国見社 くにみのやしろ 北御門社の前 横道に入って右にあり 祭神一座 彦国見加岐建与束命(ひこくにみかきたてよつかのみこと)にて外宮摂社十六社のうちなり 天日別命(あめのひわけのみこと)の子 伊勢国造(いせくにつこ)の神なり このほとり沼木郷という 度会国見社という
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火除け橋を渡ってもまなく右に道があります。うっそうとした森の中を200mほど進むと、度会国御神社があります。地元の度会の国の守護神をまつったものです。天日別命は、世襲神主であった度会氏の祖神です。神武天皇の東征の際に伊勢国を平定しました。その子が伊勢国造になったということです。
禰宜宿館 北鳥居前 左の横道の末にあり 十員の禰宜齋戒参宿の所にして天下国家の御祈祷を取り行はるる 齋所とも齋館とも神館とも宿館ともいいて末社に准じ黒木の鳥居を立つ
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禰宜宿館は、今は齋館と呼ばれています。その位置は、おそらく今も名所図会の時代と同じで、表参道側の近くにあります。表参道火除け橋を渡ってすぐ右に清盛楠がありますが、その真後ろに齋館の門と塀があります。もちろん立ち入り禁止で門はピッタリしまっています。現在の齋館は、祭典に奉仕する神職が参籠し潔斎するための宿館だそうです。また皇族の御用に使われる行在所が奥に隣接しているということです。森に囲まれて見えませんが、かなり大きな建物が幾つか建っているようです。北鳥居 きたのとりい 子良館の前にあり 又高宮の鳥居ともいえり 二名とも俗称なるべし およそ参詣の人は一鳥居より入るべきを便よければ是より入るなり
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1707年の伊勢参宮案内記によると、本来は一の鳥居から入って参詣すべきなのですが、便利なため、たくさんの人が北御門から参詣していたそうです。そのため、一、二の鳥居に準じてここにも鳥居を立てたそうです。また火除け橋を渡ってすぐ右にあった北御門社は、地元の人々が旅行に行く前に̚門出としてここに参拝する習慣があったそうで、外から来る人、出る人などで参拝者が多く、北御門口が賑わう一因になっていたそうです。
子良舘 こらがたち 子良とは朝夕の御饌を奉る童女の名なり 世に是をおこら子という 又 父を物忌の父という 延喜式にはおこら子を物忌と書けり その物忌の父も童女と共に御饌の事に預かれり 度會姓の人を選びてこの役を務めしむ 俗にこれを おくら子といい 又斎宮の御代わりなどいえる事は僻事(ひがごと)なり 〇毎日寅申両刻 両宮及び相殿へ御饌を供進す 是は天子より奉らせ給うの御饌なり おこら子は八、九才より参りて月経通ずるを任限として 其間 宮を出でず 正員の禰宜は祝詞をよみ おこ良子は陪仕し物忌の父は御饌をそなえはこぶなり 昔は内宮の神饌も外宮にて調へ 宇治へはこびたるに 道路穢れありし後は 一所に外宮の御饌殿にて奉ることなりと聞けり
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子良(こら)とは、本文にあるように、朝夕の神饌を奉る童女のことだそうです。はじめは物忌と呼ばれていました。平安初期の止由気宮儀式帳によると、五つの物忌(大物忌 御炊物忌 御塩焼物忌など)があったそうで、それぞれに神事を介助する物忌の父がいました。このように複数の職掌があったため、物忌を、物忌の子等と呼び、やがて子良と呼ぶようにになったということです。子良は禰宜の子女から選ばれ、神に最も近く侍り仕えたため、穢れのない清浄無垢な心身でなくてはなりませんでした。子良は子良館で齋居し、また生活を介助する御母良なども子良館にいたそうです。江戸時代になると子良館の規模はしだいに縮小し、五つあった物忌は大物忌(大子良子 おこらこ)だけになったそうです。
子良は明治の神宮制度の改正によって廃止され、子良館も残っていません。しかし現代でも、式年遷宮の諸祭の中で、土地に関する祭の際には神職の子の中から物忌が撰ばれて奉仕するということです。
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現在では、北鳥居の手前に御厩があり、御厩横から板塀が張られて忌火屋殿まで囲ってあり立ち入り禁止です。かつて子良館のあった所は板塀の中です。
忌火屋殿 いんやどの 子良館の南にあり
