宮川東岸 豊宮川とも云う
風雅集
君が代の しるしとこれも 宮川の 岸の杉むら 色もかはらず
後京極
土祖神
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和歌 は 風雅集 賀 2218番
君が代の 永遠に変わらぬしるしと、これも見ることだ。岸の杉の木々は常緑で色も変わらない。
これも「見る」と 宮川の「みや」を 掛けています
九条良経 通称 後京極摂政 平安末期から鎌倉時代の公卿・歌人
百人一首 きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣片敷 ひとりかも寝む
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宮川東岸 右岸
宮川は、氾濫を繰り返す「暴れ川」であったため、橋を架けることができず、伊勢にはいるためには、渡し舟で渡らなければなりませんでした。宮川には 上の渡し、下の渡し、磯の渡しという3つの渡し場があったそうです。伊勢街道を通ってきた人々は下の渡しを利用しました。下の渡しは、江戸時代より桜が多く植えられ、桜の渡しと呼ばれていました。この絵は、伊勢に入ってくる人々、帰っていく人々、迎え入れる人や茶店などで賑わう、桜の渡し場の風景と思われます。
(磯の渡しの下流には 上条の渡しがあり、また、岩手にも渡し場があったそうで、参詣人が利用した3つの渡し場以外にも、たくさんの渡し場があったようです)
土祖神
道祖神のことでしょうか。今は見あたらないようです。
大土乃御祖神(土の宮)ということもあるでしょうか
玉城町史 金子延夫著 では 祭神は道祖神といわれているが堤防の守護神で、虫歯で痛む人達は有尓郷のほうろく(土器)をそなえて拝むと治るのでホウロク社と俗称したと、書かれています。
付足 角川地名辞典より 歯痛に霊験あらたかな山の神で明治42年今社に合祀されたとあります。
桜の渡し跡は、宮川堤河川公園の下流のはずれの外にあり、まさに宮川橋の橋脚がたっているところと思われます。宮川堤改修工事で公園を広げ、このあたりは水辺の広場がつくられる予定らしいですが遅々として進まず、今も工事中で近寄りがたい荒れ地となっています。
それでも、新しい案内板が立っていました。
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現在も宮川堤はさくらの名所として有名です。宮川堤河川公園として整備され、つい最近改修工事がおわった堤防からの眺めは広々として爽快です。堤防と河川敷の間には、およそ700本のソメイヨシノが植わっています。以前は堤防の上も桜のトンネルがあったのですが、工事のため伐採されて若木が新しく植えられています。
ところで、桜の渡し場跡付近には、杉の木は一本もありません。和歌の詠まれた時代はおよそ千年も昔のことです。この時代から、宮川の堤は築いては流されの繰り返しでした。より大きな堤防を築き、桜を植え、すっかり様変わりしてしまったようです。それでもこの本が出版された200年前にも、付近に「杉むら」があったのでしょう。広々とした堤防の上の舗装された道が、かつて、うっそうとした杉の木で覆われていたことを想像すると、戻ってほしいような気もします。
桜の渡し場から2キロほど上流の対岸に、杉の林がありました。また、こちら側も更に1キロ程行くと、人家の庭に古い杉の木が数本残っていました。
対岸の杉 夕方ですみません |