2016年3月15日火曜日

其の9 金メダルロード 

其の9  金メダルロード

アテネ五輪女子マラソンで金メダルを獲得した野口みずきさんは、伊勢市出身です。宇治山田商業高校時代の練習コースは 「野口みずきの金メダルコース」 と呼ばれています。倉田山公園に記念碑が建てられて、ここからスタートしてぐるっと一周 2.6キロのコースです。





付近には中学校や高校が多いので、ずっと以前から、部活の学生さんがたくさん走っているコースです。伊勢市はジョギングコースとして整備しましたと言っていましたが、スタート地点に記念碑を建てたのと、歩道に距離を書いた黄色い丸プレートを数百メートルおきに埋め込んだだけです。こんな言い方をすると、不満げに聞こえると思いますが、大半が一般道で、国道では歩道が狭く、それ以外のところでは歩道が傷んででこぼこになっている所がたくさんあります。こんな状態では名前が泣きます。で、「市民の声」に整備のお願いを投稿してみました。

コースは 倉田山から野球場スタジアムの外側を回って国道におり、左折します。左手に二つ池の東池を見ながら国道を走り、黒瀬交差点を左折、宇治山田商業高校の前を通り、二つ池の西池を通り過ぎて、倉田山公園に戻ります。全体に緩やかな下りで爽快、最後にツケがたまった分まとめて登る感じで、脚が棒になってゴールします。

倉田山公園から見下ろす西池

国道23号から 東池


二つ池の言われはよく知りません。昔ここには龍が住んでいたそうです。今は冬にはたくさんのカモがいます。

今回、車は500メートルくらい離れた伊勢市生涯教育センターの駐車場におきました。駐車場の裏にも、ため池と小さな山があります。まったく偶然に、この山に階段を発見しました。さっそくのぼってみると神社を発見!黒瀬の八幡宮というらしいです。
ネットで調べるとこの神社の説明は橘社という二見街道に面した神社にあるらしいので、次回はそこに行ってみます。

ちょっと立派な生涯教育センター

小さな山の森の中に神社がありました。

2016年3月7日月曜日

其の8 宮川の堤

其の8 宮川の堤について

宮川は延長およそ91㎞におよぶ三重県最長の河川です。

源は日本有数の多雨地帯である大台ケ原山系で、古来から、洪水を繰り返す暴れ川でした。豊臣秀吉や山田奉行所などが治水工事を行い、氾濫の数は減少していきましたが、水に流されない橋がかけられたのは明治になってからです。
戦後、宮川総合開発事業により、1957年に宮川ダム、1966年に三瀬ダムが建設されてからは洪水は激減しましたが、平成16年の台風21号の増水では支流の横輪川が氾濫し、伊勢市内で203棟の床上浸水の被害がでています。このため、同年宮川堤の改修事業が着手され、平成23年に度会橋から上流3キロに渡って(旧柳の渡し付近まで)堤防の改修が終了。平成26年4月より、度会橋から下流に約1キロ、宮川橋付近(旧桜の渡し)までの堤防改修が始まり、現在ほぼ完成しておりますが、今だ工事は続いている状態です。




宮川の治水が難しかった理由には、二つの側面があったそうです。

ひとつは 地形の問題。 宮川の 流路は91キロで、宮川と同じ大台ケ原を水源とする紀ノ川は136km、熊野川は183kmと比較すると、宮川の勾配が急で、川の流れが速くなります。さらに宮川が伊勢平野に出る岩出町の川床の標高は4,5mと平野に出てから急に勾配は緩くなっています。このため、大量の降雨があった場合、急峻な谷間を高速で流れてきた河水は平野に出た途端に流路から溢れ出て、洪水が発生しやすくなります。(農業農村整備情報総合センター,2015)。

もともと宮川の下流は右岸側で、広大なデルタ地帯を形成していたそうです。下の図のように、宮川流域というより、もはや中州に人々が暮らしていたという状況だったと思われます。

                   宮川下流々跡図 (神宮文庫蔵諸古文書による)

もうひとつは 人的な要因です。
宮側右岸は荘園時代から神宮領として神宮の支配する地域でした。江戸時代になると山田奉行所がおかれて治水工事が行われてきましたが、神宮は、宮川の治水は幕府にまかせ、自ら行うということはなかったようです。また、宮川左岸の大半は紀州徳川藩の飛び地でした。紀州藩は高度な水利技術をもっていたということですが、左右岸の支配者が違うために、大がかりな治水工事が行われることはなかったのです。