朝夕の御供を炊き(かしき)鑽火(きりび)してこれを調進する故に忌火屋殿という 一殿を分かちて西の間を炊く屋殿(かしきやどの)といい 東の間を御臼屋殿(みうすやどの)という 時として神供に餅を搗く事あり 是も今の餅にはあらず はたき粉をかためたるものなり 杵は用ゆれども槌磨の類は用いず太古の風なり この殿に錐火の具あり 石 鉄の類を用いず 檜の盤 山琵琶の木を以って摺り合わせ火を求むるなり 其形 古朴にして稀なる具なり
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鑚火とは古代から行われた発火法の一つだそうです。火鑽杵と火鑽臼を使って摩擦によって発火させる方法で、神聖な火を得る方法として今で神社もなどで行われているそうです。外宮でも毎日、忌火屋殿において鑽火をして神饌を準備しているそうです。火打石と火打ち鉄を打って火花を散らし清め祓いとする切り火は簡略した形のものだそうです。
また、鑽火でおこした火を忌火といいます。清浄な火という意味だそうです。
忌とは、いまわしいもの、縁起のわるいもの、避けるべきものというイメージがありますが、少し違う意味もありそうです。穢れのない清らかなもの、それゆえ畏れ多く避けるべきものという意味もあるでしょうか。物忌も、穢れのない清浄無垢な童女をさしています。
御酒殿(奥)と忌火屋殿(右) |
木柴垣 こしばがき 忌火屋殿の南 参宮道の右にあり この御垣に付きて朝廷を遥かに拝せらるるともいい 又神事に禰宜の列を整えるところ故に 列所(れつしょ)ともいうとぞ
廰舎 ちょうしゃ 子良館西南にあり 禰宜 物忌父等 この舎に集まり 諸神事執り行う所にして 廰は政所(まんどころ)とよみて政治を執り行う屋なり 是より下す文を廰宣という 神領郡県 祠官職掌人等を下知する所なり
御酒殿 子良と廰舎との間にあり 御酒を納め奉る殿なり この所に豊宇賀能賣神(とようがのめのかみ)を祀る この神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)と同体にして 又は大宣津比賣(みけつひめ)とも 亦 保食(うけもち)の神とも申すなり 酒を上代にては キといえり 故に神酒(みき)という 又黒米にて造りたる悪敷酒を黒キという 又よき酒を白キという 今はこの故事すたれて常の酒に胡麻を加えてこれを黒キという 上代は今の清酒はなくして みな濁酒なり さてまた 酒を みわ ともいいて 万葉に味酒のみわと読めり 故に三輪は酒の神にせしにや 今酒屋の門に杉を標とする事その縁なるべし 〇大和あすかに石制の酒船という物あり これについて思うに 今世に岩船と名付ける物みな この類にやあらん
万葉 味酒の三輪の祝が山てらす秋の紅葉のちりまくおしも 長屋王
同十九 天地と久しきまでに万代をつかえまつらん黒酒白酒を 智奴王
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御酒殿は忌火屋殿の囲いの奥にあるため、現在は近くで見ることはできません。写真のように、忌火屋殿の向こうに屋根がみえるだけです。写真で、屋根の上に金色に光っているものが見えますが、これは後ろの森の木の幹が日光に当たって、光っているように見えているだけです。なにか神々しいものに見えてしまいます。
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御酒殿は外宮と内宮にあります。いずれもお祀りをしているのは御酒殿神(みさかどののかみ)だそうです。本文の豊宇賀能賣神は豊受大神のことと思われますので、酒殿で祭るのは少しおかしいという気もします。御酒殿神について調べても酒殿の守護神という事だけで、詳しくわかりません。豊宇賀能賣神について調べてみると、豊受大神を古来から祀っていた丹後には天女の羽衣伝説があって、その天女、もしくはその娘が豊宇賀能賣神として祀られているということです。羽衣を隠されて村にとどまることになった天女は酒造りの名人で、その酒は万病に効くと言われ、機織りや稲作も始め、村をみるみる豊かにしたということです。天女であった豊宇賀能賣神を祭っている神社は幾つかありますが、それらの神社では、豊受大神と同一と考え、天女は豊受大神の化身であるとしているようです。また、天酒大明神といわれることもあるそうです。また丹後の籠神社所蔵の古い文献に「伊勢の酒殿明神は丹後国より勧請す」という記録があり、豊宇賀能賣神が御酒殿の守護神として迎えられたという可能性は十分あると思います。その際、豊受大神と同一の神であるか否かは、考えても意味のないことかもしれません。御酒殿神をきっかけに、豊受大神のことをいろいろ調べてとても興味深く感じいりました。今まで正直なところ、豊受大神が女神であることさえ知りませんでした。
