月5日ということで、たしかに一致しています。 水天宮は幼くして亡くなった安徳天皇の霊をなぐさめるものです。兜岩水神を代々守っている某家は、もしかもしたら平氏の末裔なのでしょうか。

森閑とした山の中腹にある兜岩水神