また洪水の話ではありませんが、伊勢平野の宮川左岸の地域、玉城 五桂、明和町は洪積台地の上にあり、宮川の川床よりも標高が高く、宮川の水を農業に利用することができなかったそうです。外城田川などのいくつかの細い川はあっても日照りが続くと枯れてしまうため、この地域ではたくさんのため池が作られてきました。しかし、農民の水をめぐる苦難の歴史も悲惨なものがあったということです。


戦後、昭和25年に公布された国土開発法に基づき、豊富な宮川の水量を利用した、治水、かんがい、発電を含んだ、宮川総合開発事業がまとめられ、同年宮川ダムが着工されます。この事業が完成するまでに実に30年かかっているのですが、その結果、洪水被害は激減し、伊勢平野は三重県有数の豊かな穀倉地帯となりました。

今見ることのできる、緑豊かな田園風景と美しい宮川の流れは、たくさんの先人達の苦難の末に成し遂げられたものだということを忘れないでいきたいものです。




さて現在進行中の宮川堤の改修工事により、草が茂り、桜の古木が連なっていた以前の宮川堤から、とても明るい近代的な公園に様変わりしています。どちらが良いというものではなく、やがてこの堤防も時を重ね、歴史的なものとなっていくのでしょう。桜は変わらず美しく、江戸時代につくられた突出し堤も保存されているので、素晴らしいと思います。


突出し堤というのは右岸だけに見られます。川の流れに突き出すようにつくられた堤防で、水の流れを変えて、本堤を守ろうとするものらしいです。



松井孫右衛門堤も突出し堤で、浅間堤(1748延享5年)とも呼ばれるようです。孫右衛門社はもとは浅間神社につくられたのでしょうか。今は境内に稲荷神社と掃守社舊蹟という石碑があるだけです。浅間堤は堤改修工事の際に新しい堤防が交差して二分されていますが、全容はよくわかります。
その他の突出し堤は度会橋の下流で、駿河堤(1685貞享2年)、周坊堤(1702元禄15年)、棒堤(1742寛保2年)の3つがあります。それぞれ遊歩道でつながっていて、桜の下に起伏を与え面白い感じになっています。


浅間堤

駿河堤 正面に宮川 本邸は右側



2016年3月5日土曜日

其の7 宮川の渡し

 
昔、宮川には橋が架かっておらず、人々は柳の渡し、桜の渡し、磯の渡しなどのどれかを船で渡らねばならなかった。川が増水すれば川止となり、難儀をすることが多かったため、「お伊勢さんほど大社はないがなぜに宮川橋がない」と歌われたほどである。明治30年に参宮鉄道が開通し、明治44年に度会橋、大正8年には宮川橋が開通し、宮川の渡しも姿を消した そうです。      (お伊勢さん テキストブックより)

ということで、今日は宮川を度会橋付近から下流に向かって、宮川の渡しの跡をさがして行くことにしました。    


2月28日(日曜日)  出発は昼過ぎ、度会橋の東詰駐車場に車を置いて、ジョギングで。



度会橋 駐車場。。。。。。。 神宮御用材貯木池の跡 石碑 。。。。。。。。 桜の渡し 案内板 


。。。。。。。 高向堤防完成記念碑 。。。。。。。 ラブリバー公園 。。。。。。 


磯の渡し広場( 御頭神事禊斎の場、磯の渡し案内板、浅間神社高向富士講遥拝所 ) 。。。


折り返し。。。。。。度会橋 駐車場 。。。。。。。孫右衛門堤付近 




まず、いつもの駐車場に車を置いて出発です。堤防の上では見落としてしまうかもと、なるべく河川敷付近を走ろうと降りて行くと、まさに1分で神宮御用材貯木池の跡という石碑の前に来ます

後ろは河川敷の広場です

どうやらここに、昔、池があったそうです。新しい神宮を建てるための御用材は木曽の山から船で大湊に運ばれ、内宮用は五十鈴川を上り鹿海まで、外宮用は宮川を上り度会橋まで運ばれたということです。ここの貯木池に一時おいて、ここから外宮まではお木曳き車にのせて町中練り歩きながら納められたということです。ここから外宮まで、約2キロくらいだと思います。
                                        
平成25年の遷宮の際のお木曳きでは、度会橋をはさんだ上流側からスタートしましたので、材木も上流側に貯めておくところが作られていたと思われます。

さてここから宮川堤公園の遊歩道を数百メートルも下ったところで、さっそく桜の渡しの案内板を見つけることができました。ちょっと読みにくいのですが、ちょうど現在の宮川橋が架かっているところだったようです。


コンクリートのスロープがあって橋脚の下まで行けます。公園のはずれに位置して、今もなにやら船着き場になっているようですが、荒れていて基本的には立ち入り禁止のようです。ただ今後、桜の渡し跡も公園の一部として改修整備する計画があるようです。(さすがに橋の真下は危険だからこの近くということになるのでしょうが)