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以前は御酒殿で酒を造っていたそうですが、近年では忌火屋殿で造られ、神宮の三節祭(神嘗祭と6月と12月の月次祭)で神前に供える酒を、一時的に御酒殿に納めてから献上するということです。
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酒は現代では、白酒、黒酒、醴酒、清酒の4種。白酒は神田の米に忌麹、御井から汲んだ御料水だけで作られ、黒酒は白酒に薬草の炭で黒く着色したものだそうです。醴酒は米と麹で即席につくる一夜酒と呼ばれるもので、粥に近く、これを土器にしゃもじで盛ることが、酒盛りの語源と言われています。清酒は全国からの寄贈によるものだそうです。酒は米からつくられるものなので、神に酒を供えることは米を料理して供えることと全く同じ事ということです。(お伊勢さん検定 テキストより)
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万葉集から
うまさけを三輪のはふりが山照らす秋の紅葉のちりまく惜しも
味酒は三輪に懸かる枕詞 祝は「はふり」神官の意味
三輪の神官が守る三輪山を照らす秋の紅葉が散るのは惜しいことだなあ
同じく万葉集から
天地(あめつち)の久しきまでに万代(よろずよ)をつかえまつらん黒酒白酒を
天地とともに万代までお仕えいたしましょう 黒酒、白酒を捧げて
御調倉 みつきくら 廰舎の西にあり 是は御政印を初め所々より奉る調物を収る倉なり 御政印は銅印にして朝廷より下し給える璽なり 大宮司と両神宮家に伝えて大宮司家に有るは齋衡三年 内宮は天平十一年 外宮は貞観五年 禁裏にて鋳させ 是を給わりしなり 両神宮奏聞の解状に是を押す例なりとぞ
御器倉 みけくら 御調倉の南にあり調進する御膳の土器その他年中祭りに用うるの御土器(おんかわらけ)宇爾の郷より奉るを納る倉なり 是を宇爾土器(うにかわらけ)という 〇宇爾は多気郡離宮旧地西にあり 御饌土器皆この所より奉る 日用の土器は若干なり
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廰舎という建物は今は見あたりません。内宮の神宮司庁にて、神宮の祭事や事務すべてが執り行われているそうです。木柴垣もありません。子良館もありません。御調倉も御器倉もない、と思います。パンフレットや案内図で確認できるのは、忌火屋殿と御酒殿だけです。この辺りの一角は塀で囲まれていて、しかも立ち入り禁止で、奥は見えません。一部の地図では、忌火屋殿、御酒殿の周囲に小さな建物のしるしがみえるので、もしかもしたらあるのかもしれません。御器倉はあって当然という気もします。忌火屋殿の中にふくまれているのかもしれません。
外宮は昔から変わっていないようで、案外変わっているようです。この辺りの建物で制度的に不要なものは無くなっていますし、北御門社も跡かたもなく森になっています。あとで出てくる五丈殿や九丈殿、御厩は場所が変わっています。おそらく明治になって、お守りやお札を売ったり祈祷したりするようになり、神楽殿を建てたためと思われます。藤社もなくなって大津神社が造られています。上御井社や藤岡山は名所と書いてあるので、行ってみることができたと思われます。更に江戸時代、本殿のまわりには四十末社巡拝があり、高倉山に登って天の岩戸の見学もできたようです。江戸時代の外宮に行ってみたいと思ってしまいます。
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今も神宮土器調整所は明和町蓑村(かつて有爾郷とよばれていました)にあります。うにとは土器をあらわす「はに」がなまったものと考えられており、古くから土器をつくる人が多く住み、大量の土器を伊勢神宮へ奉納してきたそうです。付近の発掘調査で奈良時代の窯が数多く発見され、水池土器制作遺跡として国の史跡に指定されています。
また奉納する土器とは別に一般に使用する土器も制作販売され、それらの土器は東海地方を中心に、千葉県でも見つかっているそうです。(けっして若干ではなかったようです)生産は太平洋戦争頃まで続き、ほうろくと呼ばれるフライパンのようなものだったそうです。
ここで、ほうろくさんを思い出しました。桜の渡し付近に、ほうろくを供えると歯痛をなおしてくれる神様がいらっしゃいました。
明和町蓑村 土器調整所 県道37号線沿いにあります |
門の板張りの間から写真。奥の塀の向こうに煙突のついた建物が見えます |
水池土器制作遺跡公園 |
公園内 土器焼成壙壙跡 |