2012年4月12日木曜日

蓮随山 と 旧梅香寺

標高108m
 4月8日日曜日 お花見に最高の日だったこの日,桜などは1本もない鼓が岳に登って来ました.でもせっかくなので,その前にちょっと花見に宮川堤に行こうと思っていました.それなのに,またぐずぐずしているうちに時間がなくなりました.それで宮川堤はやめて,蓮随山のふもとの枝垂れ桜を思い出して,行ってみることにしました.もう15年以上前に行ったきりです.古い廃寺の境内に,大木でしたが枯死寸前のように,枝先にわずかな花をつけているだけの桜があったはずです.今も生きて花を咲かせているものでしょうか.
 蓮随山というと,ふもとの人々が死に水を汲みにいくという井戸があり,途中の山道は昼でも薄暗く,古い石垣や墓碑が立ち並び,まさに異様な雰囲気につつまれた謎の山という印象があります.それでも,山道をぬけると三郷山の公園につながっていて,伊勢に来て初めて知った山だったこともあり,子供たちが小さい頃はよく行った思い出の山でもあります.(本当は観音様への参道であり,いけないことだったのでしょうが.)当時,この廃寺や名もしれない人々の墓などに,強く好奇心をそそられたのですが,何の手がかりもなく,ずっと心に残っていました.
 今回,久しぶりに訪れると,昔あったはずの崩れかけた山門はなく,荒れた境内の真ん中に立派な大きな石碑が建てられていました.かつての神秘さは失われてしまいましたが,その石碑には,この寺は梅香寺といい,1615年に徳川家康の側室のお梅の方の懇請によって蓮随上人が開山したこと,徳川の菩提寺として栄えたこと,明治45年に常盤町に移転されたため,ここは廃寺になったことなどが記されていました.それだけの手がかりがあると,今はインターネットでもう少し知ることができます.便利な時代になりました.

側室:お梅..1586~1647
(法名:蓮華院)
父:青木一矩
    1600(15才) 家康(59才)の側室となる、のち本多正純に譲られる
    1616(31才) 家康(75才)没
    1622(37才) 夫の本多正純、所領を没収され配流. 出家、駿府に移る
     1647(62才) 伊勢山田にて死去(9月11日)  
*家康の祖母・華陽院の縁戚であったことから、華陽院の姪という名目で15才の折り、奥勤めに上がりました。後に本多正純に譲られる。
本多正純は宇都宮釣天井事件により、将軍秀忠の勘気に触れ、宇都宮十五万石を没収され配流されました。これにより、お梅の方は出家。駿府、京都、伊勢山田と転々とし、伊勢山田にて死去。


 1615年という開山は徳川家康の没年より1年早く,またお梅の方は本多正純が失脚した1622年に出家したとあり,本当にお梅の方の懇請により開山されたのか,しかも,お梅の方にとっては縁もゆかりもない伊勢の土地で何の目的で寺を開山されたのか,疑問を感じてしまいます.一方,蓮随上人は伊勢の出身で,徳川家康と関係のあった幡随意上人の高弟であり,1611年の市姫の一周忌の際には徳川家康に呼ばれて千日念仏を行ったとあります.蓮随上人も徳川家と深い関係があったようです.蓮随上人が自分の故郷に寺を開山するのはごく普通にあり得ることでしょう.でも,徳川の菩提寺を建てようとして開山したのかと考えるとやはり疑問を感じます.家康は朝廷よりも優位に立とうしていたはずで,朝廷ゆかりの伊勢神宮の膝元,しかも外宮の近隣において徳川の菩提寺の建立を望むとは思えないからです.あまりにかけ離れた時代の事を,私が自分の常識などで推察するのは全く意味が無いとは思うものの,ついついと勝手な想像をしてしまいます.市姫の一周忌には徳川の側室としてお梅の方も臨席されていたのかもしれません.お梅の方と蓮随上人の接点もこうした中に自然とあったのでしょうか.いずれにしても,出家して梅香禅尼となったお梅の方が,あちこちを転々とした後,蓮随上人の開いた旧梅香寺にひっそりと住み,世を去っていったのは事実のようです.その墓碑も蓮随山内に残されているそうです.家康も亡く,夫も失脚して離れ,子もなく天涯孤独な梅香禅尼の生活は寂しいものだったのでしょうか.蓮随上人はお梅の方を匿って自分の故郷である伊勢に住まわせたのではないかという気がします.そう思うと,お梅の方は,豊かな自然と人の思いやりに包まれ,寂しさを癒されて静かに故人の冥福を祈ることができたのではないかと思えます.

さて大いに話は横道にそれましたが,旧梅香寺境内の案内をします.
伊勢市の図書館の裏の道を小川に沿ってずっとまっすぐ進みます.最後に空き地に出ます.昔は草ぼうぼうでしたが,今はきれいに刈られて売り地になっていました.ここの付近に車を止めて,今度は外宮の森のフェンスに沿って進みます.

外宮の森のフェンスにはこんな看板が!



広くて短い砂利道を過ぎると,山道が始まります.まっすぐ行くと井戸道という案内があって,霊水観音様まで登っていく事ができます.右手に古いなだらかな階段があり,ここが旧梅香寺の境内への入り口です.


 
分かれ道 左お水道  右旧梅香寺

梅香寺への階段

階段を登っていくと,明るい平地にでます.平地の真ん中に大きな石碑があります.その後ろに赤い布をかけたお地蔵様と 囲いの中の古木の幹が見えます.これが例の枝垂れ桜です.


石碑




桜の古木




上を見上げると,昔よりもさらに少ない枝を伸ばし,一つの枝先だけに花が咲いていました.枝垂れ桜には見えませんが,そばに倒れた看板があり,枝垂れ桜と書いてありました.無事でいてくれたね.久しぶり.ただ昔の不思議な雰囲気は石碑のせいで拭い取られてしまったようです.古い記憶をたどりながら,さらに道を進むと少し登って,古い墓石と真新しい墓石のある小さな墓地の横に出ました.そしてさらに行くと,井戸道と合流するようです.確か以前は崩れかけた石垣やもっと古い墓碑が並んでいる場所があった筈です.この先なのかも知れませんが,今日は時間がないので,これより奥には行きませんでした.平地にもどって,反対の奥を眺めると,掘っ立て小屋のような小さな建物が二つ,草の中に立っています.覗くとお地蔵様?と木彫りのほとんど朽ちている仏像?が一体ずつ雨をしのぐように安置されていました.それぞれにお水が備えられています.





足元を見ると沼のように水がたまっています.形をたどると,ひょうたん池のようで,くびれのところには石橋のように石がおいてあります.大きなみずたまりの向こうに壊れた石の塔のようなものがあり,字が刻まれています.寶篋印塔とかいてあります.これもまた好奇心をくすぐられてしまうものでした.調べたら,墓碑または供養のために建てる石塔で,五輪塔のようなものらしいのです.先端が完全に失われている状態です.一体誰が誰のために建てたのでしょうか.どうして壊れてしまったのでしょう.普通刻まれる文字は梵字だそうです.なぜ,わざわざ寶篋印塔などと書いたのでしょう.寶篋印塔は時代によって形が少しずつ違うそうで,どうもこれはやはり,江戸時代の始め頃のように思います.写真を見ると横面にも小さな文字が見えます.今度行ったら,これも見て来ようと思います.

水溜りに青空が映っています.