さらに下流に向かいますが、公園を出て一般道路になります。JRの架線の下をくぐると、やや川から離れますが、見晴らしのよい堤防の上の道を走ります。歩道がなくて少し危ない道だったのですが、去年、下に新しい道路ができて車の通行がかなり減りました。ここに大きな石碑があり、高向堤防完成と大正8年という文字が読み取れます。

宮川は暴れ川で治水にかなり苦労したということです。橋を架けられなかったのもそのせいです。この堤防もそうした宮川の氾濫を防ぐために大正時代に築かれたのでしょうか。ちょっと歴史を感じながらも道はまもなく二つに分かれて、堤防を下り、川に向かって伸びていきます。川の護岸と放置された自然林の茂みの合間を通る道で、普段は絶対に一人では行かない道ですが、今日は暖かくて人もぱらぱらと見かけるので、思い切って行ってみました。近鉄の高架線の下を抜けて、そのままラブリバー公園に続いていました。野鳥の声が響いて、のどかな道です。

ラブリバー公園に入ると探す間もなく「磯の渡し広場⇒」という看板が目にはいりました。
広場に着くと、高向社の御頭神事の関係者が禊をするという場所や、富士講遥拝所などがありました。神宮御膝元といえど、庚申講や富士講が今も息づいているのは何故なのでしょう。日本人には神仏習合も染み付いているし、無宗教といえども調子のよい神頼みの精神はどうなんでしょう。そういう私も間違いなくその精神で生きてきています。いずれよく考えてみます、でも今はいいや。

御頭神事の禊の場所


磯の渡し跡付近(豊浜大橋)

富士講遥拝所


さて磯の渡しは、色々位置を変えながら、豊浜大橋が完成した昭和27年まで、存在していたそうです。初めと話しが少し違うのですが、桜の渡しや柳の渡しが、遠くから伊勢詣でに来た人々が利用した、いわゆる伊勢街道の一部であったのに対して、こちらは地元の人々の生活道路の一部であったのかもしれません。

ここから宮川大橋の下まで行きました。この先堤防の上からは絶景が広がっているのに違いありませんが、久しぶりのジョギングに体力に自信がないため、折り返すことにしました。
まだ柳の渡しを見ていません。度会橋の上流に違いありませんので、そこまで行かなくてはなりません。ここまで、およそ3キロです。

度会橋東詰の駐車場で、宮川堤の案内板をチェックしました。浅間堤という言葉を発見しました。これについてはまた次回に書きたいと思います。
さて、今度はいつもの上流に向かって、河川敷近くを走ってみましたが、柳の渡しについては何も見つかりません。孫右衛門堤あたりであきらめてジョギング終了しました。腰をおろして川を眺めながら、ネットで調べるとなんと右岸には柳の渡しの跡は残されてないそうです。対岸の尾崎記念館の横に柳の渡しの案内板があるということでした。対岸には安全に走れる道はないので、(歩道のない場所ではジョギングしない主義です)、車で行ってみることにしました。
後で調べましたが、右岸の柳の渡し跡付近もやはり公園として整備していく計画があるようです。

対岸の尾崎記念館

右岸の柳の渡し跡付近(この辺のはず)

途中寄り道で、離宮院公園に行きました。寒緋桜が寒い季節に咲くときいたので、もしやと思って行きましたが、わかりませんでした。ここは斎王が神宮に赴くときに宿泊したという離宮院の跡地です。町の中にあるにもかかわらず、うす暗い、うっそうとした森があり、別世界のような趣があります。ここから桜の渡しは近く、斎王の一行は、川を渡れないときは離宮院にとどまり、よい日柄を選んで桜の渡しから川を渡り、神宮に赴いたのでしょう。また、一角に官舎神社という神社があります。

離宮院公園内の遺跡

ここは鳥居が白いのが印象的です。


狛犬が豪快で

なんかやさしい!



尾崎咢堂記念館 
というのが伊勢にあります。中に入ったことはありませんが、旧尾崎邸跡に建てられた白いしゃれた洋館です。度会橋の西詰から100メートル程で、宮川の左岸近くに建っています。ここの敷地内に柳の渡しの案内板があります。桜の渡しから数百メートルしか離れていないのですが、桜の渡し(下の渡し)は東海道から分岐した伊勢街道、柳の渡し(上の渡し)は上方からくる伊勢本街道や和歌山、熊野街道につづく渡しとして賑わい、筋向橋で二つの道筋は一つに合流して外宮に向かうというながれがわかりやすく書かれています。あいにく左岸の堤防の上は交通量が多くてしみじみと景色を眺めていることはできません。対岸ののどかな様子がなつかしい。

尾崎記念館にある柳の渡し案内板